Download にいはお34号 2012年6月発行

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言葉 で結 ぶ 友好 の絆
川 国市 日本 中国友好 協会
理 事 長 栗原 喜 一 郎
沈 黙 の海
鉄骨だけを残 して
空洞 にな つた
ドラ ッグ ス トア の 向 こ うに
官城 県在住 、元 中学校校長 の菊 田郁 先 生 の
東 日本 大震 災 の 追悼 詩集 「沈黙 の海 」巻頭 詩
で あ る。 このたび の 大震 災 か ら一 年 余 り過 ぎ
たが 、私 はまだ被 災地 に訪 れ てい な い。 り│1口
市 日中 を始 め 幾 つ かの ボ ラ ンテ ィ ア 等 の 団体
揺れている
を通 じて 義援 金 を送 りま した が。
テ レビの 画 面 で瓦礫 の 山を見て 、 そ の 惨 状
はす べ て 解 つてい た つ も りで あ つたが 、 この
春 の光 を
たび 「沈黙 の海 」 を読 んで 、被 災地 の 人 々 の
苦 しみ 、新 た な悲 しみ を知 つた 思 い だ つた。
た く さん の命 を呑 んだ海 が
ゆ ら りゆ ら りと
まぶ し く返 しなが ら
ゆ ら りゆ ら りと
揺れてい る
“詩 "に よ つて 、作詞者 の心 が通 じた の だ 。
エ ッセ イ もよ いが 、 心 が通 じるの は詩 で あ る
と思 う。 同 じ詩 で あ つて も、 日本語 の新 体詩
だか ら私 の心 を打 つ た ので 、漢詩 、英 。独 ・
仏語詩 等 の 外 国語 の詩 で は、そ の 知識 の 乏 し
い 私 には ここまで感 銘 しないで あ ろ う。
感 情 、思 い 、 心 を言葉 に し、そ の 言葉 を文 に して送 る、そ して綴 られ た文 を読
む。 それ に よ つて 、人 の心 を知 り、理解 がで き る。 言葉 、文字 、文 の 読 み書 きが
人 と人 との心 の 絆 を結び 、友好 ・ 親 善 が深 め られ るの だ と思 う。 ここに 「語 学 を
学 ぶ必 要性 が生 じる」 のだ と、改 めて知 っ た 。
英語 の 教 師 が 、私 が 中学 4年 の とき の 担任 だ つ た 。昭和 20年 敗 戦 の 年 で あ る。
激 戦 が続 き、 国民総動員 の とき 「予科練 」 「予科 兵学校 」 を受験 す るた め願 書 を
も らい に行 く と、 「召集 され 戦地 に行 つてい るお 兄 さん に相 談 したか ? 手紙 を
出 して 、 返事 が 来 てか ら取 りに来 い 」 と言 われ た 。 返事 が来 た とき 、す で に願 書
は締 め切 られ て いた 。敗 戦 を予想 してい た のか と思 つ た 。 英語 教 師 だか ら国際的
視 野 で 考 え 、敗 戦 を 予想 で きた の だ ろ う。
坂本 隆太 郎顧 間 が川 国市 日中総会 の 開会十数 時 間前 に亡 くな っ た 。川 国市 日中
の創 立 者 、 中国語 教 室 の 開講者 で あ る。物 事 を 国際的視 野 で考 えて 、 国際平和 を
推進 し、中国 との 友 好 。親 善 を深 め るた めには 「語学 を身 につ け る必 要性 があ る」
と説 い て 開講 した 。 そ の 意思 を継 い で 中国語教 室代表 をは じめ 、 ス タ ッフ 、幹事
一 国 の努 力 に よ り、今年 は 35年 目を迎 えた 。 さ らな る発 展 を願 う。
「義 を見 てせ ざるは勇無 きな り」
川 国市 日本 申国 友 好 協会
事 務 局 長 lll藤 展 桁
「
先 日友人 の 孫 の 中学 生 に 君 は孔子 を知 って い るか 」と問 うと知 らな い とい う。
今 の 子供 達 は受験勉 強 でそ ん な こ とは 関係 な いか と思 う。 改 めて 調 べ てみ る と孔
子 は 2500年 前 の 人 で 当時 日本 は縄文 時代 で あ る。当時 中国 は鉄器 が 普及 され 、畑
を耕 す農 具 は農 業 を飛躍 的 に発展 させ た 。 生活 が潤 い 、交易 をめ ぐって 諸侯 (氏
族 国家 )は 皮 肉に も文 明 の 起源 で あ る鉄器 を武器 に変 えて対 立 抗 争 を繰 り返す よ
うにな る。 い わ ゆ る春秋 時代 であ る。 そん な乱れ た 環境 を憂 えた孔子 は 、世 の 秩
序 を保 つ た めに 道徳 を重 ん じて 儒 学 の 始祖 とな る論語 を表 した 。
「義 を見 てせ ざるは勇無 きな り」 はそ の 論語 の一 節 で あ る。 私 の 両親 は明治末
期 の生 まれ で 、孔孟 の 教 えは 当時 の 私 には有 難 くもな く何度 も聞か され て い る。
親 に 教 わ つた 子L子 の 教 えが い か に正 しくて も今 の 世 は欺 踊 に満 ち溢 れ 、そ の 欺朧
には 作為 の も とに手 もな くや られ て しま う無防備 な論理 に思 え る。「義」とか「勇 」
は人格 が伴 う言葉 で使 う人 に よ り半1断 の難 しい 言葉 で あ る。
「義 を見 てせ ざるは勇無 きな り」 の 言葉 を私 はず うつ と胸 の 内 に しまい こん で
きた。 自己研 鑽 に努 めて 耐 えて 内な る心 に しまい こめ る うちは良 い が 、他 人 に律
を求 めた らど うな るか 。 ま して 義 と勇 とを人 に伝 え るの は今 まで は味 わ っ た こ と
の な い 外 へ の 憤 態や るか た な い 感 情 が 高 ぶ る。
「FOJけ ど働 け ど我 が く ら し楽 にな らざ りじつ と手 を見 る」 、 これ で へ こた れ て
しま えばそれ までで 、本 当は これ か らが 出発 点 で知恵 と勇気 の 人生 にな つて い く
で あ ろ うと思 う。
260年 前 江戸幕府 が倒 れ鎖 国 が解 かれ 、武 士 が支配 した 縦害│り の封 建制 度 の仕
組 み が 外れ た 状況 、 ま さに新 しい 混迷 の情報 ラ ッシ ュの 中に い る。 「ざん ぎ り頭
をたた い てみれ ば、文 明 開化 の 音 が す る 」 の 言葉 とともに庶 民 は 日標 を失 い 救 い
を求 めて いた 。 そ こに 登場 したの が福 沢諭 吉 で 「学 問 のす す め 」 に表 して い る。
自ら助 くる者 を助 く、弱 き者 に光 を 当 て る。 それ は 自助 の 精神 、 自助努 力、独 立
白尊 と喚起 した 。 この 言葉 を全体 像 と捉 えて一 言 で表 す と今 の 日本 は普遍 的 な言
葉 に 突 き当た る ので はな いか と思 う日々 で あ る。
県 口中 を立 ち上 げ、川 口 日中では組織 作 りか ら結成 まで 多大 な情熱 を注がれ 、
中国語 教 室 開設 、中国友好訪 間団派遣 、貴州希 望 小学建設 、「にい はお 」発行 、た
た ら祭 り水餃子 実演販 売 、小学 生 親 子 の 中国大使 館訪 間 、 中国語 ス ピー チ コ ンテ
ス ト参加 、中国映画鑑 賞会 な ど 日中友 好 にそ の生 涯 を捧 げ られ た坂本 隆太郎 さん 、
私 た ちは草 の 根運動 の 灯 を とも し続 けます。
2
「に い は お 」 第
34号 発 刊 に あ た つ て
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川 国 市 日 本 中 国 友 好 協
川 口 中国語 教 室 代表
本 多 路
2月 11日 川 口市 日中友好 協会 の総 会 と懇親 会 の 当 日二 件 の 言卜報 が もた
らされ ま した 。一 件 は前 日の夜 、川 口 日中 の 前副会長 で顧 間 の坂本 隆太 郎
氏 が 逝 去 され た こ と、も う一件 は 当 日の 朝 、前川 口市長 で あ り川 口 日中 の
前会長 で名 誉会 長 の 永瀬 洋 治氏 が逝 去 され た こ とで した 。開会 の 前 、お 二
人 の ご冥福 を祈 り黙 祷 を さ さげ て 、会 は滞 りな く開催 され ま した 。永瀬 さ
んは 1999年 度 に名 誉会 長 にな られ て 以来 、懇親 会 で は よ くカ ラオ ケ を歌
われ て い たお 姿 を思 い 出 します 。坂本 さん には 、私 が この 中国語 教 室 を初
めて 受講 した 開講 式 の 日、栄町 公 民館 でお会 い しま した 。当時 は理 事 長 と
して 開講 式 に 出席 され てい たのです が 、会場 の真 ん 中 で ニ コニ コ しなが ら
新 受 講 生 を迎 えて くれ た こ とが 忘れ られ ませ ん 。それ か ら当時行 われ て い
た 、オ リン ピ ックセ ン ター で の一 泊研 修会 や 日光 へ 行 つ た 中国語 教 室一 泊
研修 旅行 な ど深 く心 に残 って お ります 。思 い 出は尽 きませ ん がお 二 人 の ご
冥福 を心 か らお 祈 りい た します 。
さて 、 中国語 教 室 の機 関誌 「に い はお 」 も 34号 とな りま した 。 私 が 初
めて手 に した 「に い はお 」 17号 は手 作 りで した。 27号 まで は発 刊 日近 く
の 日曜 日に、各 クラ ス 幹事 や 有 志 が 教 室 に集 ま り、み ん なで製本 を して 発
刊 して い ま した 。懐 か しく思 い 出 され ます が 、み ん なが協力 した 手 作 りと
い うよ さが あ りま した 。 2006年 か らは前 田 さん 、市東 さん 、 日村 さん が
「に い はお 」IB当 とな り原 稿 まで は 自分 た ちで 作 り、そ の 後 の こ とは印昂J
会社 に依頼す る よ うにな りま した 。発 刊 は楽 にな りま した が 製本 に携 わ ら
な くな つ た 分 「に い はお 」に対 す る愛 着 が うすれ て きた の で は な いか と心
配 に もな ります 。「に い はお 」制 作 に あた リー 番 困 る こ とは 原稿 が なか な
か 集 ま らな い こ とです 。受 講 生 の皆 さん もい ろい ろお忙 しい こ と とは思 い
ます が 、毎年 の こ とな ので ご協 力 よろ し くお願 いい た します 。
今 年 は昨 年 か らの 東 日本 大震 災 の 影響 を受 け、栄 町公 民館 の 金曜 日の 夜
入 F]Bク ラ ス の 開講 が 7月 6日 とな りま した 。 よって 、この 34号 には入
Ftt Bク ラ ス の 資料 は 掲載 され ませ ん 。 クラ ス が 開講 され て か ら名 簿 を配
ります ので ご 了承 くだ さい 。
目
次
郎桁 子
一展 路
喜
原藤 多
栗加 本
長長表
事務 鉢
理事 教
言葉 で結ぶ友好 の絆
「義 を見てせ ざるは勇無 きな り」
「に い はお」第 34号発刊 にあたつて
0 H
8 9 1
入 門 Aク ラス
クラス紹介
森 基悦・ 後藤和可子
老師プ ロフ ィール
唐
光蓮
老師的 一 句
唐
光蓮
事故 百遍 ,共 意 自兄
《
訳》読書百遍、義 自ら通ず
何 か学びた い
受講生随筆
高橋 モ リ子
申国語 を学び始 めて
伊藤 鉄哉
「発音 が うま くな りたい !」
佐藤 仁 志
叶野 一雄
中国語 を始 めた動機
健二
中国語 は じめま した
関
日高 靖子
中国語 を学ぼ う !?
初級 Aク ラス
クラス紹介
老師プ ロフ ィール
老師的一句
美子浜字
《
訳》漢字に関して
日中友好切手
鈴木 初枝
受講 生 ll■ 筆
三浦智恵子
再 びの体好
大橋 は つ子
中国旅行 で 中国語 を話せた ら
石原美和子
二相笑学 コ浜活
初級 Bク ラス
クラス紹介
波 田野勇治
丁
老師プ ロ フ ィール
苦
老師的一句
丁
蓄
来 日20年
石井 克 昌
受講生随筆 2年 目を迎 えての抱負
波 田野勇治
成都 へ の旅
つい に中国ヘ
三宅 悠汰
西公民館火曜夜 クラス
クラス紹介
青沼 利 興
老師プ ロフ ィール
張
凡
老師的 一句
張
凡
櫻花情姑
《
訳》桜へ の思い
井 上不二子
受講生随筆
盤古升天
《
訳》盤古が天を開く
井 上不二子
│]的 急性子教妹
我イ
杉浦 契子
t末 西
喜欧吃白
《
訳》好 きな食べ物
有賀 利男
上海 的姥負
《
訳》上海 の焼魚
青沼 利興
明庁播学コ的事
《
訳》ラジオ放送を聞いて学ぶ とい う事
本村 真 弓
市能灯是真是仮
《訳》LEDラ ンプ うそほん と
・医院
林
糸己十ヽ
軸ldllブ Lttp_EJ的 整偶
コ
ロ
いてい る接骨院
オ
ギが鳴
《
訳》
充実理想 的旅済 夏威夷島的三 天和欧胡島的三 天 早り
市東
夢旅行 ハ ワイ 島 3日 間 &オ アフ島 3日 間
協会水曜朝 クラス
佐 々木 由利 子
クラス紹介
老師プ ロフ ィール
1包
洋
佐 々木 由利 子
受講 生 随筆
我介観 一 下我参加 的彩虹 trF会
《
訳》私が参加 しているかけはじ会を紹介する
佐 々 木 由利 子
高共 的夢
《
訳》楽 しい夢
高塚 俊代
朱家角的回214
!
2
3
子洋滸
正
藤
佐 飽飽
4
5
6
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8
1
9
1
0
2
1
2
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3
2
4
2
5
2
7
8
9
01
男子
守文
II
35
36
37
38
4
4
5
4
6
4
7
4
白根
2
4
雅義 ,長 島 悦子
小原 春輝
小原 春輝
小林 桂子
小林 直美
后藤和可子
︲
4
明子
芳男
定兼
川俣
林
晴代
9
4
子 一
悦孝
島屋
K土
基悦 50
森
黒澤
宣捷
宣捷
光蓮
光蓮
黒澤
唐
唐
由美
1
5
由
美梅梅
田村
す
本
田正三
協会木曜朝 クラス
クラス紹介
老師プ ロフ ィール
老師的一 句
毎大有 一 些感劫
母 と娘 と中国語
受講 生随筆
上海有 一 今不可思波 的博物徳
勿政初志
《訳》初心にかえつて
我和中国
《訳》私と中国
老"
“活到老 学至」
有没有快示的束」
激?
《
訳》楽 しい刺激がありますか ?
活 Fll老 学到老
《
訳》命ある限 り学ぶ
協会木曜夜 クラス
クラス紹介
老師プ ロフ ィール
老師的 一 3 桂花瓢香的吋事
《
訳》金木犀の香 りが漂 う頃
受講 生随筆 2011午 曲阜・ 泰 山・ 済南 の旅
協会金曜朝 クラス
クラス紹介
老師プ ロフ ィール
老師的一 句
登泰 山看 日出
《
訳》泰山で日の出を拝む
受講 生 随筆
学渓通
勘之
錦涛
錦涛
0
4
《
訳》縁
セ ピア色 の色紙
「チャイナタウン神 田」
芳男・ 石井
王
王
受講 生 随筆
林
9
3
栄町水曜夜 クラ ス
クラス紹介
老師プ ロフ ィール
老師的 一句
嫁
A・
8
5
9
5
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6
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春成純
嘉可
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毛藤場
石佐大
協会金曜夜 クラス
クラス紹介
長澤 博高・ 小 山 実子
老師プ ロフ ィール
呉
英偉
老師的一 句
呉
英偉
快示学洪漏
早 い もので
矢澤 昭人
受講 生 随筆
山田 絹子
中国語教室 と電脳塾
加藤 恵 一
学浜活
加 藤 展桁
日本的現状
川 国市的房 史
《
訳》 日本の現状
│1口 市の歴史
《訳》メ
力什久 ?
弥好 :LET'S温 故知新
同学イ
l]
《
訳》同級生
日本語教 室
平 山 安次
黄 山が呼んだ
膏 オ モテ表紙 とウラ表紙 の写真 「空篠」説明
藍 編集後記 市東 文子
2011年 度 画報 日中かわ ぐち
編集 前 田 稔夫
つる 3
5
5
《訳》 中国語 の勉強
「地 震 的重 建 」 “中 国遣者 看 日本 "
加藤美智子
《訳》 「震災後 を歩 く」 “
海外 ジャーナ リス トが見た 日本"
Z③ 電
盆年
受漑生餘
入 Ftt
A
″ ス ク ラス
《クラス 紹介》
森 基 悦 。後藤 和可子
縁 あ つて 4月 3日 朝 、協会教室 に集 ま っ た男子 4名 、女 子 2名 は、第
35嬢 入 Ftt Aク ラスの 面 々 です。
女性優位 の 昨今 では珍 しく、男性 の多 い クラス です。志望動機 はまち
まちです が 、 一 致 してい るの は 「中国語 を学 ぼ う !」 とす る熱意 です。
それ に 、経験豊 か な唐 光蓬 老 師 を迎 えての ス ター トです。
条件 は整 い ま した。 あ とは外 国語習得 の為 の 四 つの “キ"「 暗記 」「根
気」「年季」「勇気」 に今 ひ とつ「元気 Jを 加 えて邁進 す るだ けです 。
倍 師壌ロフ ィー
「L》
唐
… 出身地 …
光蓮
…
中国 曲東省
誕 生 F1
寺
来 日日饉
7月 29難
1998年 7月
中国 4身 校
日本 で の職 業
ll「
来 日理 由
非 常勤講 師
登 山 ,読 書 ,旅 行
夫 の仕 事 の た め
0型
InL液 型
い
中圏人 民大学
四人 家族
家族
趣味
―
…
い
い
《老 師的 一 句》
弔漢 百遍 ,其 意 白兄
唐
光蓮
致学 耳渓悟 的朋友個
“事減 百遍 ,其 意 自兄 "源 干 中国 四大宙典名 薯之 一 [三 国志], 意思是悦
入門 A
不透 多 仏 雄 的文 章 ,只 要反 夏多漢 ,就 会慢慢 明 白其 中的意文。也 就 是悦学 璃
悟言 一 定要 多渡 、多背涌 、多秩 累 .申 国 白古 以来 ,一 宣比 較提侶 背涌遼 一 学
調方法。 即使 現在 ,在 申国的渓悟 、英選等 i・
li学 教 育 中 一 宜度用 着速 一 方法 。
ヨ功子我 ブ
L吋 背涌的婚果。
回想 越来 ,我 現在能背涌 下来的峯滞 、名句都 要リ
上小 学吋 ,背 涌悟 文深 文几平 是我個 毎周必有 的作並。 睡覚前我 一 逸理解 裸 文
的 内容 ,一 逸 大声 朗渡 几遍 ,早 晨醒来 1寸 嫡在床 上 像看 亀影 一 祥在朧海 里 回に
一 遍深 文 ,起 床 FE再 減両 、 三 遍 ,就 能憾住 了。 毎漢 一 遍 ,対 深 文 内容 的理解
会 有所加 深 ;当 l不 太 明 白的古典寺句 ,随 着年齢 的増長 ,1曼 4曼 理解 了其 中的
内涵。
后来逮紳方 法又度 用到 了我 的英悟 学 ヨ上 ,我 初 二 吋 的英悟 老涌 要求我個
背 涌毎篇 学道 的英悟深 文 ,我 一 宣 堅持 了一 年 ,査 到 更換新 的老輝 力 止 。在反
愛大声 朗渓的道程 中,海 多好 的句 子能 不 自党 地脱 口面 出 ,不 但省 去 了背単同
li・
的吋 同 ,述 自然地掌握 了文章的泳 絡 、介刊 、短瀬 的用 法 ,培 赤 了悟感。逮使
我的英悟学 コ示趣 元労 ,受 益匪浅
余所周知毎神悟言都 有官独 特的表込和釣 定俗成 ,只 有不 断秋累悟言葉材 、
活 学活 用 、 才能使 口語表 込 、会活能 力更上 一 層楼。成 年 之后的我個 ,身 上 肩
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負着杵 多重任 ,没 有太 多的吋 同寺 心 学 コ,如 果 毎天抽 出郷 五 分弊 的吋 溝
弔漢 百遍 ,其 意 自兄 "。 不
漢 一 峡所学世 的裸文 ,也 許会有意想 不到的攻荻 ! “
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信体 来拭拭群
読書 百遍 、義 白ず か ら通ず
― 中国語 を学ぶ友達 ヘ
「読 書 百遍 、義 自ず か ら通ず 」 とい うの は 中国 囲大 古典名作 の一 つ『 三 国
志 』 の 中 にあ りま した。 どん なに難 しい 書物 で も、何 度 も何度 も読 めば 、理
解 で きる よ うにな る とい う意 味です。 つ ま り言語 を習 うた めに 、 た くさん 読
む 、 た くさん暗記す る、それ をた くさん積 み重 ね る こ とが必要 で す。 中国 に
お け る学習方 法 の観念 と して 、以前 の 中国 では 、一 番 良 い 学習方法 は「読む 、
暗 唱す る」 こ とで あ りま した。今 で も、 中国 で は 中圏語や英語 な どの 言語教
育 に この 方法が よ く使 われ て い ます 。
振 り返 つて み る と、今私 の 覚 えて い る有名 な詩 句 はす べ て子 供 時代 に暗記
した賜 物 です 。 小学校 時代 に 、 ほぼ毎週 中国語 の 暗唱 の 宿題 を出 され て い ま
した。夜寝 る前 に本文 の 内容 を理 解 しなが ら、大 きな声 で数 回音読 し、朝 目
が 覚 めた ら、ベ ッ ドで本 文 の 内容 を思 い 出 しま した。 起 きて、 また 二 、 三 回
読 んだ ら、 も う覚 えま した。 これ は 自分 の勉 強法 の一つ で した。 fnT国 も本 文
8
人間
A
を読 んでい る うちに、本文 の 内容 の理 解 が深 くな り、 当時分 か りに くか つた
古典詩 句 も年齢 とともに 、 だん だん 分 か る よ うにな りま した。
中学 生 にな って も、 この 暗唱法 をまた英語 の 学習 に活 用 しま した 。 中二 の
英語 の先 生 に も学習 した 英 文 の 暗唱 を求 め られ ま した 。 ほかの クラ ス メー ト
が続 けて い るか ど うか は知 りませ んで したが 、 自分 は 英語 の 先 生 が 替 わ るま
で ず つ と続 けま した 。繰 り返 し読 んでい る内 に 、 自分 が なかなか思 いつ か な
い 良 いセ ンテ ンス も 日をつ いて 出 るよ うにな りま した。 新 出単語 の 暗記 す る
時 間 を省 く こ とだ けで はな く、文脈 を 自然 に把 握 し、前置詞や フ レー ズ の 用
法 を身 に着 けた り、文 のセ ンス を磨 いた りす る こ とがで きま した 。 当時 の私
は ま るで小 さな魚 の よ うに英語 の 世界 で 自由 自在 に泳 ぎ、思 う存分楽 しめま
した 。 幸せ い つぱ いで した。 (し か し中三 にな つた ら、英語 、数 学 、国語 の先
生方 が入れ 替 わ りま した。新 しい英語 の先 生 との相性 が合 わなかったせ いか 、
英文 の暗唱 を中断 しま した。 当時 の私 は幼 かつたなあ と今 も後悔 しています。
で も英語 を含 む言語 の 勉強 をす る楽 しさは忘れ られ ませ ん。)
ご承知 の よ うに、それ ぞれ の 言語 には特有 の表現や ル ール 、定 めが あ りま
す。 絶 えず言 葉 の 素材 を積 み重ね 、そ して生活 の 中 で応 用す る こ とこそ 、言
葉 の表 現 、 コ ミュニ ケ ー シ ョンの能力 を さ らに レベ ル ア ップ す る こ とがで き
るで しょ う。 大人 にな っ た私 た ちは 、 た くさん の 責任 を背負 つていて 、勉 強
に集 中す る時間 があま りあ りませ んが 、毎 日た とえ五 分 で も時間 を見 つ けて、
習 つ た本 文 を朗読すれ ば 、 き つ と思 いが けな い 良 い 効果 を収 め るこ とがで き
るで しょ う。「読書百遍 、義 自ず か ら通ず 」。 今 か らや って み ま しょ う
!
《受講 生随筆》
何 か 学 びた い
高橋 モ リ子
仕事 か ら離れ 自由な時 FF3が 出来 ま したので 、何 か 学 びたい と思 つて お りま
した。「広報 かわ ぐち」で 中国語教 室 を知 りま した。 中国語 は全 くわ か りませ
んが 、教 室 の曜 日と時間 が都合 良 い とい うだ けで、記憶力 の衰 え も考 えず に
申 し込んで しまい ま した。
後 か ら考 えてみ ます と、 中国語 を選 んで 良 か つた と思 い ます 。 ご近所 に中
国出身 の 方が 2家 族 い らっ しゃ い ます 。 来年 は地区 の班 長 の 当番 が廻 つて 来
ます 。会話 を しな けれ ばな りませ ん。 そ の 方は 日本語 を話せ る方 とは思 い ま
す が 、 中国語 で会話 が 出来 た ら うれ しい です 。先 生 もクラ スの皆 さん も素敵
な方 々で 楽 しいので頑 張 つて み たい と思 い ます。
人間 A
中国語 を学び始 めて
伊藤 鉄哉
中国語 の発 音 が 日本語 とあま りに も違 うの にび つ く り。 老師 も幹事 さん も
発音 は初 めが肝 心で 、声調 を正 しくマ ス ター しない と相 手 に通 じませ ん よ、
聞 き取 りもで きませ ん よ と繰 り返 し言 われ て 、励 ま して くれ てい ます。 そ う
い えば 、初 めて 米国 に行 つ た時 、 自分 の英語 が全 く通 じず 、相手 の言 うこ と
も さつ ぱ り分 か らな くて衝撃 を受 けた こ とが あ りま した。 まだ 、本 当に初 め
の一 歩 で す が 、 こん な に発 音 を熱 心 に教 えて い ただ け る とは ラ ッキー と思 い
つつ 、 とにか く遅れ な い よ うに つい てい こ うと思 つてい ます 。
3年 前 か ら太極 拳 と気 功 を始 めま したが 、いずれ も中国語 が色 々 出 て きます。
気功 の鍛錬 方法 で 、 六字訣 とい う六つ の 文字 (嘘 ・ 呵 ・ 呼 ・ 咽 ・ 吹 。導 )を
発 声す る功 法 が あ ります 。 そ の 中 で 「嘘」 と 「嬉 」 の発 声 は 日本語 で 書 くと
いずれ も「シー 」 とな るので す が 、中国語 では 日の 開 け方 がそれ ぞれ 異 な り、
これ は こ うと言 われ るまま にや つてい ま した。 今 回 ピンイ ン を習 い 始 めて 、
あ い ま い な ところが補 完 で きそ うです。
定年 退職 して 11年 、71歳 の 手習 いです が 、楽 しみ なが ら少 しず つ 身 につ け
られ た らと思 つています。
「発音 が うま くな りた い
!」
佐藤 仁志
い
ジオ
この
NHKの
が
めた
に通
は、以前
ラ
私
始
講座
動機
講座 で 1か 月 ほ ど
学 び ま したが 、発音 が うま くで きず途 中 で挫折 したか らです。
今年 2月 に台湾 に行 つた こ とで、 きちん と話せ る よ うにな りた い と再び思
い た ち、参加 しま した。
や は り中国人 の先 生 か ら直接 学 ぶ しか 、発音 は上手 にな らな い とつ くづ く
思 い ま した。唐 先 生 の 教 え方 は非常 に丁寧 で 、発 音 の ミス もき つ ち り指摘 し
て くだ さるので 、助 か ります 。
四声 (特 に 2声 と 3声 の違 い )、 そ り舌音 な ど難 しい 発音 ばか りです が 、
世界 には こん な言語 もあ る のか と、 「違 い 」 そ の もの を楽 しむ よ うに、お風
呂場や通勤途 中な ど暇 を見 つ けて は勉 強 して い ます 。 (声 に 出 して 練習 して
い る と、家族 か らは気持 ち悪 が られ ます が。 )
いつ か少 しは 中国語 を話 し、相 手 の話 して い るこ とを理 解 で きる よ うにな
る のか ど うか は定 かで は あ りませ んが 、前 に進 んでい る うちは 、 つ ま り勉 強
して い る うちは、そ の域 に近 づい てい る こ とを信 じて頑 張 りた い と思 い ます 。
10
入門
A
中国語 を始 めた動機
叶野 一 雄
へ
5年 前 、友人 と桂林 旅行 に行 きま した。広州 で乗 り継 ぎの 際、現地 ガイ ド
と会 えず 、言葉 も通 じず 、 空港 内で 1時 間半 ウ ロ ウ ロ し、途方 に暮れ ていた
とき捜 しに来 たガイ ドに発 見 され 、無事 に桂林 に着 くこ とがで きま した。 こ
の時 、言葉 が解 らない不 自由 さを痛切 に感 じま した。
いつ か再 び 中国 に行 き、現地 の人 たち と少 しで も会話 が 出来れ ば と思 って
い た ところ 、市 広 報 で 中国語 教 室 を知 り参加 させ て頂 きま した 。 よろ しくお
願 い します。
中国語 は じめま した
!
関 健二
私 は 、国内外 に 中国人 の友人 がた くさん い ます 。彼等 は 皆 日本語 が堪能 で 、
意思 の疎通 には事欠 きませ ん。
しか し、 中国旅行 の 際食 事会 。買 い 物等 で 申国語 が飛 び 交 うな かで 、言葉
が理 解 出来ず 孤独感 を覚 える事 が 多 々 あ りま した。 前 々 か ら、 中国語 を学 ば
ね ば と思 つてい る とき、市 広 報 で この講座 を知 り参加 させ て頂 きま した。
発音 の難 しさに 戸惑 つて は い ます が 、熱 心 な老師 の ご指導 を受 けて頑 張 つ
ていま す。 宜 しくご指導下 さい。
中国語 を学 ぼ う !?
日高 靖子
今回 中国語 を学 ぼ うと思 つた の は、 ほん の軽 い気持 ちか らで した。
昨年 思 うところが あ って 仕事 を辞 めま した 。 好 きに使 つて 良 い 自由な時間
が うれ し くもあ りま した が 、数 か月経 ち、頭 が空 っぱ に !こ れ で は い けな い
と思 い 、 た また ま見 た広 報 に中国語入 門 の募集 が あ り、以前 か ら語学 に興味
もあ り、 さつ そ く申 し込 んだ 次第 です 。
まだ始 めた ばか りです が 、明 る く元気 な先生 に励 ま され なが ら、頑 張 ろ う
と思 い ます 。
11
初級 A
ク 彦 ス ク ジス
《クラス紹介》
佐藤 王 子
今年度 の初級 Aク ラ ス (青 少年 会館 )は 、昨年度 の入 門 A修 了者 6名
と初級 Bク ラス再受講者 1名 、そ して 新 たな編入者 3名 、計 10名 のス タ
ー トで した。 昨年 度 に続 き、飽 老師 の ご指導 の も と、 70才 以 上 パ ワー 5
名 {内 、 たった 1人 の男性 (大 事 に します )}、 70才 以下 パ ワー 5名 。和
気 あ い あいの雰 囲気 で 始 ま りま した。 10名 が一 年 間 “学コ渓悟 "の 同学
で ある こ とを願 ってい ます 。 皆様 ど うぞ よろ しくお願 いい た します。
《壱 師 7ロ フ ィー ″
ι》
飽
洋
―
―
出身 地
誕生 日
上海
来 日 同時
1992年
中国 出身 校
上海 師 範 大 学
家族
夫 、 息子
日本 での職 業
日本 語講師 ・ 弁護 士 事務
所 ア ドバ イザ ー
趣味
料 理 を作 るこ と、文章 を
書 く こ と、 ダ ンス
夫 が仕事 で 来 日の た め
画商 、エ ッセ イ作 家
5月 24日
来 日理 由
夢
…
…
一
94
初級 A
《老 師的一句》
美子浜字
飽
洋
大 家都 知道 浜字是根 久 以前炊 中国倍 到 日本来 的 。来 中国的 日本人 一 看街
上 的招牌和餐 FT的 菜単 ,大 致能 明 白所 以可 以松 一 口気。 当然 ,中 国人来 日本
艮使看不憧俄 名 ,看 到浜字 也会党得彼来切 。
「
,
但是餐述漫長 的夢 月 ,日 本 的決字 ,中 国的沢字都起 了変化 。有 上 海 的朋
友相 当仔編地調査 了 日本 的浜字 ,し ヒ如悦洪活 的 “免 費 "日 活称作 “元料 ",“ 牧
費 "称 作 “有料 "。 子是他拍着胸肺悦 :去 日本完全毎 同題 。碗 実炊文字 上 看
“元料 "即 “料金元 ",“ 有料 "目「 “料金有 ち 可是如果作力 中 国的洪字 ,首 先
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肪子里 反鹿 的是 “材料元 ,材 料有 "。
ヒ如 日活 的 “上 手 "在
逮述算是容 易憧 的 ,也 有看 了半天不知所 以然 的 。 し
洪活里是 “升始 /夕 反利 "之 意 ;日 悟 的 “下手 "在 浜濡里是 “劫手 /助 手 "之 意
意 思完全不 同了 。“勉張 "也 一 祥 ,沢 活里有 “不満/張 制 "之 意 ,多 用 子否定 。
但 是 日活里 却是 “学 コ "之 意 。把 二 者 錆合起 来 ,可 以悟 到学 コ君 子大 多数人
,
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男外 ,述 有 友音相似 容 易 引起 俣会 的悟吉 。朋友 約丈夫畔乎 乎 的 ,朋 友 一
宣来熱地称他 “畔子 "。 朋友 図1来 日本不久 ,去 丈夫大 学研 究室玩 ,老 逓看兄 自
己的丈夫 ,大 声招呼 :鮮 子 !同 学イ
│]忍 禁 不住 :逮 年経 的太太逐挺 色 。炊此
逮今笑透成カ ー 今 径 典 。
上 次砧 到 一 今在 中 国汗 工 的 日本人 ,他 一 年 中有 半年 吋 同在 上海 ,有 吋
一 句活 :本 次列牟 。元稔 悠 次 折 ,都 是 日悟 的 “ベ
候得 坐 火奪 ,声 播里有 速祥「
,
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越学越有趣味 。
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共 一 道亮雨 的凩景銭 。
13
初級 A
漢字 に 関 して
皆 さん ご存知 の よ うに漢字 は昔 、 中国 か ら日本 に伝 わ つて きま した。 中国
に来 てい る 日本人 は町 の看板 や レス トラ ンの メニ ュー な どを見 る と、大筋分
か るので少 しほっ とす る と思 い ます 。 もちろん、 中国人 は 日本 に来 て 「ひ ら
が な 。カ タカナ 」 を読 めな くて も、漢字 を見て親 しみ を感 じま す。
しか し、長 い年 月を経 て 日本 の漢字 も中国 の漢字 も色 々変化 してきま した。
上海 の友達 は 日本 の漢字 をかな り丹念 に調 べ た よ うで 、例 えば 中国語 の 「免
費」 は 日本語 で 「無料 」 、 「収費」 は 日本語 で 「有料 」 と言 い ます 。 「 日本
に行 つて も、企然 問題 ない。 」 と彼 は胸 を張 つて 言 い 切 ります 。確 かに文 字
だ け見 た ら、 「無料」 は 「料 金 無 い 」、 「有料」 は 「料金 有 り」 と理 解 して
もよい です 。で も、中国語 の文字 として見 る とき、す ぐ思 い浮 かんだ の は 「材
料無 い 、材料有 り」 です。
これ はまだ 分 か りやす い文字 です が 、見 て も ピン と来 ない もの もあ ります 。
例 えば 、 日本語 の 「上手」 は 中国語 で 「始 める 。順調 」 の意味 で 、 日本 語 の
「下手」 は 中国語 で 「手 をつ け る 。助 手」 の意味 な ので 、ま っ た く異 な る言
葉 にな ります 。 「勉 強」 とい う言葉 もそ うです 。中国語 では 「無理 に強 い る 。
いや いや なが ら」 の意味 で否定文 に用 い る こ とが多 いので す が 、 日本語 では
「学習」 の意味 です。 二つ の意味 を合 わせ て 考 える と、大勢 の人 に とつて 学
習 は心か ら喜 んでや る こ とではな い と悟 りま した。
ほか には 、発 音 が似 ていて誤 解 を起 こ しや す い 言葉 もあ ります 。友達 の ご
主人 はふ くよかな人 で 、彼女 はい つ も伸 良 く「PANG ZI(月 に半 とい う字 と子 )
意 味 はデ ブ 」 と呼んで い ます。彼 女 が 日本 に来てま もな く、 ご主 人 の大学 の
研 究 室 に遊び に行 つた時 に 、遠 くか らご主人 を見 かける と、 「Hi,PANG ZI」
と大声 で呼び ま した。 回 りの 人た ちは 「この若 い 奥 さん 、 い ろ っぽいですね」
とび つ く りして 、思 わず 笑 い 出 して しまったそ うです 。 それで 、 この 笑 い話
は も う友達 の 間 では経典 にな り、盛 り上 が りのネ タにな つてい ます 。
先 日、 中国 で工場 を作 つた 日本人 に会 い ま した。彼 は年 に半分 ぐらい上 海
にい るので簡 単 な 日常会話 は支障 な く話せ ます が 、時 々乗 る列車で車内アナ
ウンス を聞 くと 「この列車 …… 」 の発 音 、 中国語 で 「ben ci lei che」 と言
い ます が 、 日本人 の仲 間全員 が 「ベ ンチ レー ター 」 に聞 こえ る と彼 は苦笑 い
しま した。
14
初級A
同 じ意味 の文字 、違 う意味 の文字 、誤解 しや す い発音 が 沢 山存在 して い ま
す が 、言葉 を勉 強すれ ばす るほ ど面 白さを感 じられ ます 。
い ま、上海 の 町では 日本語 の漢字 もひ らが な 。カ タカナ もそ の まま使 われ
ています。看板 に大 きな面 白み の ある文字 を眺 めて 、意味 が分 か らな くて も、
お しゃれ だ と思 い ます 。 ま さに 、 日本 語 は上海 の 町 の エ キ ゾチ ックな風景 の
一つ にな つて い る と実感 してい ます 。
《受講 生 随筆 》
日中友 好 切 手
鈴木 初枝
皆 さんは 日中平和友 好 条約 30周 年記念 の切 手 が発行 され て い た こ とは ご存
知 で したか ? 知 らなか っ た の は私 だ け ? はたまた知 っていて も飛び つい
たのは私 だけ ?
そ の切 手 は 、 2008年 に発行 され 、80門 切 手 10枚 が 1シ ー トです 。 うち 4
枚 は 、私 の 大好 きな平 山郁 夫画伯 の絵 画 で 、そ の 中 の 1枚 に私 が去 年訪 れ た
敦建 の英 高窟 「九層楼 」 が描 かれ て い ま した。 そ して 隣は 「法隆寺 五 重塔 」。
ちなみ に今年 は 日中国交正常化 40周 年 です よね。私 が郵便局 でたまたま 見
つ け、買 つた の は 2012年 5月 7日 。ひ ょつ と した ら今年 も何 か記念切 手 が 発
行 され てい る のか しら。
再 び の体好
!
三浦
智恵子
2000年 12月 23日 、 “錯立 i■ 弔 "を 頂 き、早や十余年 。 ここ数年 、脳 の活
性 化 、 △△ 防 止 の 文字 に ス グ反応 してい る 自分 に苦笑 してお ります 。 そ の よ
うな こ とで 、以前 、 テ レビか 新聞 で脳 の活性 化 な どに語 学 が 一番 !の 文字 を
見た こ とを思 い 出 し、 自分 の歳 を気 に しつつ 入会 させ ていただ きま した 。
一 昔前 、や つ と覚 えた 単語 もほ とん ど記 憶 か ら消 え、 これ か らまた 一つ ひ
とつ ……。 そ して 苦手 な四声 とも懸命 なお付 き合 いが 始 ま ります 。
現在 は教材 用 のテー プが CDに 替 つてい る こ とに も時代 の流れ を感 じなが
ら 1カ 月 が経 ちま した。
皆様 お世話 にな ります 。 ど うぞ よろ しくお願 い 申 しあげます。
15
初級 A
中国旅 行 で 中国語 を話 せ た ら
!
大橋 はつ 子
60才 を過 ぎてか ら中国語 教 室 に参加 し、す でに 半年 が 経 ちま した。 どの く
らい■ 達 したか は 、 はな はだ疑間 です 。勉 強 して も時 FH5が 経 つ と悲 しい く ら
い に忘れ て しま うの が 現状 です。 しか し教室 に参加 す る こ とが FJJみ にな り、
投 げ出 さず に続 けてお ります 。
7・ 供 の 頃 よ り圏語 の授 業 で漢文 の 朗読 を FIHき 、また 日本 史以前 の 申国人陸
の 歴 史に触 れ 、 申困 の 大地 に強 い 憧 れ を抱 いて い ま した 。最近 にな つて 中国
旅行 の ツア ー に参加 し楽 しんでい ます 。
担任 の鮭老師 の誠実 なお 人柄 や 丁寧 な授 業 のお 陰 で 、 これ か らも気持 ちが
折れ る こ とな く続 け られれ ば …… と思 つて い ます 。 そ して 中鰯語 で 中国旅 行
を さ らに楽 しみた い と願 つて い ます。
互相笑 学 コ浜濤
石原
美和子
大家好
│]常 悦元稔学 コ什 久外活 ,第 一 年
我 炊去年 七 月参加 了逮今洪濡 教室 。人イ
進歩彼快 。及第 二 年芳始避 歩就慢 了 。
11第 二 年 的班有 吋滅題脱軌 ,有 吋徹 作文錆 了互相 笑学 コ根 高共 。
我イ
跨進第 二 年 的障碍 想早 点りL升 始在 外 国生活 。在外 国生活対我来悦不方
ι
便 ,可 是我感 rl14罠 除快 。
:
16
初級 B
β ク ラス
″疲ゝ
《クラス 紹介》
波 田野 勇治
クラス か らの進級者 9名 と他 クラス か らの転級者
私達 の クラス は入 F電
5名 の合計 14名 です。
下は小学 生 、 上 は … ??の 幅 広 い年令構成 とな つてい ます 。
丁先 生 の レ ッス ン は 、笑 い を中心 に 、 テ キ ス トに限定 され る こ とな く、
実用 的 な会話力 の 習得 を 目指 した 内容 とな ってい ます 。
皆 さん、 中国語 の さらな る上達 を 目指 し頑 張 りま しょ う。
Qノ
《者 師 7ロ フ ィーfL》
丁
青
出身 地
誕生 日
―
Jヒ
詭録Qノ電録
貰
貫
10月 11日
来 日 同時
1992年
中国 出身 学 校
北方 交通 大学
日本 出身 学校
獨 協大学
―
―
―
《老 師的 一 句 》
来 日
20年
丁
書
一
弾指 揮同 ,今 年 5月 ,我 来 日整整 20年 了 。tL我 感慨的是人生能有几今
20年 曖 !我 決心 炊真正的意叉上 倍佛 ,只 求道 一今平安的 日子 。昴珈大家 。
17
初級 B
《受 講 生 随筆 》
2年 目を迎 えて の抱負
石井 克 昌
大 家好 │ま ず は、昨年 1年 間丁老師 を始 め、幹事 の 吉 田 さん 、武 田 さん 、
お よび クラ スの 皆 さん大変 お世話 にな りま した。 毎 回遅刻 で ご迷惑 をお 掛 け
しま したが 、いつ も温 か く受 け容れ て 頂 きあ りが と うございま した。1番 の 思
い 出 は 、秋 開催 され た 中国語 ス ピー チ コ ンテ ス トです 。コ ンテ ス ト当 日は少 々
緊張 し、練 習 の成果 を十分発揮 で きませ んで したが 、毎 日、会社 へ の行 き帰
りの 電 車 で丁老 師 に吹込 んで も らった テ ー プ を何 度 も何度 も聞 き返 しなが ら
シ ャ ドー イ ング を したあの 頃 が懐 か しいです。 クラ スの仲 間 とも休 日返 上で 、
合 同練 習 も しま したね。 そ して 、 コンテ ス トでは悠汰君 が 、「埼 玉 テ レビ賞」
を見事受 賞 して くれ ま した。 打 上 げ も盛 り上が りま した よね。
さて 、今年 の僕 の 目標 は 、全授 業 へ の 出席 と復習 の習慣 作 りです 。 とい う
の も、今年 の正 月以降 は授業 にほ とん ど出席 で きず 、1年 目の 教科書 の後 半 は
消化不 良 の ま まです 。2年 目に入 る と、テ キ ス トの 内容 も濃 くな り、丁老 師 の
指導 も一 段 と実践的 で厳 しくなつて きた よ うに思 われ ます 。初年度 のお さ ら
いの 小テ ス トも毎回 あ ります 。残念 なが ら、本 目現在 まだ 第 1課 も ク リア し
ていない 状況 です。 しか し、そ の小 テ ス トを 1段 ず つ ク リア してい けば、確
実 に中 国語 の基礎 力 は上 が る もの と信 じて頑 張 らな くて は。 そ の上 で 、授 業
に集 中 し、教 室 で 教 わ っ た こ とはそ の ま まにせ ず 、復 習す るよ う心 掛 けた い
と思 い ます 。
さらに 、 中国語 学習 に 関連 し、今年 は次 の 3つ の こ とに挑戦 して みた い と
思 い ます 。
1つ めは 、丁老師お よび クラ スの皆 さん と中国大使館 (六 本木在 )近 くの 北京
ダ ックの美味 しい お店 へ食事 に行 くこ と。 2つ めは 、健康作 りの一 環 として、
太極 拳 に挑 戦 してみ た いで す。川 口 日中友 好 協会 また は各 中国語 クラ スの 老
師 、 メ ンバ の 中に太極拳 をや られ てい る方 がお りま した ら、是非私 も仲間 に
入れ て 頂 き、手 ほ どき願 えれ ば 幸 いで す。3つ めは 、中国文化 や思想 、並び に
中国 ビジネ ス を研 究す る こ とで す。「論語 」 を改 めて 読 んで み た いで す し、中
国 ビジネ スの 動 向 につ いて はア ンテナ を高 く し、最新情報 の収集 に留意 して
い きた い と思 い ます。
ともあれ 、丁老師 、クラ スの 皆 さん本年度 もど うぞ よろ しくお願 い します。
引続 き、楽 しくや つてい きま しょ う。 訪l謝
18
!
初級 B
成 lllへ の 旅
波 田野 勇治
へ
パ
2010年 12月 、成都 の旅 の 目的 は ン ダに逢 うこ と。
成都 の空港 か らタクシー に乗 り込み 、街 の 中心 にあ るホテ ル ヘ 向か つ た。道
は渋 滞続 きで 、 なか なか 目的地 には到 着 で きな い。 辺 りもだん だん 薄暗 くな
つて きた。
今 回 は、妻 と当時 5歳 の娘 と私 の 3人 旅。娘 は物心付 く前か ら海外 を連れ 回
していたた めか 、今 回 の旅 もす つか り慣れ た様子 。
まだ まだ 、時間 が掛 か るかな … 、 と思 つてい る と、運転 手が何 か を言 い 出 し
た。 この 当時 は 中国語 が 話せ なか ったので 、何 を言 つて い るのか を全 く理 解
で きなか つた。 ど うや ら、「降 りろ」 と言 つて い るよ うで ある。 まだ、 目的地
のホテル で はな い こ とは辺 りの 雰 囲気 を見 る と明 らかで あ っ た 。何 ?何 故 ?
意 味 がわか らず少 々パ ニ ック とな つ た 。英語 も中国語 も通 じない 、 とにか く
「降 りろ」 と言 うこ との よ うで あ る。 仕 方 な く、運転 手 の名前 と車 のナ ンバ
ー を控 えて下車す る こ とと した 。 ク リスマ ス を迎 え る頃 の夜 の成都 は寒 かつ
た。 言葉 も今 い る所 もわ か らな い。 この後 ど うな って しま うのか ?不 安 な気
持 ち の まま、車 は走 り去 り、路 地 に入 つて行 った。
「で もお金払 つて な い よね ?」 とい うこ とは、この まま い な くな って しま う
こ とはな いのか な と思 いつつ 、車 が 入 つて い つた 路地 を後 か ら追 うよ うに入
つてい つて み た。何 と、車 は給油 の ため ス タ ン ドに立 ち寄 つてい た ので あ る。
そ こは一般 向 けではな く、 タクシー 専用 のス タ ン ドの よ うで あ った。 10分 ほ
どす る と車はまた戻 つて きて、再 び 乗 車 し、無事 ホテル に着 く こ とが 出きた。
日本 で は 客 が乗 車 中 に ス タ ン ドに寄 る とい う経験 はな く、聞 い た こ ともなか
つ たが 、 日本 で はあ り得 な い こ とが 中国 では普通 にあ る の だな と感 じた一件
で あ つ た。 で も、 ど う して 、下車 しな けれ ばな らなか つ た のか ?規 則違反 な
のか ?そ れ は今 で も謎 であ る。
翌 日、郊外 にあるパ ンダ基地 に行 き、数 多 くのパ ン ダが遊 んだ り餌 を食 べ た
りす る様 子 を間近 で 見 るこ とがで きた。 また 、 とて も高額 な育成 費用 な るお
金 を払 い 、抱 っ こや 写真 撮影 をす る こ とがで きた。 子供 パ ン ダ とい うこ とで
あ つ たが 、現れ た パ ン ダ は 1歳 で あ るに もかかわ らず 、娘 の 体重 の倍 以 上 は
あ る と思 われ る大 きな パ ン ダで、娘 は少 し怖 が つて しまい 、残念 なが ら積極
的 に楽 しむ こ とはで きなか つ た 。 私 は 、 ここぞ とばか りに、 パ ン ダ を膝 に乗
せ た り、頬ず りした り、 くす ぐつた り、 い じく り放題 させ て も らつた。
日本 では 出来 な い 貴重 な体験 を した こ とは 、深 い 思 い 出 になった。また行 き
た い 場所 の一つ とな つた。
19
初級 B
つ い に 中国ヘ
三宅 悠汰
ぼ くは今年 の 4月 、 つい に中国 の北京 に行 きま した。 中国語 を習 つてい な
けれ ば、 この年令 (11歳 )で 行 くこ とはなか った と思 います。
中国 では治安 が,い 配 だ つた の と初 めて行 くのでお母 さんが ビビってツアー
を選びま した。 中国 に着 いて 一番始 めに ビ ック リした ことは北京 国際空港 の
大 きさです。東京 ドーム の 3倍 くらい あった と思 い ます。 また京劇 を見ま し
た。 お面がお も しろかつたです。 中国語 で言 つてい るので よく分 か らなか っ
たけれ ども雰 囲気 はよ く分 か りま した。北京 ダ ック も食 べ ま した。外 がパ リ
パ リでつ ける ミソダ レがおい しかったです。 ち ょつ と日本 の味 とちがいが あ
った ので 「これが中国 の本場 の味なんだ」 と思いま した。
そのほか鳥 の巣や ひす い (中 国 で とれ る鉱石 )な ども見 た りさわつた りし
ま した。故宮や万里 の長城 な どの世界遺産 にも行 きま した。 ツアー で行 つた
ので行 く所 には 、日本語が話せ る人がい て 中国語 は 「多少銭」や 「謝謝」、「対
不起」な どしか話せませんで したが 、通 じたので うれ しかつたです。
中国 に行 つてみ て とて も楽 しかつたです。また行 つてみたい と思 い ま した。
つ ぎは ツアー に入 らず に 自分 で会話 した り、人 に道 をたずねた りしなが ら行
つてみたいです。そ のために も、 もつ と中国語 を勉強 したいです。
20
西公民館火曜夜
/4t層 ″ 火 層 夜 ク ラス
《クラス 紹介》
青沼 利興
今年 は、長 年勉 強 され て こ られ た早川 さんが事 情 に よ り “卒業 "さ れ
た代 わ りとい うわ けではな いで す が 、 中国 で仕事 を されす で に流暢 な中
国語 を話 され る都築 さんが入 つて こ られ た ので 、結局人数 は変わ らず 、
男性 5名 、女性 5名 、計 10名 で ス ター トしま した。 いつ もア ッ トホー
ム な雰 囲気 で授 業 が進 め られ 、難 しい 深本『 洪悟 国語速成』 に取 り組 ん
でいます。
深本 は “速成 "で す が 、授 業 は “
慢慢成 "“ 一 歩 一 歩進歩 "で 張凡老
用 が着 実 に丁 寧 に教 えて くだ さ り、特 に3/T活 、会透 、聞 いて 話す こ と
を心がけ るよ うに諭 され てお られ ます 。
今年 こそは、
『 浜浩 口活速 成』 をなん とか終わ らせ て 、 さ らな る一 歩
を踏 み 出 してい け るよ うに したい と考 えて い ます 。
堅持就是 力量 ,我 個 一 起 学 コ曜
│
《者師 7ロ フ ィーrL》
張
凡
―
―
出身 地
誕生 日
12月 2日
来 日 同時
2003年
中国 出身 学 校
今 の職 業
武 漢 中南 財 経 政 法 大 学
家族
趣味
南京
中国語 講 師
夫・ 息子
料 理 、子 供 に絵 本 を読 み 聞
かせ
来 日理 由
夢
…
…
留学
いい 中国語 先 生 に な りた い
…
…
21
西公民館火曜夜
《老 師的 一 句》
櫻 花 情 編
張
凡
我喜欧花 ,尤 其喜欧賞櫻花 ,逮 不供 因力櫻花有着士我感功 的美 ,述 有我
対櫻花杯有 一 神特 男J的 情 鮎 。
id得 第 一 次看 到櫻 花 是我在武洪上大学 的吋候 。 武洪大 学校 囲里有許 多櫻
花村 ,毎 逢櫻花盛 弄的吋市 ,慕 名前来 自賭櫻花凩采 的武浜 市 民意是絡祭不純 。
当我把 賞櫻花 的想法眼几位 好 友 一 悦 ,大 家 一 拍 民
口合 ,立 Ell行 動起 来 。t己 得那
天 ,我 イ
│]彼 早就 坐上 公共汽 奪 ,換 了再 次奪 ,路 上花 了一 今 多小 討オ来到武洪
│]図 1辺 選校「
大学 。我イ
1,透 違地 就看 兄 一 片片触若 云霞 的櫻 花族据 在 一 起 錠放
着 ,花 辮 随凩経盈地瓢落 ,猟 如下起 了花辮雨 … ……櫻花量然没有牡 丹 的準 雨
,
梅 花 的芳香 ,但 是官 的美址 我感劫 ,荘 以忘杯 。那次之 后 ,我 イ
│]相 豹 :毎 年櫻
花盛 升 的吋候 ,一 定再来看櫻花 。浅大学期 河 ,我 イ
│]格 守 了一 起 賞櫻 花之 豹 。
我突然 感悟到 :我 イ
│]不 仮欣 賞到 了櫻花 的美 ,我 イ
│]之 同的友情也 因此得 以加深 。
那是 一 段美好 的 ,刻 骨銘 心 的青春 回`Z。
我在櫻 花 即杵盛 汗 的季 市来 到 日本 ,初 来乍 到 ,悟 吉不通 ,再 加上違 高来
朋好友 的寂 莫和薄未来 的不安 ,像 決 大石 共圧得 我喘不辻気来 。道 了不久 ,在
路逸 ,公 囲 以及 日本人 的家 11前 ,随 意就 能看 到 T‐ 得満満 的櫻花村 ,我 又 一 次
被深深地感劫 ,逮 神感劫給 了我元 秀 的力量 ,使 我相信 一 切 都会 好起 来 的 。一
年后 ,在 櫻花 盛 升的 ENl候 ,我 囲了 自己的留学少 ,成 了一 名大学研 究生 ;在 櫻花
即格盛 汗 的吋候 ,我 有 了今可 愛 的丸子 。回 ′
lZI遣 去的遠些年 ,毎 逢櫻 花 Rll杵 錠
放和盛 汗 的吋候 ,息 会給 我帯来些海僚喜 。 由此 ,我 葛櫻 花 箱下 了不解之 後
対営 的情結也油然而生 。
可是去年 ,因 力 3月 11日 的大地震 ,在 櫻花 E「 杵 錠放 的吋候 ,我 帯着遺憾
,
和 元奈 高升 日本 ,回 到老 家南京 ,没 想 到在 南京 我也 能看 到櫻花 ,尽 管没有 日
本 的漂亮 。今年 ,在 櫻 花盛 升 的吋候 ,我 ヨト常 高※ 自己成力川 口 日中友好 柳会
的一 名渓濡老痴 。我 心里 充満着薄 明年櫻花盛 升 的憧憬 ……
桜 へ の思 い
花 が 好 きな私 に とつて は 、特 に花 見 が大 好 きです 。 それ は桜 の美 しさが感
動 させ て くれ るだ けではな く、桜 へ の 特別 な思 い を抱 いてい るか らです 。
初 めて 桜 を見 た の は武 漢 で大 学 に通 つてい た頃 で した 。武漢 大学 の校庭 に
多 くの桜木 が あ ります 。 桜 が満 開 の 季節 にな る と、桜 の名 所 として 見 に来 た
22
西公民館火曜夜
市 民が いつ も絶 え間 な く続 きま した 。 友達 と花 見 に行 く考 えを話す と、み ん
な賛成 して くれ ま した。 そ の 日、私達 が朝 早 くバ ス に乗 つ て 、 二 回乗 り換 え
て 、 一 時 間以 上 もかか つて 武漢 大学 に着 い た こ とは覚 えて い ます 。校 間 に入
る と、遠 くか ら彩雲 の よ うな桜 が鮮や か に咲 き乱れ た様子 が 目に入 りま した。
花 び らは風 に しなや か に空 か ら舞 い 落 ちて きて、花 び ら雨 の よ うに見 えま し
た。 桜 は 牡丹 の 華麗 、梅 の香 りもあ りませ んが 、そ の美 しさに忘れ られ な い
ほ ど感 動 しま した。 そ の 後 、私達 は 、毎年 必ず桜 を見 に来 ま した 。 私 は 、桜
の美 しさを楽 しむ こ とが で きただ けではな くて、友 達 の 間 の友情 を深 める こ
ともで きた こ とが 突然 わか って きま した。 それ は青春 の 思 い 出 と して深 く心
に刻 まれ てい ます 。
私 は桜 が も うす ぐ満 開 になる季 節 に 日本 にや って きま した。来 たばか りで、
言葉 も通 じませ んで した 。親戚 や友達 か ら離れ た寂 しさや将来 へ の 不安 は、
ま るで大 きな石 が 、私 を押 さえて息 が切れ そ うで した。 間 もな く、私 は、道
側 、公 園や住 宅 の前 で 、満 開 にな つた桜 本 を存分 に見 て 、また感動 しま した。
そ の感 動 はた くさん の パ ワー を与 えて くれ て 、す べ て の こ とは よ くな つて く
る こ とを信 じる よ うにな りま した 。 一年 後 、桜 が満 開 の とき、私 が大 学院 生
にな る夢 が 実現 で きま した 。 桜 が も うす ぐ満 蘭 にな る とき、 かわい い 息子 が
生 まれ ま した。 過去 を振 り返 って み る と、満 開 にな る頃 、桜 はい つ も うれ し
い こ とを与 えて くれ ます 。 そ のた めに 、私 は桜 と切 る こ とので きな い 縁 を結
んで 、桜 へ の 思 いが 自然 に沸 き起 こ ります 。
しか し、去 年 の 3月 11日 の大地震 で 、そ ろそ ろ桜 が満 開 にな る頃、私 は悔
しくて 、仕 方 な く実家南京 に帰 りま した。 南京 で も 日本 ほ ど美 しい とは 言 え
な いが 、桜 見物 が思 わず で きま した。 今年 、桜 が 咲 く頃 、私 は川 口 日中友好
協会 の 中国語 の 先 生 にな る こ とで とて も うれ しく思 い ます 。 来年 の桜 が満 開
にな つ た憧れ を胸 いつ ぱ い に抱 いてい ます 。
《受講 生 随筆》
盤古升天
井 上 不二子
遠是 一段劫人 的故事 。悦 的是彼久彼久 以前 ,我 イ
│]所 生活的逮今宇宙 一 困
『是天 ,明 地 。有今 日
漆黒 ,分 不清明
‖盤古的人在里面睡了 18000年 。有一天
`是
他突然醒 了 ,III弄 眼 ,眼
前黒得 4t久 也看不兄 。黒 暗 中 ,盤 古摸到 了一IE大 斧
子 ,朝 眼前的黒E音 猛力劣去 ,只 折兄山崩地裂 的一 声 巨痢 ,漆 黒的一 囲破裂 了
,
,
23
西公民館火曜夜
}白 大地重新 合
経 的末西慢慢 上 升交成 了天 ,重 的末西慢慢 下 降交成 了地 。盤 古 ′
上 ,就 共頂天脚踏地 ,姑 在天 与地之 同用 身体支樺着 。大 ,毎 天増 高一 丈 ,地
毎天加厚 一 丈 ,盤 古也随着 K高 一 丈 。逮祥又道 了 18000年 ,天 与地 的杓造 己
径稔 園 了 ,盤 古太 累 了 ,就 1在 地上死 去 了 。特 悦 ,盤 吉死后 ,他 的身体 的各
,
全部分交化成万物 。
“
他 的骨共交成 高 山 ,肌 肉交成 Fll地 ,血 液交成河 流 ,汗 毛交成草木 ,左 llR
交成太 田 ,右 眼交成 月亮 ,他 的共友摯 胡子交成 了天上数不清 的星星 。
逮今神 活使 我イ
│]対 宇宙起源 的 i/t惧 。在 中国人 民的 心
│]了 解 了還 古 吋期人イ
造 了我イ
目中 ,盤 古是汗天辟地 的英雄 ,是 他全」
l]逮 今 キ富而 美雨 的世界 。
北京浩院大学出版社 対外浜浩精版教材 中国文化 より
盤 古 が 天 を開 く
これ は人 々 を感動 させ る物語 です 。 昔昔 、私達 が生 活 す る この宇宙 は 、真
つ黒 で どこが空 で どこが地面 か 分 か りませ んで した。盤 古 と呼 ばれ る人 は 、
そ こで 18000年 眠 つてい ま した。 ある 日彼 は突然 目覚 めま した。 目を開 けて
も 目の 前 は、真 つ黒 で何 も見 えませ ん 。 そ の真 っ黒 な 中 で盤 古 は大 きな斧 を
探 り当て、 日の 前 の真 っ 黒 に向か つて カー 杯 振 り下 ろ しま した 。 山 が崩 れ 、
地 が 裂 ける よ うな、大 きな音 だ けが 、聞 こえて 、真 っ 黒 な固ま りが破 裂 しま
した。 軽 い物 は 、 ゆ つ く りと上 に登 り天 とな り、重 い 物 は、 ゆ つ く りと下 に
降 りて地面 とな りま した 。盤 古 は天 と地が も う一 度 くつつ くの を心配 して 、
自分 のか らだ を天 と地 の FF5に 入れ て 、頭 で天 を支 え足 で地 面 を しつか りと踏
み続 けま した。 空 は毎 日約 3.3メ ー トル 高 くな り、 地面 は毎 日約 3.3メ ー ト
ル 厚 くな つてい きま した 。盤古 もそれ につ れ て身 長 が 、伸 びて い きま した 。
この よ うに して又 18000年 過 ぎま した。 天 と地 はす で に しつか りと固 ま りま
した 。 しか し、盤 古 は とて も疲れ て地 面 に倒れ て死んで しまったのです 。
伝説 に よる と盤 古 が死 んだ あ と、彼 の 体 の各部分 は万物 に変 わ り、彼 の骨
は高 い 山 とな り、筋 肉 は 岡畑 に変 わ り、血 液 は川 にな り、汗 と毛 は草木 にな
り、左 目は太 陽 、右 目は月 とな りま した。彼 の髪 の 毛 と髭 は 、 空 の数 え切 れ
な い 星 とな りま した。
この神話 は、大 昔 の 人 た ちが 、宇宙 は ど う してで きた のか とい う考 えを 、
私達 に教 えて くれ ま した 。盤 古 は 有史以来 の 英雄 で あ り、私達 の豊 かで 、 う
つ く しい 世界 を彼 が創 った の だ 、 と中国人 は考 えています 。
ば ん こ
盤 古 :(神 話 で )天 地 開間 の祖 とい われ る人 の名 前
翻訳
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井上不 二子
西公民館火曜夜
I]的 急性子教鰊
我イ
井 上 不 二子
上 周 四我イ
│]径 常吸畑 ,■ 人 受不 了 ,不 遣
│]打 麻杵 去 了 。那里人彼 多 ,他 イ
I]没 有包租 ,没 亦法 。 我 以前 悦這 的那今 急性子 教鰊 ,像 往常 一 祥 草近 我 的
我イ
身辺 ,教 我打麻格 的技 巧 。他炊弄始就 一 宣橋 嘴 ,我 的脳 子 、眼 晴 囲囲結 ,牌
也看不清 。
他看 兄我 出牌 就悦 :“ 休力什 久 出那張牌 ,鹿 核 出逮張牌 。"接 着又悦 :“ 下
次弥打算 出什 次 ?"我 理解他 鯰熱情 ,不 道 当吋我没有 思考 的吋同 。
昨天我 又去打 麻杵 了 。 急性 子教鰊没来 。我彼奇怪 同了別人 ,得 知他 住 院
了不能来 。
我感到 一 吋放 心 ,但 是后来覚得 有 点几寂 莫 。那天来 了一 位 新人 ,如 打牌
打得特 男J慢 ,径 常拿着牌擢 弄好 一 会 りL。 看着 娘 的祥 子 急死我 了 。逮 吋我 終千
明 白了教練 的 心 情 。
喜欧 吃的末西
杉浦 契子
ヒ較清 淡 的末西 。 し
ヒ如悦 ,豆 腐 、 夢 卜等疏菜 。我述 喜欧 吃辣 的
我喜欧 吃 ♭
末西 。所 以麻 婆 豆 腐是我最喜欧 的中国菜 。
『家仮 館 吋 ,我 一 定先 点麻 婆
│]公 司 附近有彼 多仮備 。 如果我第 一 次去明
我イ
豆 腐 。那家麻婆 豆 腐好吃 的活我再 去 ,如 果不好 吃的活 ,我 再也不会想去 。
ヒ校透 的地 方有 一 家仮常 ,男 的 同事イ
│]常 常去 。他イ
│]毎 次 4良 快
│]公 司 じ
高我イ
胞着 去仮備 。 瞬悦那家仮館 的麻婆豆腐猥 好 吃 。我彼想 去 ,不 適肘 我来悦 ,我
│]公 目的午体 吋国 内恐伯吃不完 。太可惜 了 。
イ
□
好 きな食 べ 物
私 は割 とあ つ さ りとした食 べ 物 が 好 きです。例 えば豆腐や大根等野菜 です。
幸 い もの も好 きです。 だか ら麻婆豆腐 は特 に好 きな 中華料理 です。
会 社 の近 くにはた くさん の レス トラ ンが あ ります 。初 めて 行 く店 では必 ず
麻婆 豆腐 を注 文 します。 美味 しけれ ばまた行 きます し、不味 けれ ば行 きませ
ン
ヽ
ノ
。
会社 か ら少 し遠 い 所 に男性 の 同僚 た ちが 良 く行 くお店 が あ ります 。 毎回 と
て も早 く走 つ て行 きます。そ この 麻婆豆腐 はす ご く美味 しい との こ とです が 、
私 では昼 休 み 中 に食 べ 終わ る こ とがで きな い で しょ う。 とて も残念 です。
西公民館火曜夜
上 海 的拷色
有 賀 不J男
我 一 今人 去拷 負店 吃坂 。覚得拷色坂眼 日本 的一 祥 ,就 想吃燈鮭色仮 。不
辻菜単上只有鮎色 、黒色 、黄負 三 稗 。不得 己只好汀鮎色 ,特 票 上 有 印着 二 十
六決和手写的 3.7公 斤 。逐 汀 了両映銭 的一 碗米仮 。
老板性我看 了一 条活鮎色彼大 ,「 卜了一 跳 。老板悦逮是店里 中最 小的 ,指
着 4t票 沈什久什 次 的…… 所 以没美 系 (理 解不 了)。 逮今菜是把拷通 的鮎負 再煮
一 下 ,味 道彼咸 ,有 点九辣 ,好 不容易吃完 了 ,可 是米仮 吃不下 了。
冥単 的吋候 ,拿 出二 十 八映 的吋候 ,老 板 悦是九十八決 。 嘆冴 !鮎 色 的伶
│]。
格是毎 一 公斤 二 十六決 日
曰
上海 の焼魚
私 は一 人 で焼魚 店 に食事 に行 く。 日本 の焼魚 定食 と同 じだ と思 い 、焼鮭 定
食 に したい と思 つたの だ。 しか し、メニ ュー には鯰 (な まず )、 黒魚 、黄魚 し
かない。仕方 がないので鯰 を注文す る。伝票 には、 印刷 で “二 十 六 元 "と 手
書 きで “3.7kg"と あ る。 それ に 2元 の御飯 を頼 む 。
店主 が生 きた鯰 を見せ て くれ たが 、 あま りに も大 きい ので び っ く りした 。
店 主 は店 の 中 で一番小 さい と伝 票 を指差 しなが ら “…… だか ら大丈夫 "と 言
つた (理 解 で きな い)。 この料理 は焼 いた鯰 を さらに煮 た もので 味 は塩 か ら く、
そ の うえ少 し辛 い。何 とか 食 べ 終 わ つ たが御飯 は食 べ られ なか った。
支払 いの とき 28元 を差 し出す と、店 主 は 98元 と言 つた。 なん と、鯰 の値
段 は l kgご と 26元 だ つた !!!
pF‐
声播 学 コ的事
青沼 利共
三 十九 年前我逐是今 中学生 ,高 中生的吋候 ,我 一 逸 折英語 学 コ声播市 目
レ
NHK的 声播英
ヒ方悦 ,文 化声播 “豹翰吟里斯 :百 万人之英 語 ",末 后腔 明 “
",“
FAR EAST NETWORK"(板 末庁播 岡 ,fJmu在 美 国軍声播 )等 ,一
語会活
辺学 コ英語 。
但 是在 九州 ,中 国片 播 ,軒 国声播 的 屯波彼 張 ,英 語 学 コ声 播 瞬不清 楚 。
有 的吋候英語学 コ声播 岡図1悦 :“ Lessonl,How many days… ,"突 然 折兄 了
…ス ミダ ,… ス ミダ ,― ス ミ
中圏的 国歌和声播 ,有 的吋候込 瞬兄輔 国声播 :“ Ⅲ
,
26
西公民館火曜夜
ダ ",1卜 常ゆ ,一 片余音 。我憶牧音机 的方 向朝 末或者朝 西改交 了 ,但 是我逐没
瞬清 英選学 コ声播 的 内容 ,問 題 ,解 答 的吋候 ,声 播市 露就 嬉東 了 。
現在技本遊 歩 了 ,牧 音机声播 内容驚 亀脳 也能瞬得鯛 了 。我毎 人用 屯脳 瞬
NHK的 声 lll市 目毎大洪濃 ,CNR的 声播市 露中国之 声 、音示之声 、た済之声
等 学渓活 。三十年前 中 国声播 是英浩会 滅声播 的余音 ,不 通現在 潜我来悦是重
要 約学 蕩声播 事 目。
我 1雀 来 也要 析声播市 露学 増洪 藩 ,英 濃等等 。
国
ラ ジオ 放送 を聞 い て 学 ぶ とい う事
今 か ら二十数 年 前 、私 が まだ 中学 生 、高校 生 だ っ た 頃 、私 は t英 語学習 の
ラ ジオ 放送番組 、 lFllえ ば文化放 送 「ジ ョンハ リスの 百万人 の英語 」、東後勝 明
「NHKラ ジオ 英語会議 」「FAR EAST NETWORK」 (極 東放 送網 、現在米 困
軍放送網 )を 聞 いて英語 を勉 強 しま したc
しか し、 九 州 では 中国放 送や韓 国放 送 の電 波 が強 くて英語学習 の ラ ジオ放
送 が 聞 き取れ ませ んで した。ある時 は 、英語学習 の ラ ジオ放送 が “Lesson l,
How lnany days… "と 始 ま った 途端 に、突然 中国 の 国歌や放送 が 聞 こえて き
た り、 あ る時 は韓国放 送 の “… ス ミダ ,… ス ミダ,… ス ミダ "が 聞 こえ 、雑
音 が うる さ くて聞 き取れ ませ んで した 。私 は ラジオ の 向 きを東 に した り西 に
した りしま したが 、英語 学習 の ラ ジオ放送 の 内容 、問題 、解答 を聞 き取れず 、
放送番組 は終 わ つ て い ま した。
今 で は技術 が進 歩 し、 ラ ジオ 放 送 は様 変 わ りし、 パ ソ コ ンで 聞 く こ とがで
きる よ うにな り、「NHKラ ジオまい にち 中国語」「CNR中 躍放 送 、 中鶴之
声 、音楽之声 、経済之声 … 」を聞 いて 中国語 を勉強 して い ます .中 国放送 は、
二 十数年 前 には英語学習放 送 の雑音 で したが 、今 では私 に とつて 重要 な学 習
放送番組 にな りま した。
私 は これ か らもラジオ 放 送番組 を聴 い て 中国語 、英語 な どを勉 強 してい き
ます 。
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西公民館火曜夜
市能灯是真是穀
木村
員弓
市能灯便宣 │?
市能灯使用寿命 KI?
■能灯什久灯 都逓 用 !?
市能灯 明亮 │?
市能灯芋 能 !?
市 能灯 被 汰 力 是 量 然 有 点りL貴 ,侃 是 奪 越 去 的 自炊 灯 相 彗
ヒ使 用 寿命 長 迭
40,000小 吋 ,官 不儀不声生 二 気 化破 (Co2),紫 外銭 ,而 豊逐彼不 保 ,逐 有市省
換灯泡 的麻煩 。
不遣 ,官 也井不是所有 的 屯器都 能用 ,因 此 ,t的 要之 前須先好好 撲憶 “使
用悦 HJl",如 果有不清 楚 的地 方 ,向 生 声戸家洵 同 。只有倣 至1正 機 的逸祥 ,オ 能込
rll市 能 的 目的 。
LEDラ ンプ うそ ほん と
LEDラ
LEDラ
LEDラ
LEDラ
LEDラ
ンプ は安 い │?
ンプ は長寿命 !?
ンプは どん な照明 に も使 える !?
ンプは明 るい │?
ンプ は工 _‐ !?
LEDラ ンプ は少 し高価 です がそ の 寿命 はなん と 40,000時 FFlと 言 われ てい る
そ うで す。従来 の ラ ンプ (白 熱灯 )と 比 較 す る と、 とつて も長持 ちです 。 Co2
や紫外線 も出な いか ら地球 に優 しく、面倒 な ラ ンプ 交換 の 手間 が省 けます。
で も……使 えない器 具 もあ るそ うで す。購入 前 には器 具 の 「取扱説 明書」
を よ く読 んで 、分 か らな い こ とは 製造 元や ラ ンプ メー カ ー に尋 ね ま しょ う。
賢 い 選択 で 賢 い省 エ ネ │!
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西公民館火曜夜
蛾蛾九在 鳴 的整骨 医院
林 究代
我 一 今 星期去 一 次整骨 医院,在 那几毎 次都 能折到軸軸 几 的鳴声 。最初我不
知道 逮 是輔蛾 ノL的 鳴声 。有 一 次去 治庁室 的里逸 ,看 到有 几今容器 ,里 逸有友色
│]是 交 色尤 ,蛾 蛾几 的鳴声就是 炊那 附近 4t出 的 。院長愛好伺弄
的物体在劫 。官イ
交色尤 ,蛾 蛾ノL是 交色尤 的餌食 。
自然 界 的楯只有在秋天オ 能瞬到軸蛾 りL的 鳴声 。可 是只要 四季 都給官イ
l]土
和餌 (疏 菜 )的 活 ,官 イ
│]就 能達銭不 断地声 卵繁殖 ,所 以交色九 的食物 就不会 受
罠第1。
我 同院長 :“ 交色 尤彼貴喝 ?"
他悦 :“ 交色尤也会繁殖 ,不 必要異 "。
我 以前 汰力交色尤 是会交色 的,仁 是逮ノL的 不交色 ,只 是老 了后会 交得 笙一
点ノL。 一 般官イ
│]只 生存二 、 四年 ,去 年 二 月十 一 日大地 震吋死 了几只 ,一 定是感
'1『
覚 到鷹力 了 。我 的腰疼込没恢隻,有 l一 辺 折着 蛹蛾几 的鳴声,一 逸接 受治庁 。
E・
コオ ロギが 鳴 い て い る接 骨 院
私 は週 1度 接骨院 に行 く、そ こで は いつ も コオ ロ ギの 鳴 き声 が 聞 こえ る。
最初 は コオ ロ ギの 鳴 き声 とは解 らなか つ た。 あ る時治療 室 の 奥 に入 つた ら、
数個 の ゲー ジが あ り、 中 で灰色 の物体 が動 いてい た。 それ はカ メ レオ ンで 、
コオ ロギの 鳴 き声 はそ の 辺 りか ら出て いた。 医院長 がカ メ レオ ン を飼 つてい
たのだ。 コオ ロギはカメ レオ ンの餌 だ った。
自然界 では秋 にだ け コオ ロギの 鳴 き声 を聞 く こ とがで きる。 しか し四季 に
かか わ らず 土 と餌 (野 菜 )を 与 えれ ば、彼 らは産卵 し繁 殖 し続 け る、だか らカ
メ レオ ンの食 べ 物 には困 らな い。
私 は院長 に尋ねた「カ メ レオ ン は値段 が 高 いです か 」
院長 は答 えた「カメ レオ ン も繁殖 で きるので 、買 う必要 はな い 」
私 は前 か らカメ レオ ン は変色 す る と思 つていたが 、 ここのは 変 わ らな い。
ただ 年 を とる と少 し赤 くな る。普通 は 3∼ 4年 生 きるが、去年 の 3月 11日 の
大地震 の とき、数 匹死 んで しま つ た 。 き つ とス トレス に弱 いの だ 。 私 の腰痛
はまだ回復 しない 、 も う しば らく コオ ロ ギの 鳴 き声 を聞 きなが ら治療 を受 け
ます 。
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西公民館火曜夜
充実理想的旅滋
夏威 夷 島的 三 天 和 欧 胡 島 的 三 天 (摘 澤 )
日文 :市 末
翻1澤 :早 川
校対 :張
文子
守男
怖栄
↓乗宣升 ■机 一 介 小吋周滸 Kilauea火 山一 帯 ↓あふ
在大 的噴火 口周 囲 ,笙 色 的小火 苗看起 来像堆 力情 一 祥徐徐地燃焼着 。 由
子張ス 降雨 的原 因 ,之 前 的一 月都不能看火焔 ,菫 升ヽ机好像也不 能 に。華込 !熔
岩 的痕述 一 宣流到大海 。去年 3月 10号 那 一 大 ,一 宣 以来 安稔 的火 山突然在地
上 100米 附近 処噴 出了火焔 ,然 后在 那 /1k不 祥 的 3月 11号 噴火又突然停止 了
所 以有 的学者決 力可 能末北地方太平洋海 土地 震和地 売交 劫之 同有什 久美系 。
│]看 到 了大 自然 的威跡 。在 一 今地 方 ,炊 云彩 向地面声 涯地落 下美
真 正地士我イ
,
雨 的薄膜 ,看 起来 ♯常神秘 ,両 遮是雨 。実在 是不可 思 洪的景象 !!!
★ 満天 的星星 ★★★
在 Mauna Loa山 2,000米 高 的地 方看 日落 的吋候 ,整 今天空被火焼 云染成
金黄色 ,我 不禁行 上 了最敬 礼 。然后又在 “Onizuka天 文規淑1靖 "看 了満 天 的
星星 !用 天体望通 鏡可 以清 楚地看到土星 的光不 !!
00欧 胡島西海 岸海 上 的美人生妍妍 ∞∞∞
滸泳不太 好 的我 穿 上 救 生衣 ,戴 上 潜水 眼鏡和通気 管 ,脚 橙 潜水鰭 ,被 梢
塁得不耐煩 的 日本青年 向尋帯去潜 水 。在那里 我看 到 了在海 里済 泳 的海豚 一 家
和海 亀 ,逐 有 笙 色蔚蓋 色緑色黄 色等等色彩鮮 明的熱 帯負 。心 情 太 舒 物 了 ,被
水 中荘 以形容 的美雨 景色 吸 弓│,我 不禁把詮況 入 水 中的吋候 ,1範 尋用 尖鋭 的声
音 城道 :“ 娼娼 ,娼 娼 ,清 露 出共 !"我 下 了一 跳 ,走 緊仰起 了詮 。他汰真地 悦
道 “清 吋不 吋的露 出胎 町 ,否 只J不 知道 窓是有 呼吸述是没有 呼吸 目
│]│!" 同行 的
女ブL折 到逮 ,在 海 中捧腹大笑起 来 。悦起来也是理所 当然 ,杵 近 40今 人 的圏体
│],年 始 多在 30ν 前后 ,没 有老年人 。
中大部分是新婚 、年経 的情侶 、女性朋 友イ
:“
高男J的 吋候 ,我 受到 了 向尋 約表物
休是今夭 的首席 HIFl,清 一 定再来 !"
我 述 対 男 一 今 川号 向早 Jay悦 :“ I never forget you and this wonderflll
Sea‐
World forever!''
地:“ Oh,thank youll I'm glad to see youl!!"
他ウ
然后他緊 緊地掘抱 了我 zzz.… … .ZZZ!!│
一 切都像 妙似 的一 月 ,到 現在我 1/J然 元法平 息激動 的心 情
30
1
西公 民館火曜夜
夢旅行
ハ フ イ 島 3日 間 &オ ア フ 島 3澤 問
市東 文子
ヘ
ιキラウ ェア人 山一 帯 を リコプ タ ーで 1時 間月菱 め↓も
1983年 の火 山爆発 時 には 、457mの 高 さまで溶岩 が IIBき 上 げ られ た。違綿
と続 く原始 の 営み を確 か め よ うと、念願 だ つ た キ ラ ウェ ア火 山をヘ リコプ タ
ー で 周 遊。爆音 を防 ぐヘ ッ ドバ ン ドタイプ の イヤ ーマ フ (耳 当て )を す る。
ひ ときわ 甲高 い 声 で泣 き叫 ぶ 6ヶ 月 の孫 (女 の子 )に 慌 てて ス タ ップが マ フ
をす る と、寝 たが得 とばか りにすやすや と寝入 つて しま っ た。豪傑 !4歳 半 の
孫 (女 の 子 )は 緊張 の あま り固 ま っ て 目を際 む。 $180は 大金 だが 、 ドンマ イ
ドンマ イ !ま た 稼 げば い い じゃん !山 は比較 的お とな しい。 大 きな噴火 国の
周 りでは 、申 し訳 な さそ うにチ 露ロパ ッパ と赤 い人 が 噴 き出て い た。幻想的
それ で も この 1週 FH3、 人 は影 を潜 め 、毎 日、雨風 が 強 くヘ リも飛 べ なか つ た
!
ら しい。 ラ ッキー !黒 々 と海 にまで 流れ 出た溶 岩 の跡 が 、見渡す 限 り生 々 し
く大 き く広 が っ て い る。
火 口近 く、溶岩 を幸 う じて避 け た 所 に ピン クの屋 根 の 家 が 一 軒 だ けあ り、
周 囲 は緑 の ジ ャ ングル 地 帯。 現在 なお 、お爺 さんが 、神 に感 訪ましなが ら民宿
を経 営 して い て 、結構 人気 が あ る ら しい。 もち ろん 、 曲 を歩 いて 行 く しか術
が な い。彼 は肉魚 を嫌 い 、近所 で採 れ た パ イナ ップル や 野菜 を食 べ て い て 、
数 ヶ月 に一 度 、買 い物 に行 く。 そんな暮 ら しもあ るのか。
2011年 3月 10日 には 、そ の 時 まで活動 を控 えて い た 山 が 、突然 、地上 100m
近 く火 を噴 き上 げ 、翌 日の あの 忌 まわ しい 11藩 に ピタ ッと噴煙 を止 めたので 、
“東 北地方太平洋 沖 地震 "と 地殻変動 か何 か 関係 が あ る のだ ろ う とい う学者
もい る とか。 大 自然 の脅威 をま ざま ざと見せ つ け られ た。
眼 を凝 らす と、 広 範 囲 に雲 か ら地面 に 向 か つて美 しく霞 がか か つ た薄 い幕
の 下 りて い る箇所 が 見 え、 とて も神 秘 的 で あ り、それ は “雨 "で あ る と、 ガ
イ ドが教 えて くれ た。今 まで見た こと もな い 実 に不思 議 な光景 l!! ヘ リコプ タ
ー の 窓か ら手 を出す と、 ピ リリン と千切れ て しまいそ うにな り怖 かつた なあ。
ガイ ドが 「ジェ ッ トコー ス ター //7き ?Jと 問 い た ので 、進行方 向 の驚 に座 つ
ていた上 の嬢 と私、調子 に乗 り 「大好 き ♪」 と答 える と、ヘ リは急 降下 !!!「 ウ
ワ ッ !コ フ ッ !」 と声 を上 げて しま った。 下 の嬢夫妻 は進 行方 向 と反対 の席
に座 り、ヘ リ酔 い に悩 ま され てい る最 中 で 、急 降下 に よ つて悪酔 いが増 し、
嘔 畦寸前で私たち二人 の は じゃぎぶ りに果れ返 り開 爾 した とは後で聞か され
た話。
31
西公 民館火
llr‐
夜
★サ ンセ ッ ト8員 た ち★★★
ハ フイ 島 は年 中雨 が 多 く、 マ ウナ 。ロア に向か う途 中 も降 つて い る。 これ
ではサ ンセ ッ トも星 も無理 だ ろ うと言 うと、雨雲 の上 に行 くか ら大丈夫 と娘
が答 えたが 、半信 半疑.2,000m地 点 まで車 を走 らせ る と、然 り。空 一 面 が金
色 に 染 ま り、思 わず最敬 ネLを して 「頑 張 ろ う日本 l」 と拝 んで しま つた サ ン
セ ッ トの厳 か さ。“オ ニ ヅカ天 文観測所 "で 観 た満天 の 星た ち! 天体望遠鏡 に
は く つ き りと圭星 の輪 が映 し出 され て い た !! 海 は広 い な大 き い な ♪と思 つ
て い た の に 、広大 な宇 宙 に対 してなん とち つぽ けな :1に の地球 よ。人間 は苦 し
む た めに生 まれ た ので はな い 、感 動 を味 わ い 喜 び に感 議ましよ う と改 めて深 く
感 じた星 たちへ の祈 り。
00オ アフ島西海岸 :中 の人負 婆 000000
2年 前 のハ ワイで 娘 は “イル カ と泳 ご う"の 素晴 らしい 体験 を した。泳げな
い母 親 に も是 非 と強 く勧 め られ た ので 、 一 念発 起 したイル カ大 学 での シ ュ ノ
ー ケ ルー 日体験。
早朝 6時 にホテ ル を出た。 ドライ バ ー兼 ガイ ドの タカオ は、 轟本 で 中学 の
先生 を して い たが 、 ロサ ンゼル ス で 9年 間過 ご し、言語学 の マ ス ター を取得
したイ ンテ リ。 妹 と参カロした “名 門イ ル カ大 学 "ツ ア ー に魅 せ られ て 、 いつ
しかガイ ドにな つて しま った経歴 の持 ち主。
途 中、郊外 にあ る知 る人ぞ知 る老舗 ベ ー カ リー “レナ ー ズ "に て揚 げたて
の “名物 マ ラサ ダ"を ゲ ッ ト !タ ー ン、美 味 しい !Good!! 8時 半西海岸・ フ
イ アナ エ ・ ハ ー バ ー 至1着 。 海 はlllり な くブ ルー 。 そ よ吹 く風 が 快 い。 クルー
ズ前 、ハ ワイ ア ン伝統 に 従 い 、安 全 を祈 る儀 式 に参カユ。 エ ホ マ イ詠 唱後 、 プ
ル メ リア の清楚 な 白い花 を海 に投 げて、航海 の安 全 を祈 つ た。 さあ幽航。
オ ッ ト、40人 近 い 団体 の うち、幸せ そ うな新婚 さん数組 、寄 り添 う若 い カ
ップル 、賑や か な女友達 同士 、それ に 1組 の小 さな子 を連れ た親子 。 年齢 は
皆 30歳 前後 、高齢者 は い な い ゾ。 ヤ バ イ 糞 $130の 大枚 をはた いたのだか
ら、イ ェイ 行 く ゾ ゥ 」 ガイ ドの タカオ青年 「この 中で 泳 げな い 人 い る ?」
私 、量F座 に誰 よ りも早 く元気 よ く「ハー イ │」 ほか には い な い。タカオ の “泳
げね ぇ年 寄 りか よ、保証 で きね ぇな "と い うオ ー ラが最 つた顔 に出て い る。
で も さす がプ ロ、明 る く「 じゃ、俺 が 面倒 見 るか ら、Jayと Lawrence残 りの
み んな を頼む よ !」
首 か ら胸 まで の ライ フベ ス ト (救 命 衣 )を 着 て 、 マ ス ク (度 付 き水 申 ゴー
グル )と シュノー ケル を嵌 め 、 フ ィ ン (足 ヒレ)を つ け、Jayに 背 中を押 され
て海 ヘ ドボ ン !!! 水深 8∼ 10mの 海 に落 つ こちた瞬 間、び つ くり して小 さく
「ア ッ l」 と発 した途端 、 シ ュ ノー ケル とマ ス クの位 置 がずれ 、 国と鼻 に海
32
西公民館火曜夜
水 が ジュワ ッと入 つて きて、早 くもパニ ック。驚 い た Jayは 海 に飛 び込 んで 、
老婆 の 手 を引 き、 タカオ の ところまで連れ て行 つて くれ た。 シュ ノー ケル と
マ ス ク の位置 を直 し再 出発。 “だか らっ 、泳 げな い 高齢者 なんて、 ク ソ ッ !"
と思 われ たか な あ?│ いや へ こた れ な い 、 これ が 今 回 のハ ワイ 旅行 の メイ ン
だ もの 。
タカオ に連 れ られ 、 あま りの 気持 ちよ さと水 中 の え も言 われ ぬ 美 しさに 見
とれ て 、顔 を鎮 めて い る と、タカオが 突如 、甲高 い声 で 叫 んだ。「ママ 、ママ
顔 を出 して よ!!」 び つ くりして顔 を上 げる と、きつ い 口調 で 「時 々顔 を出 して
!
よ、息 を してい るか ど うか 判 らない じゃな い │!」 と真剣 に言 っ たので 、同行 し
た娘 は海 の 中で 笑 い転 げて い た。1回 目はイル カ に総す かん を喰 い、無駄 泳 ぎ。
い つたん船 に上 が り、 チ ャ ンス を待 つた。
「ママ 、行 く ?」 「モ チ !」 タカオ に浮 き輪 を引かれ 、少 し泳 ぐと「下 !左 !」
い た いた 、イ ル カ の小 さな群れ が あ つ とい う間 に、海 申を通 り過 ぎた。 で も
見 られ なか った 人 がた くさん い た ので 、 また船 に上 が り、会場 か らイル カ ウ
ォ ッチ ン グ。「来 たぞ。 飛び込 め !」
3回 目は Jayに 連れ られ 、緊急発 進 「Right!」 の言葉 と同時 に海 中を覗 く。
イ ル カ の親 子 が映 画 の一 シー ンの よ うに泳 い で 消 えた。 これ は 夢 ?日 常 の喧
騒 を忘れ 、楽園 を浮遊 す る私。何 もか も忘れ 、人魚 婆 にな った 幸せ な瞬間。
今度 は別 の場所 か ら水 中 ウォ ッチ ング。 シ ュ ノー ケル もマ ス ク も フ ィ レも
マ ス ター して 絶好調 。 ガイ ドに頼 らず 、娘 に浮 き輪 を引かれ た 後 、海 を覗 く
と、青亀 が 数 匹 いた 。 いやす ぐ近 く、手 の 届 く範 囲 には 、水族館 で よ く観 る
黄 色 と黒 の縞 々模様 、赤青緑 黄色 ピン クの魚 な ど彩 りも鮮 や か な熱 帯魚 が悠
然 と泳 いでい る。 この世 とはま るで別世界。
ガイ ドの 「乗船 !」 の合 図 で 船 に上が り、昼食 のハ ンバ ー ガ ー とパ イ ナ ッ
プル ・ パパ イ ア・ バ ナナ の果物碗 が 配 られ た。 パ ン にハ ンバ ー グ とチ ー ズ を
載 せ て 、LawFenceが ケチ ャ ップ をグチ ャグチ ャ とか けて いつ た。寒 い !体 を
ガ タガ タ と震 わせ なが ら食 べ た。 トイ レか ら戻 つた娘 に、Lawrenceは 愛情 を
籠 めて ケチ ャ ップでハ ー トを書 いてい る け ン ダ、この 差 は !? 呪み つ け る私
に彼 は ニ ヤ ニ ヤ笑 つて い た。
12時 半 にハ ー バ ー に着 き、楽 しか っ たプ ロ グラム が 閉 じられ よ うとして い
る。 タカオ に 「イル カ大 学 で 、 生涯 忘れ られ な い想 い 出 がで きた よ。 足手纏
い にな つて 、迷惑 をか けちゃ つた ね 」 と素 直 に謝 つた 。
そ して別 のイ ケ メ ン Jayに 言 つた。
“I never forget YOU and this wonderful SEA‐ WORLD foreverl"
“Oh,thank youll I'nl glad to see you!!!''
とか言 つて 、強 く抱 き じめて くれ た つ け zzz.… … .ZZZ!!!
33
西公民館火曜夜
帰 りの バ ス では小錦 の 実家 (豪 邸 )や 日立 の 「この木 なん の本 、気 にな る
木 」の現 地 を通 り過 ぎる頃 、睡魔 に襲 われ 、心地 よい眠 りについ た。 1時 間 ほ
どで ホテル に着 くと、 タカオ は飛 び 切 りの笑顔 で バ ス か ら降 り、熱 い 握 手 を
求 めて きて、別 れ際 に言 つた。
「す つ ごい ョ、 ママ !今 日の参加者 40人 の 中で 首席 だ よ!!!泳 げな いの に
総 て の授業 を こな した 。 必ず リピー トに来 てね
して小 さな声 で呟いた。
「オ レ、今 日のブ ログに書 くか らな !」
!」
タカオ に褒 め られた。 そ
新婚 を何度 もア ピール した カ ップル や頑 張 つてい た小 さな女 の子 よ り、 こ
の人魚 婆 は タカオ に強烈 な印象 を与 えた らしい ……。
帰国後 、 タカオ が 書 い た 市東家 の 写真入 リブ ロ グ をイ ン ター ネ ッ トで 見 つ
けて、 も うび つ く り、恥ず か しいや ら嬉 しいや ら!│!
い くらも泳 げな い 私 が フイ キキの海 で 5分 も浮 いてい た驚 き、 さらに 日本
の よ うにべ た つ か ず 、海 か ら出て も さらっ と した感 覚。帰国す る当 日、朝 の 9
時 か ら 1時 間、時 FH5を 惜 しんで 、孫や娘 と目の前 の ワイ キキ海岸 で泳 い で い
る時 、水平線 かなた に虹 を見たか らには、また 「来れ る」 と確信 した。内心 、
体 力気 力 の衰 えを うつす らと感 じ、今 回 のハ ワイ旅 行 は “冥土 の 上産 "に す
るつ も りで あ つ たが 、欲 が 出 て 、 冒険 はまだまだ エ ン ドレス 、最期 は ワイ キ
キ の海 で旅 立つ の も素晴 らしい な │と まで 考 えた 。
2011年 6月 の夢 の よ うな楽 園 の 1週 間、 い まだ興奮 が 冷 めない よ う♪
34
協会水曜朝
″ r求 層″ ク ラス
《ク ラ ス 紹 介 》
佐 々 木 由利 子
私 達 水 曜 ク ラ ス は特待 生 1人 を含 む 9名 で 、年 齢 層 は少 々 高 めです
が 、 あせ らず 、 のん び り、楽 し く勉 強 して い ます 。 毎週 1人 ず つ 1週
間 の 出来 事 を発 表 し、発 音 、 文 法 、 ヒア リン グの 実カ ア ップ を 目指 し
て い ます 。 話題 が 様 々 で 面 白 く、笑 いが 絶 えませ ん 。
又 、毎年 秋 には 料 理 教 室 を開 い て 、先 生 に本 場 の 中国料 理 を教 えて
頂 き、味 わ う こ とが私 達 の 楽 しみ の ひ とつ で もあ ります 。 飽 先 生 は料
理 がお 得 意 との こ と、 どん な 料 理 を 教 えて い た だ け る のか 、今 か ら楽
しみ です 。
これ か らも 「活 到 老 学到 老 」 を モ ッ トー に頑 張 ります 。
飽 先 生 、 1年 FE5よ ろ し くお願 い しま す
!
《者 師 7菫 フ ィー rL》
飽
洋
―
出身 地
誕生 日
上海
5月 24日
来 日 同時
中国 出身 校
1992年
家族
日本 で の 職 業
趣味
来 日理 由
夢
い
―
上海 師 範 大 学
子
夫 、慶、
日本 語 講 師・ 弁護 士 事
務 所 ア ドバ イ ザ ー
料 理 を 作 る こ と、 文章
を書 く こ と、 ダ ンス
夫 が 仕 事 で 来 日の た め
画 商 、 エ ッセ イ 作家
い
35
協会水曜朝
《受 講 生 随筆 》
我介 須 一 下 我参加 的彩 虹 析 会
佐 々 木 由利 子
彩 虹 析 会 升 展 活 劫快 六 年 了 。我 参 加速 今 会 也 己径 三 年 了 。 逮今 会 有 彼
多 中 国人 利 日本 人 参 加 ,大 家 互 相 用 日活 不‖洪 活 逸 学 コ 日常会 活 逸 交流 。銭
老 如 力 日中友 好 充 当着 析 梁 的作用 。 量然 如 的 工 作 彼 忙 ,但 是 作 力志懸 者 教
│]。 我覚 得 逮 是 一 今 任 何 人 部 不 能傍 敷 的 了不起 的活 動 。彩 虹 析 会 的 中 国
我イ
ヒ如 ,吉 林 省 ,yllり │1省 ,河 南 省 ,内 蒙古 等 等 。有 的 是
人 出生地 都 不 一 祥 。 し
避 修 生 ,有 的 是限 日本 人 結 婚 的如 女 ,地 イ
l]都 在 工 作 。資 多人 力 了取 得 日濡
。
工
水 平 姿格 用 功 地 学 コ 他 イ
│]逸
作 逸 学 ,彼 辛 苦 。
在 日本 力 了遣 日子 ,会 悦 日活 是 必 需 的 。 可 以悦 是 力 了生 活 而 学 場 日濤
唱 !我 和 他 イ
│]不 一 祥 。 我 想 結沢 中国人 是 力 了 去中 国旅 行 吋 ,想 躍 中国人
用 洪 濡 打 招 呼和 交 流 ;学 コ洪 活 也 是 我 的愛好 。 上 深 吋我 イ
│]不 用 保 文 ,毎
次主 題 都 不 一 祥 ,じ ヒ如 天 気 ,国 医形 勢 ,家 庭 ,核 子 ,工 作等 等 ,老 帰接 二
連 三 地 弓:出 彼 多 的活 題 ,我 ↑]彼 容 易 瞬憧 。我 ↑]悦 起 活 来 没 完 没 了 。我 汗 始
参 カロ的 吋候 ,中 国人イ
│]悦 得 彼快 ,折 不清 他 イ
│]悦 的是 什 久 ,国 家 后有 点りL共
疼 。最 近 越 来 越 コ慣 了 ,lJmL在 能 瞬憧 一 点ノL了 ,可 是 我 悦 得 述 是 不太 好 。老
帰 常 常 同学 コ渓 濡 的 日本 人 “逮 句 活 ,速 今 句 型 ,逮 今 濡 法 用 日濡 急久 滉 ?"
)]都 是 日本 人 但 是教 中 国人 日活
“一 ―利― ―不 一 祥 喝 ?力 4t久 ?"量 然 我 イ
│]有 吋答 不 出来 ,感 到彼 不好 意 思 。
太 荘 了 。 我イ
我 己簗 上 年 究 了 ,所 以逸 学 コ逸 忘 。老 痴 知 道 以后 就 耐 心 地 眼 我イ
l]悦
!"上
,忘
。
了再悦 , 反隻悦 彼 重 要 慢 慢 りL学 コ 唱
深 吋悦 得好 的
“没有 同題
心
,国
。
,我
活
家 以后 我 的 里特 男J高 ※ 悦 得 不 好 的活
就 有 点ノL澳 悔 。
毎 年 彩 虹 析 会 都 有 衆 会 。参 カロ的 日本 人 和 中 国人 一 共 三 十 /1k人 左 右 。衆
会 的 吋候 我 個 先 一 起 又 包 佼 子 ,又 llt凍 菜 。包 地 道 的佼 子有 点 ノL堆 。某 子 上
有 彼 多 中 国菜 ,水 果和 点 心 。然 后 ,我 イ
│]一 辺 吃仮 一 辺 りl天 ノ
し,逐 一 辺 玩 済
,
;
戒 ,熟 飼板 了 。逐 有 友 表 感 想 的 吋候 ,我 有 点 緊 張 。 不通 ,毎 次 衆会 我↑]都
彼 汗心 。
我参 加 彩 虹 析 会 ,使 我 最 高共 的是汰 沢 了彼 多 的 中 国人 和 日本 人 。尽 管
大家 年始 大 不 一 祥 ,但 是我 イ
│]都 是 同学 ,而 且 就像 家人 一 祥 ,同 甘 共 苦 。遮
里径 常充 満 了和 t皆 的気 気 ,我 像 核 子般 地 吟 吟大 笑 ,所 以我 詮 上 的彼 象 越 来
越 多 ,急 久 亦 好 嘱 ?多 考 了大 家 的奮 助 我 オ 能這 逮 科 有 意 叉 的生 活 。特 男J感
謝 銭 老 痴 ,敬 伸 地 力 用 K。 我個 的最 終 目林 是 能悦 一 口流 本J的 日濡 和 洪 鴻
I]要 更 加 努 力地 好 好 学 コ 。
井 且 加 深 日中両 国的友 造 。 我イ
,
36
協会水曜朝
私 が 参加 して い るか けは し会 を紹介 す る
か け は し会 は発 足 して も う 6年 を迎 え る。私 は この 会 に参加 して
3年 に な つ た 。
この 会 に は 中国 人 や 日本 人 が 多 く参 加 して 、 皆 日本 語 と中国語 で 日常 会 話 を学 び
な が ら交 流 して い る。 銭 先 生 は 日中友 好 の 為 の 懸 け橋 に な つ て お られ る。 彼 女 は
仕 事 が 1亡 しい けれ ども 、 ボ ラ ンテ ィ ア と して 我 々 に教 えて 下 さ る。 私 は誰 に も真
似 の で き な い す ば ら しい 活 動 だ と思 う。 か け は し会 の 中国 人 の 出身 地 は様 々 で 、
│1省 、河 南 省 、 内 モ ン ゴル 等 。 研 修 生 も い る し、 日本 人 と結 婚 して い
吉林 省 、 四り
る女性 も い て 、皆働 い て い る。 多 くの 人 は 日本 語 検 定 の 資格 を得 るた め に 一 生 懸
命 勉 強 して い る 。 働 きな が ら勉 強 す る の は大 変 。
日本 で 生 活 す る に は 、 日本 語 を話 せ る事 が 不 可 欠 。 生 活 の 為 に 日本 語 を学 ん で
い る と言 え るだ ろ う。 私 は彼 ら と違 う。 私 は 中国 人 と知 り合 い に な つ て 、 中 国旅
行 の 時 中国 人 と中 国語 で 挨 拶 した り交 流 を した い 。 中 国語 を学 ぶ の は私 の 趣 味 の
一 つ にす ぎ な い 。授 業 の 時我 々 はテ キ ス トを使 わ な い 。毎 回 テ ー マ が 違 う。天 気 、
国 際情 勢 、家 庭 、子 供 、仕 事 等 。 先 生 は次 々 と多 くの 話 題 を引 きだ して 下 さ り、
解 りや す い 。 我 々 は とめ どな く話 をす る 。 私 は参加 し初 め の こ ろ 、 中国人 は話 す
の が 速 す ぎ て 、彼 らが何 を話 して る の か 解 らな く、家 に 帰 つ て か ら頭 痛 が した 。
最 近 だ ん だ ん 慣 れ て 、今 は少 し解 る。 で も話 す の は ま だ あ ま り上 手 で は な い 。 先
生 は よ く中国語 を学 ぶ 日本 人 に尋 ね る。「 この 言 葉 、 この 文型 、 この 文 法 は 日本 語
で 何 と言 う ?」 「・…と … は違 う ?ど う して ?」 た とえ我 々 が 日本 人 で も、中国 人 に
日本 語 を教 え る の は難 しい 。 我 々 は 時 々 答 え られ な くて 申 し訳 な く思 う。
私 は も う年 を取 つ て い る の で 、勉 強 して もす ぐ忘 れ る。 先 生 は それ が わ か つ て
い る の で 辛 抱 強 く我 々 に 言 う。「い い よ 、忘 れ て も繰 り返 し話 す の が 大 事 、ゆ つ く
り勉 強 しま し ょ
!」
授 業 の 時 上 手 に話 せ た 時 は 、 私 は 家 に帰 つて か らす ご く嬉 し
い 、 上 手 に話 せ な か つ た 時 は 少 し悩 む 。
毎 年 か け は し会 は パ ー テ ィ をす る。参加 す る 日本 人 や 中国 人 は
30人 程 。パ ー テ
ィ の 時 、我 々 は先 ず 餃 子 や 冷 菜 を作 る。 本 場 の 餃 子 を包 む の は少 し難 しい 。 テ ー
ブル に は沢 山 の 中国料 理 、果 物 、 お 菓 子 が並 ぶ 。 それ か ら我 々 は 食 べ な が らお し
ゃ べ りを し、ゲ ー ム も して とて も賑 や か 。又 、感 想 を発 表 す る時 は少 し緊 張す る。
で も毎 回 パ ー テ ィ が 楽 しい 。
私 が か け は し会 に参加 して 最 も嬉 しい の は 、 多 くの 中国 人 や 日本 人 と知 りあ え
た事 。 皆 年 齢 は様 々 だ け ど同級 生 だ し、家 族 と同 じで 苦楽 を共 にす る。 こ こは 何
時 も和 や か な雰 囲気 に包 まれ 、私 は子 供 の よ うに 大 笑 い す る の で 、顔 の しわ が ま
す ます 増 えて き た 、ど う しよ う 1皆 の お か げ で この よ うな 有意 義 な生 活 が 送 れ る。
特 に銭 先 生 に は感 謝 も尊 敬 も して い る。 我 々 の 最 終 目標 は流 暢 に 日本 語 や 中国語
を話 せ る よ うに な る事 と 日中両 国 の 友 好 を深 め る事 。 我 々 は更 に勉 強 を頑 張 る
!
37
協会水 曜朝
高共 的妙
佐 々 木 由利 子
L次 高来 的夢 ,但 是最 高共 的炒 。 就 是我 用 浜活 在 妙 里悦 透 。
我一年倣り
升始 学 コ浜 活 辻 了半 年 以后 ,我 是 第 一 次倣 遠 祥 的妙 。逮 神 感 覚 是 炊来 没体
唸 遣 ,太 高 来 了 。 炊那 吋 升始 早 晩 心 情特 男J舒 物 。 以后 毎 天 晩 上 睡 党 前 ,我
都希 望 4tt用 洪 活 悦 活 的炒 。
大家 傲 適 用 洪 悟 沈 活 的夢 没 有 ?今 天 晩 上 一 定会 倣 一 今 好 炒 唱
!
楽 しい 夢
私 は 1年 に何 回 か 楽 しい 夢 をみ ます 。 最 も楽 しい 夢 で す 。 夢 の 中 で 、私 は
中国 語 を話 して い ます 。 中国語 を習 い 始 めて 半年 経 つて か ら、初 めて この
夢 をみ ま した 。 この 感 覚 は今 まで体 験 した こ とが な く、 とて も嬉 しか つ た
で す 。それ か ら、毎 晩寝 る前 に 、私 は 中国語 で 話 す 夢 をみ た い と願 い ます 。
皆 さん は 中国語 で 話 す 夢 をみ た こ とが あ ります か ?今 晩 は き っ とい い
夢 をみ ます よ
!
朱家 角 的回仏
高塚 俊 代
逮 今 三 月我 ↑]老 再 口済 同了 上 海 。上 海 作 力径 済 的 中 心 ヽ速 友 展 了 。 到
処可 以看 到 彼 多摩 天楼 ,街 上 携 満 了人群 和 奪 。 高 升 那 祥 的大 城 市 的噴 同
,
我想 去 中 国的悠 困 的地 方 ,那 就 是朱 家角 。
│]坐 公共 汽 牟 一 今 小 吋左 右 去那 プ
L。 単 程 伶 格 一 今 人
炊 旅済 集 散 中心 我イ
是十 二 峡 ,1卜 常 便 宣 。
朱家 角 是今 凩 光 明媚 的水 多 ,逮 一 帯 的送 河 就 像 迷 富 一 祥 交鉄 在 一 起
,
滑 送 河 的家 家 声 声 都 有 自培 和 黒色 的瓦 ,気 園 因通 。 我 イ
│]銀 上海 的大学 生 一
起 坐 船 ,費 用 一 百 二 十 快 均 擁 了 。船 夫舵 得 好 像 威 尼 斯 的情 景 。 下船 后 ,在
河 辺 的小路 進 進 ,看 到彼 多擁 子 ,餐 庁和 特 声 店 ,非 常 熟 同 。
│]吃 観 鈍 和 芝麻 丸子 ,又 好 吃又 便 宜 ,可 以悦 是 大 森 的味 道 。
午 仮 吋我 イ
現 在 逮 りL逐 保 留着 清 代 的 郎局 和 中変店 ,t上 人 感 到 悠 久 所 史 。朱 家 角 是
都 市 的 一 決 縁 洲 ,所 以希 望 逮 宝 貴 的地 方 能被 窄持 下 去 。
38
栄 町水曜夜
″オ 層 タ ク ラス
《クラ ス紹介》
芳男 ・ 石井 勘 之
2月 か ら 6月 迄耐震 工事 の 関係 で 、暫 くの 間栄町 公 民館 か ら本 町 青少
年 セ ン ター にお世話 にな つてい ます。 4月 か らは 初級 Bク ラ スの メ ンバ
ー も 5名 合流 し、 3・ 4・ 5年 目の総勢 15名 の混成 クラ ス とな ってい
林
ます 。 混成 クラス で始 ま って lヶ 月足 らず 、 王老 師 とも皆初 めてで 、 ま
だ遠 慮 してい ます が “中国語 を学ぶ "と い う同 じ 目的 を持 ち集 うメンバ
ー です ので 直 ぐに打 ち解 けて、楽 しい クラ ス にな る と思 い ます 。 工老 師
の授 業 は丁 寧 で 分 か り易 く、か つ 新鮮 です 。
皆受講後 3年 以 上 の為 、授 業 に対 して様 々 な思 い を持 つてい る と思 い
ます が 、 王老 師 を中心 に大 い に語 り、活気溢 れ るクラ ス に したい と思 い
ます 。
《壱 師 ■ ロフ ィー fL》
王
錦涛
出身 地
…
…
誕生 日
来 曰 日時
12月 30日
2003年 3月
来 日理 由
日本 語 を勉 強 す るた め と
自分 の 視 野 を広 げ るた め
中国 出身 学校
日本 LT4身 校
寧夏大学
文教大学大学院
日本 での職業
言語文化研 究科
中国語教師 。事務
夫
家族
趣味
―
…
…
寧夏
旅行
―
―
―
栄 町水曜夜
《老 師的 一 句》
縁
王 錦涛
一 籍 眼 ,我 来 到 日本 快 十年 了 。句 川 口 日中友好協会 相沢也快十年 了 。想
一 想感慨万千 。
図1到 日本第 二 年 ,就 有 嫁在 川 国市 日中友好協会 教 室帯浜選 深 。看到有那
次 多喜欧浜活 的 同学在努力 学 コ ,努 力使用 掌握 的単飼 活法会 iC‐ ,我 感到ヨト常
高 X,也 因此 結沢 了許 多朋 友 。后来 因力 工 作美 系根久没 有在逮 里 帯深 ,但 与
在 逮里 結沢 的朋 友却 一 宣保 持咲 系 。逮士 我在 日本 的生活交得更 加キ 富多彩 。
因此我要感洲有逮祥 一 今 能和大家結沢 井 且 一 起努力学 コ的机会 。
吋隔多年 ,又 能有嫁在逮里 帯深 ,我 希望 能箱沢 到更 多 的朋 友 ,能 和更 多
的同学 一 起努力学 コ浜活 、一 起 来汰沢 中国 。■ 我イ
I]一 起 快 示地 学 コ唱
!
曰
縁
あ っ とい う間 に、来 日して も うす ぐ十年 にな ります 。 川 口 日中友好協会 と
も十年 の付 き合 い にな ります。振 り返 って みれ ば感無量 です。
日本 に来 て 、 二 年 目か ら縁 が あ り、川 口 日中友好協会教 室 で 中国語 を教 え
るこ とにな りま した。 た くさん の人 が熱 心 に学 んだ 言葉 と文法 を使 つて 中国
語 で 会話 しよ うとい う様子 を見 る と、 とて も嬉 し く思 い ま した。友達 もた く
さんで きま した。 そ の後 、仕事 の 関係 で しば らく教 えてなか つ た のです が 、
知 り合 つた友達 とはず っ とお付 き合 い を させ ていただいています。 それ は 日
本 で の生活 を更 に豊 か に して くれ ま した。 この よ うに、皆 さん と知 り合 い 、
一 緒 に勉強 で きる機会 に感謝 しています。
何年 かぶ りにまた縁 があ って 、 ここで 中国語 を教 えるこ とがで きま した。
も つ とた くさんの人 と触れ 合 い 、 もつ とた くさんの人 と一 緒 に頑 張 つて 中国
語 を勉強 し、 中国 を理解 しま しょ う。 一 緒 に楽 し く勉 強 しま しょ う
!
40
栄町水曜夜
《受講 生 随筆 》
セ ピア色 の 色紙
川俣 明子
マ
レビ
の
の撮影 があ りま
の
こ
でテ
りま
が
ドラ
とにな
先
会社
随分 前
す 、勤務
した。 タイ トル は忘れ て しまい ま したが 、俳 優 の長 門裕 之 さんや 中村 玉 緒 さ
ん な ど有名 な方 が 出演 され てい ま した。私 達社員 は興 味深 く撮影 風 景 に見入
ってい た ところ 、突然 、 エ キ ス トラで出演す る こ とにな って しま い ま した 。
ほん の少 しの 出番 では あ りま したが 、貴重 な体験 を しま した。 ロケ終 了後 に
長 門裕 之 さん か ら頂 い た 一 枚 の色紙 。
そ こに書 かれ ていたのが 「人間 万事塞翁 が馬 」 で した 。 (じ んかん
さい お うが うま)と 読 み ます 。
ばん じ
ある城塞 のほ と りに 、塞 翁 とい う老人 とそ の息子 が暮 らして い た。
ある 日、彼 ら親子 の馬 が突然逃 げ出 して しまったた め 、
周 囲 の人 々 は馬 を失 つた親子 を気 の毒 が つたが 、 当 の老人 は 、
「不幸 か ど うか は果 た して 分 らん よ。 も しか した ら良 い こ とがあるか も
しれ な い 」 と、平然 として い た。
間 もな く、逃 げ出 した馬 は立派 な名馬 を連れ て 戻 つて きた。
不幸 が転 じて 幸運 とな ったた めに 、
周囲 の 人 々 は親子 の幸福 を感 心 したが 、
老人 はや は り平然 として、逆 に こ う言 つ た。
「も しか した らこれ が 災 いの も とにな るか も知れ な い 」
問 もな く息子 が この馬 か ら落 ち、
脚 が不 自由 とな って しまったた め周 囲 は同情 した。
しか し老 人 はそれ を見て、
「これ が 幸運 をよぶ こ とにな るんだ 」
と言 い 、 一 向に動 じなかつた。
そ の 直後 、戦争 がお きて、町 の若者 がほ とん ど餓死 したが 、
脚 を折 つてい た老人 の息子 は 、そ のお 陰 で命拾 い を した。
とい う話 が 語源 にな ってい るよ うです。 (資 料 よ り)
人 生 には測 り知れ な い 出来事 が待 つてい ます 。 幸せ な こ と、辛 い こ と。 で
も、 めげるこ とはな い よ。 ラ ッキー がア ン ラ ッキー に 、 またア ン ラ ッキー が
ラ ッキー に ……。 ことあ る ごとに思 い 出す 、 大切 な一枚 の色紙 。
41
栄 町水 曜夜
「チ ャイ ナ タ ウ ン神 田」
林
芳男
「チ ャイ ナ タ ウ ン神 田神 保 町」 ……・?
そ の 文 が 目に入 り、そ の 雑誌 を手 に しさらに 驚 いた 。1906年 当時神保 町界 隈 に
は 1万 人 の 中国人 留学生 が い た との こ とで あ る。 当時 の “日本 "は そ ん なに魅 力
的だ っ た のか ?海 外 の 日本 に対 す る評価 が落 ち るに つ れ 日本 へ の 留学生 も減 り、
また海外 へ の 留学 を希 望す る学生 も減 る現在 と比 べ 何 が 違 うのか ?
明治 に入 つ て 40年 足 らず 、東 ア ジア の 小 さな島 国 “日本 "が 開 国 か ら僅 か 40
年 で 日清 、 日露戦争 に勝利 し列強 の 末端 に仲 間入 りした こ と 自体 、 隣国 中国 の 若
者 か ら見れ ば 驚異 だ つ た に違 い な い。 特 に列 強 が傍若 無 人 に利 権 を振 り回す 現状
に義 憤 を感 じる若 者達 は、 日本 は明治維 新 を成功 させ 、 どの よ うに近代化 を進 め
た のか 大 い に 関 心 が あ った に違 い な い 。
そ の 留学 生 の 中には孫文や魯迅 、そ して 蒋介 石 、そ の 他辛 亥革命 の 中心人 物 の
多 くは 日本 留学経験者 で あ つた とい う事実 (1905年 、革命 の 指導 的役害1を 果 た し
た 中国同議会 は東京 で 結成 され た )。
そ の 後周 恩来 も
1917年 に 日本 留学 を して い る。 多 くの 留学生 が神 田神保 町界
隈 に集 ま り、留学生 の た めの 諸施 設 もで きる中、留学生相 手 の 中華料理屋 もFTl現
し、 企盛 期 には百数十件 の 中華料 理屋 が 営業 し、 さなが らチ ャイ ナ タ ウ ンの様 相
を呈 していた 。 また元 々 古書店 が 多 く 「本 の街 」 と して の神保 町 には 中国 関連 書
を扱 う店 も増 えてい つた 。 そ の 中華 料理 店や 書店 の何 軒 か は今 も営業 して い る。
慣 習 も食 文化 も違 い 、厳 しい生 活 を送 ってい た 中、遠 く離れ た 異 国 の 地 で彼 ら
は祖 国 を思 い 国 の将 来 を憂 いていた 。 そ んな 彼 らに 中華料理屋 の 存在 は 、遠 い 故
郷 を思 う唯 一 の 手段 で あ つ た に違 い な い 。
武 昌 での武 装蜂 起 (辛 亥革命 の発 端 )が 伝 わ る と革命 を 目指す 学 生 た ちは 一 斉
に帰 国 してい つ た。 そ して 清朝 は辛亥革命 で滅 び て い く。 そ の 後 中国 に対す る 日
本 の 侵 略 とそれ に対す る中国 の抗 日運動 (五 ・ 四運動 )の 高 ま リヘ と進 んでい き
満 州事変 、 日中企 画戦争 へ と突 入 してい く。
戦後 の 日本 はひ たす ら経 済 立 国 の 道 へ と進 み 、や がて 世界 第 2位 の 経 済大 国 と
な る。 一 方 の 中国は とい うと、権 力争 い の末 、毛沢東 の 文化 大革 命 で 内向 き の 度
合 い を強 めてい き、改革 開放 の 父 。郡 小 平 の 出現 を待 たな けれ ば な らなか つた 。
現在 の状 況 は ど うか ?日 本 は世界経 済第 2位 の 地 位 を 中国 に 譲 り、 バ ブル 崩壊 か
ら リーマ ンシ ョ ック、東 日本 大震 災 、そ して欧州 通 貨危機 か ら来 る超 円高 へ と続
き、す つか り自信 を無 く し内向 き指 向 へ と進 んで い る。
中国 は今や 世 界第
2位 の 経済 大 国 として 国際 的 な発言 力 を高 め 、領 土 問題 では
時 には強 引 とも思 われ る手法 も取 る よ うにな つた 。
42
栄町水曜夜
神 田・ 神保 町界 隈 では 100年 前 の チ ャイ ナ タ ウ ンの 面影 は見 られ な い が 「本 の
街 」と して の 存在 は健 在 であ る。今外 国語 を志 す 人達 の第 1位 は 中国語 だ とい う、
正 に逆 転 で あ る。
100年 前 、 日本 に学 べ と大挙 して 留学 した 中国 の若者 達 、そ こか ら幸 亥革命 が
始 ま り、五 ・ 四運動 の 導火 線 とな ってい った 。 結局 日本 は彼 等 に とって反 面教 師
だ ったの で あ る。
現代 では 、 日本 の バ ブル 崩 壊 の 教 劃│も 、超 高齢化 社会 へ 突入 した 日本 の 将 来 の
姿 も彼 らに とつて は反面 教 師 として の 手本 とな っ て い る。膨 大 な財 政赤字 を抱 え
いつ 欧州 と同 じにな つ て もおか しくな い 今 の 日本 。
100年 前 の神 田の よ うに 国 を憂 い 、 国家 の再 生 を思 い描 く若者 がい ずれ この 国
に も必 ず 出現す る と期待 して い きた い 。
ILF冬 菖l原鍵肌董醜濾註
じ
閑
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琵 琶 の無 握 に興 ら して 員 面 竪 型 共 鳴 箱 を作 り、 古 等 の 圧 力 発 振 原 理 を利
用 して 共 鳴 簸 の 上 に ■ ,り の 末 機 ― ダ ー を作 る と とも に共 鳴 箱 の 後 ろ に二
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列 弦 を揉 音 を
力 振 動 置 を f7■ 、風
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弦 の鍾 離 、 音 の プ 圏 セ ス の 並 べ 方 な どの 菫 要 な 科 学 的 要 素 を取 り入 れ て 像
作 つた も の で ある 。 履 積 螢 後 の零 体 は琴 台 、黍 統 、弦 軸 板 、 竪型 共 哺 維
(桐製 )、 ■ 21jの 本 議― ダー 、鷹 力撰 動 装 置 、風頭 、音 を出す穴 な どか ら
な る もの であ る。器 の 高 さは
1′
78777、
重 さl ■
4θ
峰 、 7音 の 音麟
列 で、
72本 の弦 (36本 は員 じ度 の 弦 )が あ る。 雁柱 箋 後 は現 在 、独 葵 、伴 奏 、
合 奏 に よ く模 わ れ て い る 。
ウ ラ表鞭
頸 ′工 倉 院 御 物
書 の 「く ご 』
124鋭
″
露グ懲
43
協会木曜朝
″ r木 層 ″ ク ラス
《クラス紹介》
定兼 雅義 ・長島 悦子
私達 の クラスは四月か ら新 しい受講 生を 2名 カロえ、男子受講 生 3名 、女
子受講生 6名 、計 9名 で運 営 しています。
中国語 の学習 も入Flか ら 7年 目を迎 え、 日常会話 には不 自由無 く話せ る
よ うにな つたのでは と思われ勝 ちですが 、取 つ掛 か りの容易だ つた 中国語
も学べ ば学ぶ ほ ど奥が深 い事 を実感 させ られ 四苦人 苦 しています。
しか し、 クラスの雰囲気 は和気藷議で いつ も笑 い声 の絶 えない授業 を行
つてお り、毎週 2時 間 の授業 を楽 しみに している人達 ばか りです。
今迄 、青島、大連 、北京 と 3回 行 つた 中国 での実地研修 も、話す機会が
少な くタクシーの行先 も専 ら筆記 で済ませた感 があ り、まだまだ勉強不足
を感 じています。
今年 は、入門 の時にお世話 にな つた小原講師 が指導 して くだ さることに
な り気持 ちを新たに 日常会話 を習得 し、実地研修 を筆記無 しで行 かれ るよ
うにクラス全員 で頑張 つて います。
小原先生 ご指導 よろ しくお願 い します。
僣 師 7ロ フ ィー rι 》
小原 春輝
―
出身地
誕生 日
―
血 液型
B型
来 日日時
1995年 1月
中国 出身 学校
西安外 国語大学
日本 での職 業
非常勤講師
四人家族
家族
学コ英濡
運命
趣味
来 剛理 由
い
44
―
険西省 西安 市
1月 28日
い
―
協会木 曜 犠
《老師的一句》
毎夭有―些感劫
小原 春輝
一 宣覚得 自己不是一今多愁薔感的人 。用我母来的議来悦 ,我 是一今 “鉄石心腸 "
ヒ如 ,小 吋候彼少奨 。看 屯祝 、 屯影也彼少流濃或欣喜若狂 。不管去堺5里
的人 。し
葛家人分男J舞 也意是平平淡淡 。不明白男1人 力什次抱共痛哭或ツ
ロ眼江江 。
,
一 菫覚得遮就是 自己,没 有大喜大悲 ,也 没覚得有什久不好 。不是有 一 首歌也遮
祥唱瞬 “平平淡淡是最真 ち
ヒ較容易感劫 。し
ヒユロ,看 到初春盛汗
来到 日本 以后 ,一 責覚得 日本人或 日本女性 ♭
llX罐
"。
的櫻花 ,也 会満諭喜悦地賛
漂亮町 看,1嬰 ノ臓 里熟睡的小輸 ,也 会友出一
・・・ ¨・
声 “可愛 "割 。甚至吃一 頓4良 平常的坂 ,也 会悦 “真好吃『│ぽ …・
毎逢逮吋候 ,我 当然也随声附和地悦着是 ,心 里調:想 :日 本文化真是鐵賦町 ,我
今生恐 是込不rll如 此 境界了 。
`}白
夢月流逝 ,籍 眼我 己来 日己 lL年 了 。人也不知不覚 己辻 了不惑之年 。
最近 ,我 覚得 自己交 了 ,交 得有些多愁善感 了 。我不知道是 由予 "れ 了夢数的嫁故
呪 ,逐 是俗逓競 的 “一 方水土券 …方人 ",在 逮片感情錮試的土地■ ,粗 グ如我 ,也
・
餐常身不 由己地被感魂着 ,毎 天 ,毎 天・・¨。
│‐
今天早起 ,出 去慢飽 。看兄淮家連ス瓢展的鯉色旗 ,就 想 : 逮家一 定有一今正
在菫壮成機的小男該 ,真 幸機 購 ;迎 爾磁 上 了一 位散歩的老人 ,他 低声悦 “早上 好 :"
L条 彼大 的
IJ井 不汰沫 ;快 到家 1可 国 l,爆 前伝右川里滋着ノ
我也有些感 魂 ,因 力我イ
1嘔
E・
負 ,trj獣 歌地済着 ,悠 然 自得 。我覚得逮些負真 了不起 ,tイIJ也 不抱怨什次 ,因
力水井不彼清清 。
感劫 ,井 不熟烈 ,小 小的 。但我却閑此喜悦起来 。逮些 小小的感劫 ,キ 富 了我的
生活 ,給 平淡的生活 ,増 添 了佐料 ,使 我原本平平凡凡的目子 ,交 得有滋有味起来 。
ヽ ■
可
ヽ
45
協会木曜朝
《受講 生 随筆》
母 と娘 と 中国語
小林 桂 子
日中友 好 協 会 で 中国語 の 勉 強 を始 めて 1年 が た ち ま した 。 初 級 ク ラ ス
で 丁 老 師 に ご指 導 い た だ き 、楽 し く中国 語 を学 ぶ こ とが で き ま した 。 あ
りが と うご ざ い ま した 。
本 年 度 か らは 協 会 木 曜 朝 ク ラ ス に 移 りま した が 、 中国語 の 会 話 練 習 が
中 心 に な つ て い て 、 とて も気 に入 つて い ます 。 日常 会 話 の 習 得 を 目指 し
て 、頑 張 りた い と思 い ます 。
今 日は 、娘 の 中 国 語 学 習 に つ い て 、 お 話 し した い と思 い ます 。 娘 は小
学
2年 生 。 上 海 出身 の 夫 の 希 望 もあ り、 小 学 1年 の 2学 期 か ら中 国語 を
習 い 始 め ま した 。
娘 が通 つ て い る 中 国 語 学 校 は 、 日本 で 暮 らす 華 僑 の 子 供 達 の た め の 補
習 校 の よ うな も の で 、週 に 1回 90分 の 授 業 で す が 通 つ て い ます 。娘 は 中
国 語 ゼ ロ か らの ス タ ー トで した 。 中 国 人 の 子 供 達 の 中 で 、 ど こま で授 業
に つ い て い け る の か 心 配 で は あ りま した が 、 これ ま で の 8ヶ 月 は 、 な ん
とか 頑 張 つて 勉 強 して い ます 。
最 初 は ピン イ ン か ら始 ま り、 これ は 3ヶ 月 く らい で 早 々 に終 了 しま し
た 。授 業 の ペ ー ス は か な り早 く、日本 語 と中 国語 の 両 方 で 行 われ ます が 、
宿 題 は 中 国 語 で 出 され る た め 、 親 の サ ポ ー トが 必 須 の 状 況 。 頼 りの 夫 は
出 張 で 不 在 に な る こ とが 多 い の で 、私 が 家 庭 で 娘 の 宿 題 をサ ポ ー トす る
た め に 、 毎 日 、授 業 参観 して 私 も勉 強 して い ます 。 上 海 人 の 先 生 は 厳 し
く、宿 題 は毎 日あ る の で 結 構 大 変 で す 。
ま た 、 ピ ン イ ン 終 了 後 は 早 速 、漢 字 を習 い 始 め て い ます が 、 これ が ま
た 厄 介 だ つ た り しま す 。 日本 と中国 の 漢 字 は 同 じだ つ た り、 そ う じゃ な
か つ た り… 。 書 き も微 妙 に 違 うも の が あ っ た りす る の で 、 日本 の 小 学
と同時 進 行 で 違 い も覚 えて い か な けれ ば い け ませ ん 。
校 で 勉 強 す る漢 字 '質
しか し、子 供 の 吸 収 力 に は 驚 い て もい ます 。 この 前 、娘 が 何 気 な くポ
ロ つ と中 国語 で 話 しま した 。私 には そ の 言 葉 の 意 味 が わ か らな か った … 。
確 か に、 どこか で 聞 いた言 葉 だ った けれ ど、 え― と一 なん だ っ
け ?????授
業 で 先 生 が 何 度 も 日に して い た 言 葉 … ◇ 週 に 1回 90分
とい う短 い 授 業 で す が 、娘 は 吸収 して くれ ま した 。 一 方 、私 は覚 えて も、
どん どん 忘 れ て い く … 思 い 出 せ な い … な ん と も情 け な い 脳 で す 。 そ の う
ち 、 嬢 に は軽 く抜 か され る の で し ょ う。
46
協会本曜朝
中 国 語 の 習 得 は 長 い 道 の りに な りま す が 、母 娘 、共 に頑 張 つて 、続 けて い
けたらいいなと思います。
上 海有 一 今不可 思 波 的博物館
小林 直美
今天,我 来介須 一 今好玩的地方。 我去上海的 ENl候 ,我 毎次一 定去 一再次。
那是 一今在参考手・
J・ 上也拭不到的小昆虫博物鐘。里面有海豹 、鯉負、盗有 我炊来
没看到道的希奇的猥子 ,珍 奇的昆虫、蛇、海亀、鰐負、 lII羊 、等等。
如果体星期天去的活 ,可 以投眼。遷能看到蛇 ,島 和劫物的表演。我昴子非常
喜欺遠今博物箱 ,毎 周去一次。因力喜欺 ,他 薬有一年的免費入場十。
但是 ,速 今昆 虫鈷里面的光残暗,姪 有点几臭。博物徳的名字曇然叫昆 虫億
但是里面有各紳各祥的劫物 ,猛 禽美、色、爬 虫…什 久都有。
遠是今不可思双的博物備。不通 ,我 覚得是 一今好玩的地方。如果祢個有机会
帯刊ヽ
子或者核子去上海的活 ,我 建 双体個 一 定要去昆虫博物徳看看
,
!
参双昆虫館后 ,芳 邊姪有宗方明珠塔。而且 ,那 辺姪可以一滋看外淮的景色 一
逸喝珈リト
.或 者 ,去 好吃的意大利料理餐庁 ,急 公祥 ?然 后附近盗気濃 覧船。要是
F‐ 心 的。
体個去玩的活 ,也 一 定会 ‐
勿改初志
后藤 和可子
我是逮次入 :1班 約副干事 。和入 11班 同学 一起学コ,彼 高米 。
/2J改
初志 "我 也想好好ブL学 コ 。現在オ痛感 ,友 音不正碗 ,員 然学 了根多年
“
浜活 , 却常常不 明白中国人悦約活 。
逮 回我想是一 今好机会 , 所 以,不 折不携地加油 。
訳
初 心にかえつて
私 は、今躍入門 クラスの、酵1幹 事 を しています。入 F5の 皆様達 と一緒 に学習議
来 て嬉 しいです。
初 心にかえつて、私 も しつか りと学ぼ うと思 い ます。現在 は、発音が不適格 で
あることを、痛感 してお ります。長年学 んだけれ ども、中国人 の話 が 、良 くわか
らない。
それなので 、今回は良き機会だ と思 つてお ります。挫 けな いで頑張 ります。
47
協会木曜朝
i
我 和 中国
白根 晴代
我汗始学 コ中文 2年 多了。瞬力也提高了一些 ,毎 天快示地学コ中文。
現在我対 中国的情況越来越感共趣。
中国有四千年以上的痴史,是 日本的老瀬。日本向中国学コ了文化 ,2木 和医
道等等。 中国和 日本有密切的美系。
我打算技今机会去中国旅海,多 了解中国。因此我想盤数学璃中文。
田
私 と中国
わた しは申国語 を学び始めて 2年 と少 しです。聞 く力 も少 し向上 して 、楽 しく
中圏語 を学んで い ます。
今私 は中国 の事 についてます ます興味 をもつてきま した。
中国は 4千 年以上 の歴史があつて 、日本 の師匠 です。 日本 は中国 に文化、芸術
や 医学な どを学んできま した。 中国 と日本には密接 な関係 があ ります。
私 は機会 を見つ けて申国旅行 を したい し、申国 の ことをもつ と理解 したいです。
そ のために も中国語 を学び続 けたい と思 っています。
“
活到老 学到老"
後島 悦子
老金、老銀 "喝 ?大 釣 20年 以前 ,地 偶成 了 日本 中的活題。地偶
体偶氾得 “
L
L。
大女 ブ
是超越 一 百夕的双胞胎姐妹。前几天 ,我 在屯視上看至1了 老銀的四今女 ノ
L也 不衰退。
L也 89夕 了。地↑1都 身体健康 ,大 朧的智カ ー点ブ
今年 98夕 了。 四女 り
瞬悦 ,匹 女九 60夕 的吋候 ,拿 到了汽奪賀駿江 ,雨 地現在也弄着牟。地個都喜欺
11都 排命地学 藩。
瞬国会籍播。我偶星期 四渓澤 班弄始学 珂渓悟己経第 七 年了。同学イ
11有 各紳各祥的愛好。比如 悦 ,写 毛宅 ,打 太扱拳 ,紳 花箪
除了学 璃渓漂以外 ,他 イ
,
l]悦逮些事。
学 璃英藩什久的。雨二 ,汗 始向新的事物り 的人也有。我喜X/A7瞬 他イ
"遠
`識 ,対 我来悦是重要的 目林。
句活
活到老学静1老
暮欺瞬新鮮有趣的事。 “
48
協会本 曜朝
有没有快示 的刺激 ?
孝一
大家有没宥文化神轟的峰輸 ?23年 前我受到了文化神善 ,由 干在 中国初次看
至1的 光景。那是平 日早上在繁牛街里充瀧着穿中山装的人個 ,声 大的天安「可声場和
土屋
富有房史釣故富等。
以此力籍机 ,我 希望避 一歩加深了解 中国,之 后 ,我 有机会在川 目中文教室汗
政
台学 コ中文。 中文越学越雄 ,可 是不知力什久我喜X/A7中 文。
最然 ,我 個都希望 自己到什久吋候也身心倶健雨■能越決示的生活。我也希望
速祥。可是淮也没有那祥的保涯。
力了度泣身心倶健雨且快示的生活 ,我 決力必須給身 心経 常通度的刺激。対我
活到老 ,学 至1老 "。
来悦幸号有快示的刺激 ,那 就是学 覇中文。我喜欺的句子是 “
今年也在精 彩的小原老帰下,我 想眼同学 1-起 快示地学コ中文。
小原 老帰和国学偶今年也清多多美照
1`
:
国
楽 しい刺激 が あ ります か ?
皆 さんはカルチャー シ ョックの経験 があ りますか ?23年 前、私は中国で初 め
て見 た光景 にカルチ ャー シ ョックを受 けま した。そ の光景 は平 日の朝 か ら繁華街
に溢れ る人民服 の人 々、広大 な天安門広場、そ して歴史に富む故宮等 です。
これ を契機 に 中国 について もつ と理解 を深 めたい と思 ってい ま した。 その後川
口中国語教 室で 中国語 の勉強 を始 める機会 を得ま した。 中国語 は勉強すればす る
ほ ど難 しい け ど、なぜか 中国語 が好 きです。
ところで 、私達 はみんな 自分だけは何時迄 も心身 とも元気 で、楽 しく人生 を送
ることができると信 じています。私 も同 じ想いです。 で も誰 にもそんな保証 はあ
りませ ん。
心身 とも健康でかつ楽 しい生活 を過 ごすためには、常に心身 に適度 な刺激 を与
えることが不 可欠だ と思 い ます。 私 には幸 い楽 しい刺激 があ ります 、それは中国
語 の勉強 です。私 の好 きな言葉は 「生 きてい る限 りは勉強 」です。
今年 も素晴 らしい小原先生 の下 で、クラス メー トと一緒 に楽 しく中国語を勉強
したい と思います。
小原先生 とクラス メー トの皆 さん 、今年 も宜 しくお願 い します。
49
協会木 襲
凝朝
活到老 学到老
森
佐藤一斉先 生在 《言志 囲景》 中有遮祥一段名言
少雨学,則 壮雨有力
“
壮雨学,員 J老 雨不衰
基'1梵
:
;
;
老爾学,興 J死 雨不朽 。"
以遠段活激励 自己,避 入渓選教室越去
前遊 一歩后退爾歩的現状。
最近在相原茂先生的著作中漢到一段 活
r六
年了。 当初熱情逐夕減退 ,近 来是
:
“学 璃外瀬資在堅持.
即使逸学逸忘 ,也 要堅持。
意之就是要不高不奔。
総有机会就学。
微到遮点彼重要。"
我深受鼓励 ,下 定決心今年也要鑓敏努力。清多多指教
圏
│
生命ある限り学ぶ
佐藤 一斎先生 の 《言志 因録》 にある
“
少に して学べ ば、員pち 壮 に して為す事あ り。
壮 に して学べ ば、良
「 ち老 いて衰 えず。
:
老 い て学べ ば、長βち死 して構 ちず。"
この言葉 に背を押 され、中国語教室の間をRIIい て六年経 ちま した。 当初 の意気
込み も年 とともに減速 、一歩前進 二歩後退 のIII今 です。
最近、権原茂先生 の著書 の 中で見つ けた言葉
:
“
外国議 は続 ける ことです。
学 ぶ そばか ら忘れて もいいか ら、それ で も続 けること。
ともか く離れない こと。
かすかな縁で も持 ち続 ける こと。
これに尽 きます。"
この名言に励 ま され 、今年度 も精進す ると決めま した。 ご鞭撻下 さい。
50
協会木 曜夜
″癸 木層 タ ク ラス
《クラス紹介》
田村 由美
私 た ち木曜夜 クラ ス は 、王 梅 先 生 の工 夫 され た 内容 で 、毎回充実 し
た時 間 を過 ご しています。文法 を特定 しなが らの 明写や翻洋 (日 本語
を 中国語 へ )に 始 ま り、各 自の近況やテ ーマ につい ての会話 と質問、
教科書 を使 うが 、教科 書 に使 われ ない授 業 な ど。
一 度是非 の ぞきに来 て くだ さい。 大歓迎 です。
《壱師 7ロ フ ィー fL》
王
梅
‐
藝
―
出 身 地
湖 北省 武漢
誕 生 日 3月 16日
:来 口日目
寺 19944■ 10月
出身 大学
上海 外 国語 大 学
家族
主 人 と二 人
テ レビ ドラマ 鑑 賞
趣味
夢
血液型
穏 や か な 人 生 を送 る
B型
―
―
《老師的一句》
桂花瓢香的吋市
王
梅
玉
10月
在埼 ,9月 底到
初 ,桂 花遍地升放 ,到 姓充満香甜酸郁 的気味 ,今 人
。
陶酵 毎 当 日到逮桂花 的香 味 ,我 都会感 鋼愉 快 、新鮮和給 力 ,心 共涌 上 美不
可吉 的滋味 。
ズυ
協会木曜夜
1994年 10月 1目 ,我 作力 留学生第 一 次来到桂花瓢香 的埼 玉 ,借 住在南 ―
b
野 一 今朋友家 。第 二 天 ,借 了朋友 的 自行奪 ,一 今人 胞大学 、市政府和銀 行
去亦理各神手 箋 。
道路人 ,都 来 tJ」 地
半党是初 来乍 到 ,途 中好 几次迷 了路 ,可 不管洵 li4j明
`今
力我指路 。而 在亦手銭 吋 ,大 学 、市政府 、銀 行 的亦事 員也都熱情地接待 我 。
│],所 有 的手筏 都在 当天版利地亦完 了 。減 想 一 下 ,如 果在 中国亦逮
多号 了他イ
些手筏 ,不 伎 一 人堆 以亦好 ,逐 会受亦事員不少寓嚢気 。
逮 一 天 ,日 本人 的来切恣度 、 日本 公共机綺 的 良好服 各 ■ 我感触頗深 。激
,
む人
劫之余 ,対 未 来 的新生活 也充満 希望和倍 心 了 。 国家 的路 上 ,桂 花 的香味シ
心 牌 ,合 着満腹 的希望和倍 心 ,都 深深地 刻在 了心里 。
炊那天起 逮去 18年 了 。当然 ,18年 的所程是不平垣 的 ,曽 多次芸受意想 不
到 的挫折 。但是 ,毎 年 一 到桂花 瓢 香 的吋市 ,那 天 的径 所就会在 眼前浮現 ,而
那径所 帯給我 的充満希望和信 心 的心 情 ,就 会 在 心 共 隻活 ,如 果 吋値身 陥困境
我会鼓起杏斗 的勇気 ;如 果正姓千版境 ,我 会感到更加率福 。
正 因力逮祥 ,我 息是欧快地迎接桂花瓢 香 的吋市 。
,
埼 玉 では 、9月 末 か ら 10月 初 めにか けて、至 るところで金木 犀 が 咲 き、
くてす がす が しい 香 りが あち らこち ら漂 い 、人 を気持 ち よ く酔 わせ ます 。
木犀 の香 りを感 じる度 に 、 自分 の心 には 、楽 しさと新鮮 さ と強 さが伴 う、
とも言 えな い 良 い気持 ちが蘇 るのです。
甘 金 何
金本 犀 の 香 りが 漂 う頃
1994年 10月 1日 、留学 生 として初 めて 、 か ぐわ しい金 木犀 の香 りが漂 う
埼 玉 に来 て 、南与野 の友人 の家 に下宿 しま した。 翌 日、 い ろい ろ手 続 きをす
るた めに友人 の 自転車 を借 りて 、一 人 で大学や市役 所 、銀行 を回 りま した。
初 めての 土地 な ので 、途 中何度 も道 に迷 い ま したが 、道行 く人 に聞 く度 に
優 しく道 を案 内 して も らい ま した。 また 、大 学や役所 、銀行 で手続 きを した
際 、 ス タ ッフは誰 もみ な親切 に対応 して くれ ま した。 そ の おか げで 、す べ て
の 手続 はそ の 日の 内 に スムー ズ に完 了 しま した。 考 えてみれ ば 、 中国 ではそ
ん な手続 きをす るには、 一 日で済 む こ とはな く、職員 の 不機嫌 な顔 で気 分 が
滅入 つた こ とが逆 にあ りま した。
そ の 日は、 日本 人 の優 しさと、 日本 の公的 機 関 の サ ー ビス の 良 さを快 く体
験 しま した。感 激 の あま り、未 来 の新 生活 に対 して 、希 望 と自信 が満 ち溢 れ
る よ うにな りま した。 帰 宅 の途 中、金木犀 の香 りが じわ じわ とお み渡 り、溢
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協会木 曜夜
れ た希望 と自信 にあい ま って 、深 く心 に刻 まれ ま した。
そ の 日か ら 18年 の歳月 が経 ちま した。 もちろん 、 18年 間 の道程 は決 して
平 坦 な もので はな くて 、予想 もつ か な い挫 折感 は何度 も味 わ っ た もので す。
ところが 、毎年 、金木 犀 の香 りが漂 う頃 にな る と、あ の 日に体験 した こ とと、
それ に よ つ て希 望 と自信 に満 た され た気持 ちが、思 わず 心 に浮 かんで きて 、
ピンチ に陥 る 自分 であれ ば 、 立 ち向か う勇気 を奮 い 起 し、1贋 調 な 自分 であれ
ば 、幸せ を倍 に感 じます。
そん なわ けで 、 金木 犀 の香 りが漂 う頃 を、 いつ もわ くわ く して迎 える の で
す。
《受講 生 随筆 》
2011年
曲阜・ 泰 山・ 済南 の旅
田村 由美
2005年 は上海周辺 を リュ ック担 いでふ らふ らしたc2006年 は行 き と帰 り
の 北京 のホテ ル だ けをネ ッ トで押 さえて 、現 地 のツアー に参加 。 2007年 は高
す ぎる格安航 空 券 を手 に、鄭州 ・洛 陽 へ飛 んだ。北京 オ リン ピ ックの 2008年
は北 の 地 、大連 。長春 ・ 藩 陽 へ 。 2009年 は常春 の都 、昆明 。大理 ・ 麗江 へ。
2010年 はあ こがれ の九 案溝・ 成都 へ 2人 で。そ して 、2011年 は 、山東省 済南
を拠点 に と旅 立 った。
1、
北京経 由
昨年 あ こがれ の 地 を踏 んだので 、なか なか予 定 も定 ま らず 、結局近場 で 曲
阜・ 泰 山を 目指 して飛行機 を取 るも、 直行便 は売 り切 れ 、往復 北京 1泊 ず つ
経 由 の チケ ッ トを確保 。 この 際 だか ら、北京 の友 人 に も会 って しま え と連絡
を取 つて旅 立 った。
北京 はオ リン ピ ック の前以来 だか ら、驚 い た。 首都空港 か ら、「机場快執 」
が 出 て る !終 点 で地 下鉄 に接 続。 楽 々 市内 へ。
北京駅 を背 に して ホテル ヘ 。 北京 駅前 は見 なか つた か らど う変化 した か は
わか らな い。友人 が待 つていて くれ て合流。 こ うい う行 き方 もま た 楽 しい。
翌 日、ふたたび地下鉄 か ら机 場快執 に乗 つて 空港 へ 。一 路、済南 を 目指す。
2,済 南
済南空港 で スムー ズ にバ ス に乗 るが 、 どこへ 行 くか は ?う ま く駅 のバ ス タ
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協会木曜夜
― ミナル で 降 ろ された ので 、バ ス をチ ェ ック 「机場 。80元 ・ 流水 」。そ の まま
歩 い てす ぐのホ テル ヘ チ ェ ックイ ン。 いつ も どお り駅 まで行 つ てみ る。 今 回
は列 車 の旅 はな いが 、駅 ご とに違 う時刻 。座 席 な どの 掲示板 を見 に行 く。 ホ
テル にはツア ー デ ス クがなか つ たが 、聞 いて み た らツア ー があった。2日 目曲
阜 と 3日 目泰 山を予約。 大明湖 に行 くには、 BRTに 乗 れ 、 とい われ て 出 か け
る。 ぼ ― つ と湖 を見 て 、駅 で 冷 えた ビール を買 う。 夕方 になる と路上 に店 が
増 えて な ごや か。 済南 の第 一 印象 は洗練 され た感 じが あって結構都 会的 だ と
思 っ た けれ ど、都会 じゃな いみ た いで 楽 しい。
3.孔 子 のふ る さと
第 3日 目、 いつ もよ り高 めのホテル で 朝食付 き。朝食 の メニ ュー が 多 い。
大lTで 言 われ た とお り待 つて い る と、 ドア マ ンみた い なお兄 さん と目が合
う。 お 互 い何 回 か 目を見合 わせ ていた ら、そ の人 は私 をツアー バ ス まで 案 内
して くれ るホテ ル の人 だ つ た。研修 生 み たい。駅前 で バ ス を探 して くれ て 、
ガイ ドに 引き渡 され る。 曲阜 へ の ツアー ガイ ドさんは 、出席 を取 る。「○○老
師 4位 !」 (○ ○ さん御 一行 4名 )て な具合。3時 間近 く乗 つて 、曲阜 に至1着 。
ここは 、三 孔 と呼 ばれ る孔子 のふ る さとで ある。 まず は孔腐 へ 。 そ の後 、
隣 の孔府 へ。 ここは孔 一 族 の住 ま い。 以前 、承徳 へ の 列車 の 中 で 、北東 大学
に通 うお姉 さん と会話 した ときに、「曲阜 は名字 が 、孔 、孔 、孔 │」 と言 つて
い た の を思 い 出す。
そ の あ と、レス トラ ン に案 内 され 自己倣仮。な んだか個 室 に紛 れ込 んだ ら、
4人 の 2組 の親子連 れ と一 緒 にな つて しまった。「私 たちは 4人 、彼女 は 1人
(と レス トラ ンの 人 に言 い 、私 を見 て )… 一 緒 に食 べ る ?」 と誘 つ て くれ た 。
ラ ッキー !感 謝感 謝。 一 湯 九莱 、丸 いテー ブル の食事 !(一 人 だ と滅 多 に食
べ られ な い )広 州 か ら来 たそ うで、「 日本 か ら一 人 で 来 たの ?通 訳 な しで ?す
ごいね 」 と言 つて くれ た。 この方達 には この後 もお世話 になる。
食後 は 、孔林 へ。林 の 中 にポツポツ と石碑 が建 ちま くる。 ミャ ンマー の バ
ガ ンの よ う。石碑 には第何 代 とか亥1ん であるのが 見 える。電気 自動車 に乗 つ
て 、 中を走 って 子L子 の お墓 に。 4人 組 のお母 さん、「ここは写真 はだ めだ よJ
と眠 る仕 草 を して くれ た。
ツア ー な ので そ の後 、お店 を二つ 回 る。 お茶 の店 と、本魚石 の店。
バ ス の 中で 、 ガイ ドが 15元 追加 と集 金 。 よ くわ か らな い け ど、み んな 払 つ
てい るか ら払 うと「真好 !」 どうい う意味 かな ?と 首 をか しげ る と「OK」 と。
説 明 も (私 はわか らな い け ど)丁 寧 で安 心 で きる ツアー だ つた。
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協会木曜夜
4.神 の住 む 山
第 4曰 目は朝早 いので 、朝食 が 出そ ろ ってい ない。 山に行 くので 、パ ン と
飲 み物 を買 つて 、小 さい リュ ックに詰 めてお い た。 またまた昨 日の お 兄 さん
がバ ス まで連れ て行 つて くれ る。「傘持 つて るか ?」 と聞 い て くれ た。 バ ス に
乗 り込 んだ ら、昨 日の 4人 組 さん とまた一 緒 だ っ た。 なんだか ち ょっ と うれ
しい。
泰 山 の あ る泰安 は、 曲阜 よ りも近 い。今度 のガイ ドさんは 、お客 に番 号 を
つ けた。私 は 15号 。 4人 組 の お母 さんが 「あなたは 15号 よ」 と教 えて くれ
る。 聞 き取れ ていた け ど親切 が うれ しい。 あ りが と う
さて 、 曲阜 と違 って ここは 「山Jだ 。 登 らな けれ ばな らな い 。 ガイ ドは一
緒 に行 くのか ど うか ?必 死 で 話 を聞 く。入 り口で泰 山行 き の バ ス に乗 り、 中
「登 るな らこの階段 、
天 門で降 りた。昨 日よ リツアー の人数 が 多 い。ガイ ドは 、
2時 間 くらい。 ロー プ ウエ イ は こつち 、料 金 は 自腹 」「∼ ∼ に 12:30集 合 」 と
言 つた。確認 す る と、「漢字 はわか るか ?」 と 「12:30南 天 11賞 億「1口 集合 」
と書 いて くれ た。「最後 には 中天 門 に 3:00だ よ」 とも。4人 組 さんは 、 ロー プ
!
ウエ イ ヘ 。 よ し、 ここまで来 た ら登 って しま え 、 と階 段 を上 が り始 めた 。 行
け ども行 け ども天 まで 続 くよ うな階段 をせ っせ と上 り、休 み 、 上 り、休 み。
木 々 には赤 い ひ もが 結 んで あ る。 途 中 のほ こ らには、 なぜ か 南京錠 がた くさ
ん つ け られ てい る。 これ はおみ くじや絵馬 みた い な もの ら しい。
赤 い 南天 門 が 見 えた ときは 、 うれ しか つ た。
集 合場所 に行 くと、 ガイ ドさんが い たので声 をか けた。「我現在 到 了 !」
ガイ ドさん と階段 に座 って み んな を待 つてい た ら、4人 組 さんが 「も うご飯
食 べ た ?」 と声 をか けて くれ 、「食 べ る とき探 したんだ よ」 と言 つて くれ た。
時間 がなか つ た ので 、 パ ン をか じつてお昼 に した。
そ ろ つ た ら、ガイ ドさん と天街 へ 。 前方 にかす む 玉皇 頂。真 下 は崖 、雲 っ
て み えな い けれ ど。神 秘的 な雰 囲気 の 中、 ガイ ドさんが説 明 しなが ら、進 ん
でい く。有名 な大 きな石壁 の 前 を通 り、有名 な石 の前 で写 真撮 りた けれ ば 「橿F
駄」 と言 われ 、頂 上 で解 散。 山頂付 近 でお じさんが丸 い本 の玉 にへ た くそ な
字 で 「泰 山」 と掘 つ た も の を売 つてい たか ら、 この 山頂 で 買 つ たのだか らと
記念 に買 つた ら、笑顔 で 「一 路 平安 !」
天街 まで戻 つた ら、大雨。
今度 は下 りな くて はな らな い。 時間 がない :雨 はす ぐ上 が っ た けれ ど、 ぬ
れ た石段 を、せ っせ っ と下 り始 める。転 ばな い よ うに、で も急 いで◇
本 当にがんば っ た。 必死 で 下 りた。足 が パ ンパ ン を通 り越 した。 (こ の後大
変 な事 にな る)最 後 は足 がガ クガ ク、で も 3:00前 に着 いた。50分 でお りた 自
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協会木曜夜
分 をほめて しま う。
ツアー だか らお店 に寄 る。 1つ 目は竹炭 の店。2つ 日は昨 日も行 つた本魚 石
の店。再び 同 じ説 明 を聞 くのだ。4人 組 さん に 「昨天来 了」 と声 かけた ら 「又
来 了」 と返 って きた。
済南 に帰 るバ スの 中で 、16歳 の 男 の子 が 前 に座 っていて 、こち らを興味津 々
で 見 てい る。 会話 が 始 ま り、半分 以 上通 じない けれ ど、高校 生 は鄭州 か ら済
南 に親 と遊び に来 て 、 この ツアー は子供 だけで参加 したそ うだ。「この 日本語
知 って る ?」 と聞 く言葉 が 「大阪 」 だ つた り 「さみ しい 」 だ つ た り。 き つ と
日本 のア ニ メや ゲー ム 文化 か ら来 て るんだ ろ うな と思 う。 途 中 か ら隣 のお ば
さん も会話 に参加 して 、発音 を 直 して くれ る。「中国 の ドラマ は 、 日本 でや つ
てい るか ?」 とか 、「中国 では 日本 の ドラマ をテ レビでや ってい る」 な ど。 楽
しいひ ととき。 的突泉 の ところで 、高校 生 は下車 した けれ ど、最後 まで手 を
振 つて くれ た。 こ うい う若者 が交流 を進 めて いつて ほ しい な と思 つた。
また駅前 で 降 ろ され 、 ガイ ドにお 礼 を言 つて 、駅 前 の食 堂 へ 。 水餃子 を頼
んだ ら、や つ ぱ り洗面器 みた い な うつ わに山盛 り。食 べ きれ ませ ん。
5.泉 の 都
第 5日 目、市 内行 動 の 日で あ る。 しか し !足 がひ どい 筋 肉痛 だ。
朝食 は ツアー がないので 、ゆ っ く り行 くと、食 べ ものがた くさん 出 て い る。
ワンタン を発 見。 まだ 作 って な い け ど、明 日は食 べ るぞ。
地 図 を見 なが ら、市 内 バ ス の行動 開始。 中国銀行 を探す が 、 な いので 、大
きな農 業銀行 の入 り口に 「外貨交換 」 とあ るか ら、両替 と言 うと、お姉 さん
わか らな いので 、入 り日まで 引 つ 張 つてい き看板 を指 さす 。 お姉 さん、 あわ
てて窓 目のお じさんに言 い に行 く。 中国銀行 以外 で外 貨 両替 は初 めて。
バ ス を乗 り継 いで 、黄河 公 園 へ。 黄河 まで下 りて水 に さわ る。
また乗 り継 い で 、的突泉 へ 。 本 当に水が ポ コポ コ湧 い てい る泉 がい くつ も
あ る。 町 は緑 が 多 く、水豊 か とい う風情。
途 中 の外 資系 の 大 きな スー パ ー で 、食 べ 物 を買 つて 、 五尤 渾 公 園 へ 。 釣突
泉 ほ どで はな いが 、泉 が 湧 いてい る◇ しか し、足 が パ ンパ ンで一 歩踏 み 出す
の も痛 い。 歩 けば も つ とた くさん の 泉 を巡れ た の だが 、痛 くて歩 けな い 。 初
めに行 つ た大 明湖 へ 。 湖 では 船 に乗 るのが 好 きだ か ら、高 い し、乗客 一 人 だ
つ た けれ ど、湖 を渡 る単程 票 を買 つて 乗 つ た。 途 中歴 下亭 の あ る島 に よる。
15分 た つた ら出発 だ よ とい われ 、涼 しい風 に吹かれ てか ら、対岸 へ 。BRTで
ホテル ヘ 戻 つた。
翌 日は、朝食 で ワン タ ンの ところに行 つて 、お姉 さん に指 さす と、作 る人
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協会本 曜夜
が まだ来 てない らしい 。食 べ なが ら見て いた ら、 コ ック さんが来 て 、 で きた
ら手招 き して くれ て 、 ワンタン を食 べ られ た。 退房 して 、 バ ス ター ミナ ル ヘ
行 く。「流水 」だか ら安心 していた けれ ど、早 めに出て よか つた。9:00発 の券
を売 つて くれ た。 バ ス が 出 るの は どこの場所 か と聞 く と、番 号 を教 えて くれ
た。 結構 時 間 が あ つ た ので 待 つて いた ら、お兄 さんが誘 つて くる。 ニ コニ コ
してわか らな い振 りを してや り過 ご し、8:40に 来 た バ ス に乗 り込む 。無事飛
行機 に間 に合 つた。
北京 は暑 か つ た。 再 び友人 に電話 して 、合 流。 また駅前 のホ テル ヘ。 も う
足が大変 。痛 くて痛 くて 一。
翌早朝 、地 下鉄 と机場快執 を乗 り継 ぎ、北京 か ら 日本 へ 戻 つた。
6.ま とめ
以前昆明 に行 つた ときは住 む な らここだ と思 つたが 、済南 は大陸 の東端 の
方 にあ り、都 会 的 な雰 囲気 もあ りなが ら、水 と緑 が豊 かで潤 いの あ る素敵 な
町 で 、 ここ もいい な と思 つた。
山 と名 のつ くと ころには 近寄 らな い よ うに していた けれ ど、 中国 の 山は信
仰 や神 話 の 対象 で 、歴 史 と人 々 の想 いがた つぶ りつ ま ってい る気 がす る。 泰
山は、遥 か 昔 か ら、 中国 の 皇帝達 が 、神様 に皇 帝 で あ る事 を認 めて も ら う儀
式 を した ところで 、それ も納得 のい く場所 だ つた。
ツアー の ガイ ドさんや 4人 組 の方達や 高校 生 も親切 で 、町 の人 もよ く話 を
聞 き取 ろ うと して くれ た 。 駅近 くの お店 で 、飲 み物 を買 つ た ときに 、 い くら
か 聞 いて 、ぴ つた り出せ た ら、「真好 !」 と言われ た とき、曲阜 のガ イ ドさん
もそ う言 つて たな、 真好 つて こ うい う時 に使 うんだ な、 と実感 で きた。
市 内 の行動 も 自由 にで きた し、 ツアー はほぼ完璧 だ つ た 。 ただ 、足 が ガ ク
ガ クで筋 肉痛 がす ごか つ た のが な けれ ば、市 内行動 も、 もつ とで きた か も し
れ な い。 北京 か ら済南 に行 くの に、列 車 の旅 も してみたか つた 。
ほ とん ど言 われ た事 の 半分 も聞 き取れ な い が 、み ん な どん どん話 しか けて
くれ て 、人 々の親切 に多 く触 れ る こ とがで きた。
どん な場所 に行 つて も、それ ぞれ の土地 にそれ ぞれ の 魅力 があつて 、それ
ぞれ の人 々 の生 活 が あ り、興味 が尽 きな い 。刻 々 と変 わ つてい く中国 の 姿 を
実感 す る こ ともで きる。
さて 、 中国 は広 い。 実 は行 きの飛行機 は大連 経 由で、大連 で入 国。 い つ た
ん 下 りてふ たたび乗 つた ら同 じ飛行機 な の に 国 内線。 泰 山 か らの 下 山 で歩 け
な い ほ どの 筋 肉痛。 い ろい ろあ るけれ どく じけず 、行 くと ころはた くさん あ
る。 知 らな い こ ともた くさん あ り、感動 は私 を待 つてい る。 次 は どこへ 行 こ
うかな。
ウ′
民υ
協会金曜朝
″ 受噺期雛″ ク ラス
《クラス紹介》
黒澤 宣捷
私 のクラス は、女性 6名 、男性 1名 、計 7名 です。受講 生の 中には仕事
の都合 で早退せ ざるを得ない方や、毎回出席す ることがで きない 方 もお り
ますが、受講 できなかった授業 を自習 した り、 あるい は何 とか時 間をや り
くりして受講す るな ど本 当に真面 目に、熱心 に勉強 を しています。
また、授業内容 を常に創意 工夫 し、 自らも貪欲 に学ぶ 姿勢 を持 ってお ら
れ る唐老師 の 下で、明るく、楽 しく、 とて も和や かな雰囲気 のなかで学ぶ
クラスです。
ともか く語学 の習得 は “
根気 よく継続す る"こ とにあ ります。皆 さん、
頑張 りま しょ う。
《
ι》
者師 7ロ フ ィー ″
唐 光蓮
―
中国 山東省
来 日 同時
1998年 7月
中国 出身校
日本 で の職 業
中国人 民大学
非常 勤講 師
家族
四人 家族
趣味
登 山 ,読 書 ,旅 行
夫 の仕 事 の た め
7月 29日
来 日理 由
血 液型
い
58
―
出身 地
誕生 日
○型
い
協会 金 曜 1翼
老師的一句》
《
登泰ユ1看 日出
唐 光蓮
ヨ来不
泰 山リ
我在大学 二年媛暑猥吋 ,同 几位好朋友一道 ,登 上了向往 已久的 “
看岳"的 泰曲。
泰 山位千山宗省泰安市 ,海 抜 1545米 , 是 中国五大名 Lll中 的京岳。人創 向往
泰 llJ,不 只是因力官的人文ヌ光 ,更 是因力宣的 日出云海奇景。
L的
力了能欣賞到 園出,我 fl下 午 六点就弄始登山。俗活悦 ,夏 日的天 ,象 該プ
│]立 亥1穿 上早就預各好了
橙 一溌交就交。 lXlll才 述是晴期的天 ,突 然就下起了雨。我イ
的雨衣 ,毅 然決定継敏爬 山。我個大豹走了半今小吋 ,雨 停了,大 陣出来了。 夕田
面下 ,田 光透進樹本的縫隙 ,照 在 山lill小 路上 ,曲 同的漢水準職唯 地流着 ,村 上的
準多不知名的小島几りtり t喧 喧地叫今不停 ,杓 成了-1届 美雨的凩景画。登曲途 申
不吋能看到 一些小亭湾,事 岡里胚有許多名人事画。 我 fl― 路上欣賞着遠人文和 自
然的恩賜 ,好 像置身干仙境 一般。
,
晩上九点轡我倒到迭中天河,那 里已衆集着滓多来 白全 国各 地的人 ,其 中 年経
「天。我個也拿 出准各好的
克牌 ,或 者聯
的大学生居多。大家都 二五成群 ,或 者打オト
十卜
克牌 一 直打到半夜 ,然 后継紋前行。困力雨道天晴 ,夜 目的天空格外晴朗 ,繁 星
1要 爬 7000象 台隣。据悦一層際的石
因爆 ,似 平伸手可及。炊 中天 11姿 1曲 願南天♯
11経 装上 陣 已
台論都是泰 山挑夫個炊 山脚下用肩膀挑 上来的一鉄鉄石共御成的 ,我 イ
径累得気喘呼「T了 ,禁 不住 ill我 1侃 服泰山挑夫的件 大
凌晨 囲点左右我 個来到了南天 l可 ,給 作休憩 ,接 着向 日規 lll沖 刺。在 日規峰
L,天 麹露出了負 E_t白 ,大 田漸漸露出了須鉦的笑輸 ,一 片片的 云海
等了不 一会ブ
像 一際屡厚厚的棉被 ,托 着太陽再再升起 ,周 囲噛起了一 片欺呼声 !大 家攘好姿勢
伸 出手 ,逸 好角度 ,好 像IIl太 陽托在手里 ,輸 流拍照 ,留 下速美好的 一臨
1`
!
,
,
,
我曾径在海麹看道 日出,也 曾在富 士 曲上看越 日出。但要悦 日出云海美景 ,述
得是泰山的 日出。多少年越去 了,有 些鯛市我 EL姪 淡忘了,仁 大 自然給予我的那扮
感劫却深深地印在我的脳海 里 ,令 我終生誰忘。
59
協会金 曜朝
泰 山 で 日の lTlを 拝 む
大学 二年 生の夏体みに、私 は何人かの友人 と一緒 に、憧れ の泰山に登 りま した。
“泰山か ら戻 つて来た ら、 ほかの 山を登 らな くて もいい"と い う説 があ ります。
泰 山は海抜 1545メ ー トル で、私 の故郷 である山東省 にあ ります。中国 の五大名
山の一つ “
東岳 "と も呼 ばれています。 人 々が泰 山を最 も1瞳 れ るの は、泰山の 日
の 出 と雲海 を見 ることです。
日のLTlを 観賞す るために、私たちは夕方 六 時に登山を始 めま した。 “
夏 の 日は、
子供 の顔 の よ うに変わ りやす い"と い うことわ ざの通 り、さつ き晴れて いた の に、
突然雨 が降 り始 めま した。私 たちはす ぐに、準備 した レイ ン コー トを着 て、迷 わ
ず登山を続 けま した。 三十分 ほ ど歩 くと、雨が止 み、太陽 が 出てきま した。 夕 日
は西 に落 ち、太陽 の光は本 々の隙間 か ら、細 い 山道 を照 らし、渓流 は さらさらと
流れ、
本 の上では名 の知 らない多 くの小鳥が さえず り、とて も美 しい風景 で した。
登 lll途 中、時 々小 さな楼 閣 も見ま した。楼閣 には有名人 の書道や絵画 があ りま し
た。私 たちは 、 自然 の贈 り物 を観 賞 し、お とぎの国 にい るよ うに感 じま した。
私たちは夜 九時 に中天門に到着 しま した。そ の時、そ こで は全国か ら多 くの人 々
が集 まっていて 、主に若 い大学生たちで した。み んなは、四、五人 の小 さなグル
ー プになつて 、 トラ ンプ を した り、お しゃべ りを していま した。私 たちも用意 し
た トランプ を真夜 中までや りま した。そ の後 また登 り始 めま した。 夕方、雨が降
ったおかげで 、夜 空は冴 え渡 り、星はきらき らと瞬 き、手が届 くよ うに感 じられ
ま した。中天 F電 か ら南天門 の頂上までは、7000段 の階段 を登 らなければな りませ
ん。 石段は荷担 ぎ人夫が山のふ もとか ら、石 のブ ロ ックを一つず つ頂上まで運 ん
で 、作 られた ものです。私 たちは身軽で登 って も、す ぐに息 が切れ苦 しくなるの
に と、泰山の荷担 ぎ人夫 の偉大 さを改めて感 じさせ られま した。
朝 四時 ごろ私たちは南天門に姿1着 し、少 し休憩 して 、最後 に 日観峰 に向か つて
ラス ト・ スパ ー トをかけま した。 日観峰 で しば らく待 つてい ると、地平線がほの
ばの と白みは じめ、太陽は徐 々 に赤 い笑顔 を出 して 、厚 い毛布 のよ うな雲海 は 日
の上 を徐 々 に昇 つて きま した。周 りに歓声 があが り、み んなは手 を差 し伸べ 、太
陽 がちょ うど手 のひ らにの るよ うに、 ポーズ を取 り、交代で写真 を撮 り、 この美
しい瞬間を残 しま した。
私 は海辺で 日の出を拝 んだ ことがあ ります。 また 富士 山頂 上で 日の出を拝 んだ
こともあ ります。 で も日の 出 と雲海 とい えば、や っば り泰山の 日の出です。何年
かが経 ちま して 、詳細 を忘れて しまい ま したが、 自然 か らいただいた感動は決 し
て忘れ る ことな く私 の心に深 く残 つてい ます。
60
協会金 曜朝
《受講 生 随筆》
学浜悟
黒洋
宣捷
我対中国♯常感※趣 ,退 体后我想学洪濡 ,LAl力 我想看 中国小悦 ,述 想眼 中国
人交流 ,所 以升始学洪活 了 。
我有几位 幣国朋友 ,其 中三位是在 日本大学半並后 ,在 日本企立 工作 ,男 外両
│]一 定兄面井 一 起吃仮 ,毎
│]来 日本的吋候 ,我 イ
位住在 中国 ,有 吋来 日本 出差 ,他 イ
│]都 用 目濡交淡 ,因 力他個像 日本人 一祥 日濡悦得彼流利 。
次我イ
│]用 洪濡悦活 ,述 是将来的事 。但力 了
我在洪活教室学 了几年洪活 ,可 是和他イ
込到 目林 ,我 想更加努力学浜悟 。
訳
中国語 の勉 強
私 は中国 に大変興味 を持 ってい ます。退職 した ら、中国 の小説 を読 めるよ うに、
また中国人 と交流 したい と思 つていた ので 、中国語 の勉強 を始 めま した。
私 には中国人 の友人 が数人 います。そ の うち二人は 日本 の大学 を卒業 して 日本
の企業で働 いてい ます。 また他 の二人は中国に住 んでいて 、時 々 出張 で 日本 に来
ます 。彼 らが 日本 に来た時 は必ず会 つて一緒 に食事 をす るのです が 、毎回いつ も
日本語での会話です。なぜ な ら彼 らは皆 まるで 日本人 のよ うな流暢 な 日本語 を話
せ るか らです◇
中国語教 室 に通 つて数年 が過 ぎま した。 しか し彼 らと中国語で話す の はまだま
だ先 にな りそ うです が、 日標達成 のために更に努力 した い と思 います。
「地震的重建 」
“中国遮者看 日本 "
加藤 美智子
3月 13日 ,我 看 了 NHK“ 地震的重建 "逮 今 屯祝市 目。去年 12月 ,一 位 中
国的中央 屯祝 台t己 者来到 日本 。他 口
‖桂永元 ,他 采 労井 向中国橋送 日本地震実害后
的重建情況 。
在中国桂遣者是 一位受国民欧迎的屯祝市 目主持人 。他主持的市 目是 “小桂悦
│]参 加
事 "。 首先 ,力 了采沸 ,他 来到了宮城具 。他眼 中国人 留学 生児面 ,采 坊 了他イ
61
協会金曜朝
志應者活動的情況 。其次他来到末京 。他眼住在 日本的中国人兄面 。他采坊 日本友
生地震后媒体是急祥 向在住的中国人特迷地震 的消息的呪 ?他 述采坊 了末京的防実
没施 ,体 栓 了防実切1練 。
然后 ,他 来到福島 。在福 島,他 対当地的報妖彼感※趣 。扱気上有放射能栓査
避荘所等等的消息 。在 日本 ,民 菅墾鉄可以友行報須 ,可 以自由地友出消息 ,逮 址
他大吃一僚 。
,
最后 ,他 留下 了几句活
‐
地震不管友 生在 中国 ,逐 是友生在 日本 ,都 是人癸 的実害 。対 震実漠不美心
:
,
不管在 中国 ,述 是在 日本 ,都 是人癸 的址辱 。着震実逃行救済 ,不 管在 中国,述 是
在 日本 ,都 是人癸的光輝 。
「震災後 を歩 く」
“
海外 ジャー ナ リス トが見た 日本 "
3月 13日 、私は NHKの テ レビ番組 「震災後 を歩 く」を視た。昨年 12月 、中
国中央電視台 の社永元 キャス ター が来 日し、東 日本大震災後 の復興 の様子を中国
に伝 えるために取材 した番組 だつた。
桂記者 は、中国 で国民的人気 の ある番組 「小在悦事」 の 司会 を してい る。桂記
者 は、は じめに官城県で中国人留学生 のボラ ンテ ィア活動 を取材 した。次 に、都
内で、在 日中国人 に、「地震 情報 が どの よ うに伝 わ つた のか」 を取材 した。 また 、
都 内 の防災施設 を訪問 し、防災教育 を体験 した。
福島 では、在記者 は、放射能検査や、避難場所な どの情報 を伝 える新聞 に関心
を示 した。 日本 では、民間組織 が新間を発行 し、 自由に情報 を発信 で きることに
驚 いていた。
彼 は、最後 に、 この よ うな言葉 を残 した
地震 は、 中国で起 ころ うと、 日本 で起 ころ うと、それ は、人類 の災難 です。無
関心でいるこ とは 中国 に とって も 日本 にとって も、それは、人類 の恥 です。救済
は 、中国で行われ よ うと日本 で行 われ よ うと、それ は、人類 の輝 きです。
:
62
協会金曜夜
″塗 分 層 夜 ク ラス
《クラス 紹介》
長澤 簿高 。小 山 実子
金曜夜 クラス は 2009年 4月 に入 P電 クラス か ら 2名 、初級 クラス か ら
5名 が集 ま り、計 7名 で ス タ ー トしま した。 この年 に退室 した 人 が あ り、
クラス存 亡の危機 にな り、幹事 の加藤 恵 … は人数 集 めに必死 で した。 そ
の後 、毎年数 人 の入 室 があ り、現在 の 人数 は 12名 です 。
呉先生 の て い ねいな ご指導 で 毎日楽 しく申国語 を学んで い ます .授 業
の 前 に発表 の時間が あ り、 閣 コマ 漫画や 歌を申国語 で発表 した り、 また
各人 の一 週 購 の 出来事 を話 した り楽 しい 雰囲気 です。 皆 さん見学 に来て
くだ さい。
呉
英偉
出身 地
誕生 回
ハ ル ピン市
来 日 口時
1994年 5月
中国 出身 学校
山東 大学
大学講師
夫 と二 人
日本 職 業
家族
趣味
来 口理 由
夢
薩液 型
峰
い
い
《
義師電ロフ ィーrL》
い
12月
17 Fl
旅行 、音楽 、読書
本 当 の 日本 を見た いか ら
世界周遊
0型
峰
藝
63
協会金 曜夜
《老 師的 一 句》
快示学沢悟
異
英怖
大家好
我 是星 期 五 晩上班 的老 り
│]班 男 同学 多 ,女 同学少 ,所 以在 一
T異 英件 。我イ
ヒ絞 多 。大家 的共 同愛好 是学浜活和衆 餐 。毎位 同学部彼
起「EJ酒 、衆 餐 的机会 レ
汰真地 学 コ ,上 深汰真 瞬沸 ,下 深 好好 隻 コ 、預 コ 。我 常常被他イ
│]的 学 コ精神
所感 功 。上 深 吋気気也彼 熟烈 ,大 家提 的 尚題 水平都彼 高 。所 以我在上深前得
好好作准各オ 行 。
!
我炊去年 4月 升始在両所大 学教 中文 ,現 在 的 日本大学生学 コ浜活 的人彼
│]学 コ洪活 的 目的 R我 イ
)]川 口渓活教室 的 同学不太 一 祥 ,主 要是力 了 1年
多 ,他 イ
来在 工 作 中有机会 使用 。男外 折悦要是会悦浜活 ,在 我 工 作 吋也是彼有利 的 。
不 管是成人述 是大 学 生 ,大 家都対 浜活 感共趣 。我毎天上深 都在 根愉 快 的
巴
気気 中度遣 ,非 常感洲大家 。洸 我↑]今 后 也快示地学沢活 Π
F・
!
《受講 生 随筆 》
早 い もので ……
矢澤 昭人
私 の部屋 の壁 には、入門教室 の終了証書 が額 に入 つて飾 つて あ ります。久 々
に、 じっ くり見てい ると日付 は 2008年 3月 .… .と い うことは、入 室は 2007
年 の 4月 で …2008年 、2009年 一今年 は 2012年 …。 あれ あれ 、 も う 6年 目!!
い ゃ∼石 の上に も何 とかですが 一。 よくもまあ、毎週毎週頑張 って これま し
た。
特 に、遊 びではな く語学で長続 きす るとは入門 の時はまず考えてい なか っ
た と思 います 。 これはひ とえに、同学 の皆 さん と、熱 心 にご教授 いただ いて
い る先生 のおかげです。 この場 を借 りて感謝・ 感謝 !│
今後 も、個性 の強 い同級 生の皆 さんや我 々 にはもつた い ない くらいの熱 心
で素敵 な先生 と、楽 しく実 りの ある勉強 を して、実力 をつ けていきたい と思
います ので よろ し くお願 い します。
64
協会金曜夜
中国語教 室 と電脳塾
山田
絹子
4年 前 “北京 オ リン ピ ックを見 よ う"と い う CMに つ られ 大画 面 TVを 購 入
TVで 中国語講座 "を 見始 め、 翌年 には協会 の
しま した。 そ の 流れ で NHKの “
中国語 会議 教 室 に参力8し ていま した 。 この 4年 程 、歴 史 の 好 きな私 は沢 山 の
中国 の歴 史物 の 映画や TVド ラマ を観 ま した 。上 野 の 国 立 博物館 の 故官清 明 上
河 陽展や河南省 の “誕 生 中国文 明 "展 の大イ ベ ン トに も行 つて 、観 て感動 し
ま した 。私 の 昔 の 中国 へ の想 い は き っ と、 フ ラ ンス人や ア メ リカ人 が 日本 の
武 士 道や柔道 に憧れ て 来 日す る も ガ ッカ リして帰 つてい く… !そ れ に似 てい
るのか も しれ ませ んが …。
電脳 塾 に も参加 させ て い た だ きま した 。今 まで息子 達 のセ ッ トア ップ した
パ ソ コ ン を使 つてい た私 は 、 ワー プ ロ機能 、写真 の修 正 と加 工 以外 、 日常生
活 にた とえ る と、 ク ロー ゼ ッ トや タンスの 引 き出 しか ら物 を取 り出 した の は
良 いが 、部屋 中 メチ ャクチ ャ にな って 、何 処 に しま えば 良 いのか 、最後 には
何 を捜 していた の さえ解 らな くな る よ うな状態 で した。 この 頃 は 、丁寧 に教
えて くだ さる先生方 のお 陰 で キチ ン と元 の場所 に収納 され る心地 よ さを感 じ
られ るよ うにな りま した。 ほん と うに多斑 ll
それ で もパ ソ コ ン はち ょっ と触 らな い と操作 を忘れ た りします 。 渓悟 学 コ
と同 じですね。
私 達 クラ ス では授 業 の 始 ま りに各 自、 中国語 で発表す る時間 を作 つてい ま
す。 各 自の一 週 間 の 身辺 の 出来事や 、 リアル タイ ムの話題 が 意外 に、後 々 に
な つて も記憶 に残 つていて 老 姉 も、 同学↑]も 、お 互 い の理 解 に も役 立 ってい
る と感 じます。 また 、授 業前 にち ょつ と中国語 の 歌 を練習 してみ よ うとか 、
希 望者 で 呉老師 の故郷 の吟爾濱 へ の旅行 な ども計画 中 です。
今期 か らは新 同学イ
│]も 二 人増 え 、ます ます 、個性 的 に 、楽 しい クラ ス にな
つて行 くで しょ う。
学浜活
加藤
恵一
我学 了杵近六年 的浜浩 ,我 覚得洪濃越 学友音越雄 。有原因就有 結果 。我
│]浜 活老 獅常常悦 “提 高波悟水平
不檀長 背涌深 文 ,臓 海里想 不起来単司 。我イ
一 定要十年 。"謝 灘老 llT的 鼓励 。
提 中国名吉 “好好りL学 コ ,天 天 向上 。"以 后我想 更真地学 璃 。
65
協会金 曜夜
日本 的現状
加藤 展桁
日本位 予 亜 洲 的本部 ,句 中国 自古 以来交流頻繁 。“日本 国 "就 是 “日出之
国 "的 意思 ,由 予特悦 日本 是 由 “天照大神 "全 J造 ,日 本 国旗就 是来源 予此 。
日本 京絡太平洋 ,国 土 由本 州 、北海道 、 九州 、 四 国 pll今 大 島和 多今 小 島
須成 。 日本有 1化 2千 多万 人 口 ,其 中城市人 口大豹 75%,日 本是 一 今 多 山的
国家 ,山 地面秋 占全 国面秋 的 76%,国 名世界 的富 士 山是 日本 的最高峰 。官 山
的伐 美 的山容使滋 客入迷 。
量然 国土 面秋不 大 ,但 日本 是現在世 界有数 的径済 友込 国家之 一 。著 名 的
索尼 屯器 、 キ 田汽 奪是享誉世 界 的 日本名牌 ,但 近ノ
七年受到張烈地 震 的影 駒
景気 的果滞不前 ,経 済面轄危机 。我イ
│]鹿 核渡道逮祥 的危机 。
,
川 国市 的房史
加藤 展桁
II目 的中心被称 力 り │1口 宿緊 ",作 力有騨姑 的村鎮 繁茉※盛起
江声 吋代り
│1氏
来 。遼今地 区是幕府 菫籍頷 上 ,被 伊 奈 氏置 子銃 治之 下 。伊奈 氏力打下徳 サ
││,建
的根基 ,修 隻河り
没水 路等 ,倣 出 了貢献 。
│1目
在 江 声 吋代 ,サ
的特 統声 立 鋳造 並 ,笏 須 ik,安 行檀木 以外釣竿 、醸造
`彼近 ,銚 等 的 日用 品的制造 増旗
。
黄警猥※盛 尤其 是鋳造立 因力高消費地江ノ
,
在幕府 的末期作力軍事声立制造武器 了 。
明治 四年 因力慶藩置異 的制度 成力埼 玉 暴 ,明 治七年 炊川 口宿野成 力 川 口
町 ,逮 今 明治 時代是鋳造声 立 ヽ妖 上 升 的 l代 。在 明治 二 十年代 升通 了鉄路
│1口 町卒鮎汗始込菅 ,川 目的声立大大増涎 了 。
明治 四十 二 年 り
:1口 町合 井 ,川 国市成 立 。 又
昭和八年把横 曽根村 、 南平柳村 、青木村和 り
合井 了安行村 、 デ1家 ,平 成 二 十 三 年合井 了鳩谷市 。
:1国 市起 功 了 。
現在有 五 十八万人 口 ,面 秋 力六十 二 万平方米 的新り
ll・
,
日本 の 現状
日本 はアジア の東部 にあ り、中国 とは古来 よ り交流 が 頻繁 にあつた。「 日本
国」 とは 「日出ず る国」 を意味 し、伝説 による と 日本 は 「天照大神 」 に よつ
て倉」
造 され 、 また 日本 の 国旗 は ここか ら来 てい る とい われ て い る。
日本 は東 に太 平洋 を臨み、国土 は、本州 、北海道 、 九州 、四国 とい う 4つ
の大 きな島 の他 、小 さな島 々 に よ り形成 され てい る。
66
協会金曜夜
人 口は約 1億 2000万 人 でそ の 内 75%が 都 市 の人 口で ある。 山地面積 が 国
上 の 76%を 占める 日本 は山岳国で ある。 世界 に名 高 い 富士 曲 は 日本 の最高 Jll
で 、そ の 姿 は 日本 を訪れ る観 光客 を魅 了 してい る。
国 土面積 は広 くないが 、現在 の 日本 は世界 有数 の経済力 を有 してい る。 ソ
ニ ー 、 トヨタは世界 に誇 る 日本 ブ ラ ン ドだが近年大震 災 の影響 もあ り、経 済
は低迷 し、我 が 国 は厳 しい 状況 にある。私達 は この よ うな危機 を乗 り切 らな
けれ ばな らな い。
川 国市 の歴 史
江戸時代 、川 日の 中心 は 「川 口宿」 と呼 ばれ宿場 町 として栄 えた。 この地
域 は幕府 直轄 地 で 関東郡代 の伊奈 氏 の支配 下 とな る。伊奈 氏 は河川 の改修 、
用水路 の建設 な ど徳川 氏 の基礎 を築 くの に貢献 した。
この江戸時代 に川 回の伝統産 業 であ る鋳物業 、紡績業 、安行 の植本 の他 、
釣 り竿 、味噌醸造 も盛 んになつた。 中で も鋳物 業 は 、消費 地江 戸 に近 い こ と
か ら鍋釜 な どの 日用品 の製造 が伸び 、幕末 には軍事産業 として兵器 製造 が 行
われ た。
明治 4年 廃 藩置県 に よ り埼 玉 県 に、明治 7年 川 口宿 か ら川 口町 にな り、 こ
の 明治時代 は 、鋳物 工 業 が 飛躍的 に伸 びた時代 で ある。明治 20年 代 に鉄道 が
開通 し、明治 43年 川 口駅 が 開業 、川 日の産 業 は大 き く伸びた。
昭和 8年 川 口町 と横曾 根村 、南平柳 村 、青木村 を併合 して川 口市 に、 さら
に安行村 、戸塚 を、平成 23年 には鳩 ケ谷市 を合併 した。
現在 人 口 58万 人 、面積約 62万 ポの新川 国市 が ス ター トした。
力什 久 ?
石毛 嘉春
2012年 1月 10号 我在 中国綬春市 内的特統示器店 要 了二 胡 。我 同老板
可不可 以把 二 胡寄到 日本 。因力 二 胡是在学盛頓条豹 上 有 的示器 。閑此 ,我
銀老板逮祥悦 ,老 板 回答 :“ 没 同題 ,我 以前 曽径 寄横演 的高校 。祢放 心 瞳 。"
我相信 他悦 的透 ,給 他 3,000決 。資至J現 在 我逐 没有牧至1二 胡 。力什 久 ?老
板 ,惣 急久職 。
1.2012年 1月 15号
我 逐 在 中国,我 想 到 国内名腔 古逃去現光 一 下后 ,回 日本 。預 iT (机 ,預
汀酒店都亦好 了 。那些名姓 古述 是洛 阻 、升封 、邦州逐有南京各 城市 。我高※
地看地 圏 。
協会金曜夜
,突 然我手机 ,輌 了手机里悦 : “対 不起 ,洛 陶崎酒店友生 了湾
題 ,24号 起服 勢 員都 国老家 。"力 次 ?我 想 //N亦 呪 ?
1月 22号
/1「
体 AF‐
l LET'S温 絞 知 新
l
佐藤 可成
我 々 現代 人 と古 人 は生 き た時 代 こそ違 うが 、人 間 として の 営 み は全 く同 じ
では な いで しょ うか ?人 FHlと して 、社 会人 と して の 悩みや 葛藤。 古人 は古典
_の 中 にそ う した もの を解 決す るた めの ヒン ト (道 )を 残 して くれ た と思 い ま
す。今 回 はそ の 中 か ら少 しだ け 日中友好協会 の皆 さまに一 方的 に紹介 します。
幾 つ にな つて も何 か しら新 しい こ とに挑 戦す べ し !気 力 を無 く した らこの言
葉 を思 い 出 して 奮 い 立 って くだ さい。
不学翼 老燕曇 (近 思録 、宋 960‐ 1279)
まなば ざれ ばす なわ ちお いて お とろ う
学 ば ざれ ば便 ち老 い て衰 う
「何 か を学んで い ない と、す ぐ老 い て しまい ます よ。」
奮 い立っ た ら この言葉。 中国語 の道 も単語 一つ か ら…。
不積足頃歩 、無駄 三千貝 (萄 子 、戦 圏時代末期 AC403-AC221)
きほをつ ま ざれ ば 、 も つてせ ん りに い た るはな し
積 足頃 を積 ま ざれ ば 、以 つて 千塁 に至 るは無 じ
「千里 の道 も一 歩 か ら」
それ で も中国語勉 強 が はか ど らな い 、気力 が湧 かない とい う人 は 、 心積 も り
として この言葉 を常に腹 中 に置 い とけば 、気持 ちが少 し楽 にな ります 。
天下不知 麓、偉十居 七八 (晋 書、晋 280‐ 420)
てんかは いの ご とくな らざる もの 、 つね に じゅ うに しちはちは い る
天下 は意 の難 くな らざる もの 、恒 に十 に七 、 人 は居 る。
「この 世 には 自分 の想 い通 りにな らな い こ とが 10の 内 7、
8は 在 る」
最 後 に 、 ここまで古典 か ら学 べ と言 つて お きな が ら この 言葉 を紹 介す るの は
心 苦 しいです が 、私 が 個人的 に思 う、 これ が 中国古典 の真髄 だ
君 之所義者 、音 人 之糟粕塊 己 (荘 子 、戦 国時代 中期 AC403‐ AC221)
きみ の よむ ところの もの は こ じんのそ うは くの み
君 の読む所 の ものは古人 の粕 晩 の み
!
68
協会金曜夜
「君 の読 んでい るもの は 、昔 の人 のカス みた い な ものだ。 (車 職 人 口 く、職
人技 とい うも の は 日で は伝 えきれ ませ ん 。 同様 に昔 の偉 人 の真 意 も書 では
伝 えきれ な い筈 で す。 だか らあなたが読 んでい る古典 も昔 の偉 人 の カ ス み
た い な ものだ。)」
中国先輩 !お 見逸れ致 しま した 。
同学イ
│]
大場
究
12今 人 。 同学イ
│]好 像都 生 活今性性健壮 。我イ
│]班 毎 次有今人
我 的同学↑]有
的友表 ,全 班 同学都感 到力荘 。老 帰好像彼享 受我↑]的 辛苦 。
我↑]班 一 年有 3次 咲欧会 ,男 外有几今 同学 逐 吋常衆会 lll酒 。我也不付仄
喝酒所 以常常参加 。逮今黄金周在 川 口五今人衆会 了 。我イ
│]it支 」
去 中国旅行 的
事 。会 費是 三 千 日元 ,我 不遣得 是想次 国家 的 了 。
同級 生
私達 の 同級 生 は 12人 です。全 員 個性的 で 退 しく生 きて い る よ うです。 クラ
ス は毎 回 、個人 の発表 があ り、それ ぞれ 苦労 しています。先 生 はその苦 しみ
を とて も楽 しんでい るよ うです。
クラス は年 3回 ほ ど懇親会 を してい ます が 、そ の ほか有志 が時 々集 ま り飲
んでい ます 。私 も集 ま りが嫌 いで はな いの で参加 す る こ とがあ ります 。最近
では ゴールデ ン ウィー ク に 5人 が川 口に集 ま りま した 。話 は計画 してい る中
国 へ の旅行 の こ とが 多 か つ たです 。 会費 は 3,000円 で 、 どのよ うに して 家 に
帰 つたか 覚 えて い ませ ん。
69
日本語教室
″オ ″ 教
黄 山 が 呼 んだ
平 山 安次
べ
2006年 1月 の或 る 日、昼 ご飯 を食 よ うと座 った 私 の 日の前 に 、一通 の は
が き の ダイ レク トメール が 置 いて あ つた。 家 内が ポ ス トか ら持 つて きたんだ
な と思 つて 、手 に取 つて み る と、旅行 会社 か らの 中国旅 行 の案 内で 、杭州 一
西湖 ― 屯渓 ―黄 山 の 四 日間 の旅 の案 内 であ る。 以前旅 行社 の ツアー で 、雲南
省 の 昆 明 一麗 江 一雲杉坪 (玉 龍 雪 山 の展望 台 )一 大理 一石 林 の コー ス に参加
した こ とが あ る ので 、 また送 って きた らしい。 昔 か ら山好 きだ つ た私達 、黄
山 も以前 か ら一 度 は行 つて みた い と思 つてい た所。値段 も国内旅行 よ り安 い。
家 内 に 「行 くか ?」 と聞 い た ら 「行 きた い 」 と言 う。それ で 出発 日を選んで 、
旅行社 に電 話 をか けた。「コー ス番 号 が○○○ ○○で、出発 日が 3月 20日 な
んです が 一」 しば らく置 い て 、受付 の彼女 回 く、「コー ス番 号は○○○○○ で
す か ?」 「は い 、そ うです 」 と言 うと、彼女 は さらに聞 く 「お客様 、今 、何 を
ご覧 にな つて い らっ しゃ い ます か ?」 へ ん な こ とを聞 くな と思 い なが ら、「お
宅か ら来た旅行 案 内です 。」 と言 つた ら、「少 々お待 ち くだ さい ませ 。」 と言 葉
が切 れ た。 しば らく して 、「は い 、分 か りま した。杭州 ―西湖 ―屯渓 ―黄 山 の
コース で ご ざい ますね 。 3月 25日 出発 の分 で した ら、 お受 けで きます が 」 出
発 日は何 とか な りそ うな ので 、「 じゃあ、それ で二名 お願 い します 」と言 つて 、
こち らの住所 、氏名等 を告 げて予約 を終 えた。 しか し、 なぜ か 相手 の言 うこ
とが腑 に落 ちな いの で 、家 内 に 「このはが き、君 が ポ ス トか ら持 つて きたん
だ ろ う ?」 とき くと、「知 らな い 」 と言 う。私 もそれ に一度 も触れ た記憶 がな
いのだ。
この メール ー 体何 時送 つて 来 たんだ ?メ ール を ざつ と見たが 、 老眼 な ので
よ く見 えな い。虫眼鏡 で よ く見 る と、あ つ た、あ つた 、小 さな文字 で 2005と
書 いて ある。
「え― っ 、 去 年 の ?い っ た い 、何時 、 どこか ら出て きた んだ ?」 この メール
を取 つて お い た 記憶 もな く、多分 、 去 年 か ら何 かの FElに 挟 ま つ て い て 、何 か
の拍 子 に机 の上 に落 ちた の だ ろ うと思 うの だ が 、何 一つ わか らな い 。狐 につ
ままれ た よ うな不思議 な気分 。 しば らく考 えて 、 フ ッと気 分 が 変 わ り、私 は
家 内 に言 つた。
「そ うだ、 これ は 黄 山 が 私 た ちを呼 んで くれ たんだ よ。 き っ と、素晴 らしい
天気 に して くれ る と思 うよ」 そ して 、 3月 25日 出発。
屯渓 (現 在 は黄 山市 )の 町歩 きはた の しか っ た。 二 日日、 ロー プ ウエ イ の
70
日本語教室
乗 り場 で待 つてい る時 、 二 匹 の猿 が 2メ ‐ トル 程 の近 くま で 寄 って 来 て 、私
た ちを歓避 して くれた◇ 日本 の猿 よ りも大 き く偉 そ うな顔 を していた。
黄 山 は 、 一 年 に 400翔 は 雨 が降 る とい われ てい る。 そ して 有名 な の は 、 あ
の雲海 、 しか し、初 めてい く者 に とつ ては 、や は り、天気 が一 番 だ。
果 た して 私達 が登 った時 は 、思 つた通 りの決晴。大小 72の 峰 が ある といわ
れ てい るが 、そ のす べ てが 眺 め られ た と思 う。 金峰 、 奇着 、松 、そ のす べ て
が美 しく、そ して雄大。 特 に西 4111に ある夕 日の展 撃 台 「排 雲亭」 の少 し先 か
ら眺 める 「大渓谷 」 と呼 ばれ る V字 形 の深 い 谷 は 、雄大 で、見飽 きるこ との
な い程素晴 らしか つた 。
日本 の lll道 と違 うと ころは 、黄 曲 の lll道 は、そ のす べ てが 階段 な の だ。 岩
由な ので 、階段 がな けれ ばおそ らく登れ な い と思 うが、それ に して も、天 ま
で続 くか と思われ るほ どの 階段 、 よ くぞ彫 った ものだ と思 う。
ロー プ ウエ イ を下 りてか ら、そ の 国に泊 ま る北海 実館 の 前 を通 り、先程 の
「排雲 亭」ま では比較 的平 らな道 だ つたが 、そ こか ら先 「Jle来 石 」へ の道 は、
い ったん 階段 を ぐつ と降 りて 、 また 、 ぐっ と登 る階段 が 見 えて い る。 それ を
見 て 、そ こか ら先 をパ ス した人 も数人 は い た よ うだ。 私達 は 、 オプ シ ョンの
コー ス も歩 き 「飛来 石 」 も登 つて 来た の で 、 ホテル に着 い た時 は 、 さす が に
足が痛 かつた。
三 目日、杭州 の pl‐ 湖周 辺 を散策 した 時 に も、 まだ、足 を ラ│き ず ってい る人
が 多 か つた。 家 内 も、時 々 、私 につ か まって 歩 いていた。
│1口 駅 の 階段 を下 りる時 も、彼 女 は私 に つ か まって 下
四 口目、 ll■ 国 して西メ
りた。
家 に 戻 つて しば らくす る と、 家 内 が 「あ― っ」 と声 を上 げた 。 ど う したの
か と思 つて 見 る と、 家 内 の 足 が バ ンバ ンに浮腫 んでいて 、押 した指 の跡 が 1
セ ン チ以上 、深 く残 ってい た 。 以前 か ら、 家 内 は塩 分 を少 し多 く取 つた だ け
で も浮腫 む タチなのだ 。
食 パ ンのみみ をたべ て も 「ああ、塩 の 味 がす る」 と書 い 、議 理 には とん ど
塩 は使 わな い し、また 、食 の細 い 人 な の だ。家内 が 言 う、「あ の 階段 を見た ら、
これ は沢 曲食 べ な くちゃ歩 けな い と思 って 、 ガ ンバ ッテ 食 べ たの 。 で も、家
に着 くまで足 を見 な いで よか った 。 も し見 た ら、 き っ と歩 けな くな った と思
うわ」 これ は、黄 曲 が くれ た さ さや か なプ レゼ ン ト。 き っ と 「家 に帰 りつ く
まで 、見 てはいけない よ」 と言 つ て くれ たんだ ろ うと思 つて い ます 。
71
一
‘
,
,
金環 日食 を見 りれま したか。厚 い雲 lilを 縫 って神秘的な天体 シ ョーの始ま りで
す。 日食 グラスで兄 た太陽は、意外にも満月 よりず つと小 さく感 じて驚きま した。
雲隠れ した太 陽は、逆 に雲が フィル ター になつて肉眼でも綺激に見 えま した。また
辺 りが薄暗 くな り、肌寒 さを感 じるころ、群れを成 したカラスが鳴きなが ら北 のね
ぐらに帰 って行 きます。金環食が始ま り、8階 のベ ランダから地面を見下ろす と、
ヒげ、地上の動きは止ま り
老 い も若きも、進行 く勤め人も、グラス片手に太 陽 を見¨
ま した。 自然は素購 らしくもあ り、脅威 でもあ ります (地 震 。津波な ど)。 明るさ
て、カラスの群れが帰 つてきま した。小首をflJiげ なが
が戻 り、気温 も上がるにつれ′
ら♪かれ らはflilを 奄tっ たので しようか。
人間 Bク ラスの開講が遅れてい るために、原稿 を頂けず、第 34号 「にいはお」
原稿 の集 ま りを心配 しましたが、おかげさまで例年 よリベ ージ数 が多 くな りま し
衷心感謝 !"
た。理事長 ,事 務局長 ,教 室fヽ 表・老師・新同学・老岡学・会員 の皆様 “
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アイディア ンの前田稔夫 さん、珍 し “
笙後
表紙 と想 出に残 る画報 を “
謝 !多 謝 !"強 力な助手の内rllli繁 子 さん、お魚1恵 拝借頼 もしいです。典夜中に知恵
が浮かぶ本多路子 さん、「教室 の決ま り」を改訂 し、「受講生名簿Jも 作 つて くださ
り、あ りが とうございます。
公私 とも ども超多1亡 にもかかわ らず、快 くレイアウ トや赤字な ど夜を徹 して訂正
してくださつた圏村曲美 さん、心から敬服 いた します。
人間クラスの幹事を
受け、新 同学か ら「にいはお」の原稿 をた くさん集めて
`│き
さん、心か ら、“
くだ さった森基悦 さん、後藤和可子
多謝 :"
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しあげます。
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りして、御ネ
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4/05 34期 入門 A開 講式 。本多教室代表
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5/06 34期 入門 B開 講式
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08/05 川 口親子教室 大使館訪問
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08/07 たた ら祭 り
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お漁EII要 語
発表OmCtl ‐ 馘
10/02 中国語発 表 のつ どい
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日中田中会長)
10/02 中国語発表 のつ どい
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大使館会食会
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大使館会食会
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11/13中 国映画鑑 賞会
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11/13 中国映画鑑賞会
11/13 中国映画鑑賞会
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11/13 法人会出展
(子 供 中国語教室)
11/13 法人会 出展
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画報 日中かわ ぐち
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12/23 教室忘年会 。岡村会長
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12/23 忘年会景品チ ェ ック
12/23 栗原理事長挨拶
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12/23 教室合同忘年会
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教室合 同忘年会