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その他発表以外の参考記事
冨田, 良雄
第4回天文台アーカイブプロジェクト報告会集録 (2014),
4: 29-75
2014-01-15
http://hdl.handle.net/2433/180580
Right
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Conference Paper
publisher
Kyoto University
相対性理論と懐中時計
1922 年にアインシュタインが来日し、全国各地で講演を行い大フィーバーをまきおこし
た。日本滞在は 1922 年 11 月 17 日から 12 月 30 日の 43 日間であった。このときアインシ
ュタインに付き添って歩いたのが石原純である。石原は 1921 年に『アインスタインと相対
性理論』を出版している。
山本一清は 1922 年 9 月 11 日に欧米留学の旅に出て帰国が 1925 年 3 月 3 日であるから
入れ違いとなり、アインシュタインに国内であったことはない。しかし出発とほぼ同時の
1922 年 9 月 14 日には『アインシタイン相対原理』という 77 ページの小型の本(125mm
×187mm)を警醒社書店から出版している。
『星座の親しみ』に次いで翌年に出されたすっ
きりとした装丁の本である。1 ページあたり 8 行縦書き、1 行は 30 文字という余白たっぷ
りゆったりとした構成で、30 分もあれば読み終えてしまう。専門用語にはすべて仮名がふ
ってあり音読も可能である。難しい内容の分厚い本なら挫折してしまうところ、この本な
らば読み終えた人が多かったのではないだろうか。内扉のタイトルと本文のはじめのタイ
トルには「アインシタインの相対原理」と「の」がはいっている。おそらく表紙のタイト
ルのほうが誤植であろう。ちなみにこの本はその後 3 か月間に8版を重ねている。
1921 年ころのアインシュタイン
(ウィキペディアより)
山本一清著『アインシタイン相対原理』(警
醒社書店、1922、資料番号 1-20-35)の表紙
第 1 章ではニュートン以来の物体の運動論と光の粒子説から説き起こし、19 世紀末のエ
ーテル論争までを、光行差、フィゾーの実験、マイケルソン・モーレーの実験など具体的
な事例を現在の中学生程度の初等数学でわかりやすく説明している。ついで第 2 章では特
殊相対論についてこれまた簡単な数式のみを用いて、簡明に解き明かす。読者が挿し絵を
参考にしながら自ら数式を導けるように仕向けているのである。そこまで達することがで
きた読者はわかった気分になり満足感に満たされる。実にうまいものである。第 3 章の一
29
般相対論の説明は全く数式を用いず、地球の北極の周りでの力と加速度の関係を使って巧
妙な導き方をしている。非ユークリッド幾何学を違和感なく取り入れてしまっている。最
後の第 4 章では、時空は相対化されたが物理法則は普遍で絶対的である、という結論から
哲学的思索におよんでいる。天文詩人山本一清にして執筆可能な著書であった。
アインシュタインが京大の物理学教室の講堂(現存)において講演を行ったときに、京
大の学生代表として荒木俊馬がドイツ語で歓迎の挨拶をのべた。荒木は東大での連続講義
にも出席し、その講義ノートを残している。このノートは『アインシュタインの東京大学
講義録』として復刻出版されている。特殊相対論について初めて論文を書いたのは石原純
あや
であるが、相対論を深く理解して『アインスタイン相対性原理講話』を出版したのは桑木彧
お
雄である。桑木は 1920 年 3 月 1 日に九州帝大通俗講演会において「万有引力に関する新発
見の話」と題しエディントンによる一般相対性理論の検証実験について講演をおこなった。
それ以前から各所で話たり書いたりした文章をまとめて 1921 年に『絶対と相対』という本
を出版した。桑木と山本とは「日本理学史会」(現「日本科学史学会」)の創立準備にあた
っても親密に連絡をとりあっていた。
ところで山本一清とアインシュタインにはほかにも意外なところに共通点がある。アイ
ンシュタイン愛用の時計は、スイスのロンジン社製であった。これは当時から有名な話で、
最近そのひとつがオークションにかけられ話題となった。帯留や婦人用メガネなど英子夫
人のものを詰め込んだ菓子箱が山本天文台の第 4 研究室のベッドの上に置かれていた。そ
の中からロンジンの懐中時計がひとつ見つかった。
山本先生愛用のロンジン懐中時計、右は裏蓋をあけてムーブメントを撮影
時計の二重裏蓋を開けムーブメントを撮影した写真を右上に示している。ケースには使
用感があるが、内部のムーブメントは錆や汚れもなく新品のように美しい。15 石の非常に
シンプルな構造であり、リュウズを巻いて本体を軽く回転させてみるとコチコチと動きは
じめた。しかし 10 秒くらいで止まってしまう。何度やっても同じで、故障はしていないが
やはりオーバーホールが必要なのだろう。なにしろ 80 年近く昔の時計である。製造番号は
5331494 と刻まれており、1935 年ころの製造である。先生が現役教授だったときに入手さ
30
れたものである。
表蓋の無いタイプでガラスがやや黄色味がかっている。そして時刻の文字の周りと針に
なにやら夜光塗料が塗布してある。観測用に先生はこんな時計を用意されたのだろう。メ
ーカー特注なのか、それともデザイン的にすっきりしないので先生御自身が塗られたのか
もしれない。第 2 観測室の棚の引き出しに夜光塗料の取扱説明書もあった。当時の夜光塗
料は自発光塗料と蓄光塗料の 2 種類がある。前者は放射線のエネルギーを使うのでいつま
でも光っているが、後者は太陽光または電灯にあてた後しばらく光っているというもの。
アインシュタイン愛用の時計のことを知って山本先生も定評あるロンジンを入手された
のであろう。いつの日かこの時計をメーカーへオーバーホールにだして、ふたたび精確な
時を刻むようにしたいものである。
参考文献
・石原純、『アインスタインと相対性理論』、改造社、1921
・桑木彧雄・池田芳郎訳、『アインスタイン相対性原理講話』、岩波書店、1921
・桑木彧雄、
『絶対と相対』、下出書店、1921(新生会叢書第 11 編)
・杉元賢治、
『アインシュタインの東京大学講義録』、大竹出版、2001
・西尾成子、
『科学ジャーナリズムの先駆者
評伝石原純』
、岩波書店、2011
(2013 年 2 月
冨田記)
追記:今年 10 月7日に著者の知り合いの横尾広光氏が亡くなった。天文学史と地球外知的
生命について多くの業績を残された。また日本ローエル協会でも活躍されていた。9 月 21
日~22 日の東亜天文学会京都年会のおりにお逢いしたのが最後であるが、その数日前に山
本先生の『アインシタイン相対性原理』を送ってくださった。同封されていた手紙には「同
封のもの出てきたので、お送りします。すでにお持ちでしょうが、受け取ってください」
とあった。京都ガーデンホテルで開催された懇親会でも「冨田君、フロイントリッヒだよ」
という言葉が耳に残っている。
(2013 年 12 月記)
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大原孫三郎、原澄治と山本一清
1926 年、本邦初の市民天文台が倉敷にオープンした。天文同好会(現東亜天文学会)が
発足して 6 年目である。その背景には岡山を中心に特徴ある会社経営と社会事業をおこな
っていた大原孫三郎(1880 – 1943)と、京都帝大を中心軸に天文学の普及活動につとめて
いた山本一清の水面下の動きがあった。
大原はクラボウや中国銀行、中国電力、山陽新聞など多数の企業をたちあげて発展させ、
大原農業研究所、大原社会問題研究所、労働科学研究所をつくり地域にねざした新しい経
済活動の基盤となる人材をあつめた。そうしたなかから倉敷市民の生活向上にやくだつ土
木工事をおこない、倉紡中央病院ができ、また画家の児島虎次郎を支援してヨーロッパに
留学させ、その才能に依拠して大原美術館、日本民藝館を創立した。大原の腹心として働
いたのが原澄治であった。
地元倉敷の熱心な天文愛好家であった水野千里の奔走により倉敷で開かれた天文同好会
の講演会にまねかれた先生が、天文講話をおこなうなかで市民天文台の必要性を説かれた
ものと思われる。天文台の中心となる観測装置として先生の推薦でカルバー33cm 反射望遠
鏡を原が購入し、天文同好会倉敷支部に寄贈した。その組み上げ・調整には中村要が尽力
した。原が天文台建設資金を出すことになったと警醒社書店の土居客郎(後に恒星社厚生
閣をたちあげる)も先生への追悼文のなかで述べている。土居もこの講演会に参加してい
たらしい。山本は天文台長に就任し、原は名誉台長、台員には宮原節、中村要らが就いた。
このようにして本邦初の市民天文台ははなばなしく竣工した。
竣工当時の倉敷天文台
昭和9年 6 月、高松宮殿下が倉敷を訪問され、大原孫三郎がそのホスト役として、労働
科学研究所、倉敷絹織工場、大原農業研究所、倉敷天文台、大原美術館を案内した。天文
台の活動については水野が説明もうしあげたようである。事前にその内容について懇切に
指導をしてきたのが先生であった。大原から先生あてに送られた礼状がのこされている。
奉書紙に達筆でしるされた漢文である。筆者に読める部分については活字にしたが、全文
の解読にはいたっていない。どなたかご教示ねがえればと思う。
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大原孫三郎から先生宛の手紙
拝啓初夏之侯増々御清
穆有賀□□先般
高松宮殿下当地御行啓
□□□□御多用中御来
倉旨有難く記念写真
出来仕□本日以別便
御送付申□□へます納
□□□□先□□□
敬具
大原孫三郎
□□□□□□御座
候
六月九日
山本一清様
上記手紙の楷書体への翻刻。□は筆者には読めず。
中村要亡き後、先生の教え子の荒木健児、小山秋雄らが台員となった。しかし先生から
未来を嘱望されていた小山が、家族と海岸に海水浴にでかけたさいに、事故で溺死してし
まった。小山の死はその後ふしぎな縁となって、長島愛生園天文台の創設につながってゆ
くのである。愛生園天文台の創設の経緯については、第3回報告会集録に書いたが、肝心
の望遠鏡の由来についてはその時点ではまだ不明であった。しかしその後、朝日新聞社の
記者が小山秋雄の遺品であったカルバー15cm 反射望遠鏡であったことを突き止められた。
先生が保管されていた手紙のなかにも、小山のご遺族から望遠鏡の寄贈についての申し出
があり、天文講演の慰問にでかけられた愛生園の園生の希望にこたえて天文台を設置する
ことを条件にそちらにゆずられることになったのであった。
小山亡き後、倉敷天文台の観測業務を実質的に引き継いでやりとげたのが鳥取県から先
生にあこがれてでてきた本田実であった。若い本田は中村要を彷彿させる鋭い観察眼を持
っていた。これを見抜いた先生は、まず丁度たちあげつつあった国際黄道光観測事業を本
田にてつだってもらうことにした。台湾の阿里山気象観測所での黄道光観測に単身派遣、
また瀬戸国際臨時黄道光観測所での観測、出征先の満州での黄道光観測と、本田は大活躍
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をする。戦中戦後の困難な時期を本田は倉敷天文台の台員として、彗星の発見などで世界
的な貢献をおこないつつ、さまざまな社会活動にも取り組んでいったようだ。先生の薫陶
まさに彼にありという気がする。
戦中、倉敷天文台は海軍に接収された。終戦後はそのまま水路部の所属となり、市民の
天体観測には制限があったようだ。そのことに危機感をいだいた原名誉台長から先生にあ
てた手紙が残されている。先生はその要請をうけて水路部と交渉されて、移管が実現し再
び市民天文台としての倉敷天文台がもどってきたのである。
京大の北部キャンパスの北側を通る御蔭通の東のどんづまりのところに大原家の京都別
邸がある。比叡山ドライブウェーの上り口にあたる、丘の麓に高い生垣に囲まれてこんも
りとした林の中に岡山県でよく見かける民家風の家と茶室などがしつらえられている。大
原は、京都財界人や学者とも親交があった。また大原奨学会を創設して将来性のある人材
の育成につとめた。大正末年までに数百人の若者が学資の援助をうけた。大原奨学会は奨
学金を受けた個人のプライバシーと自尊心をまもるために詳細は一切公開しないことにな
っていた。京都では日本舞踊の井上八千代も奨学会会員であった。
大原は「有隣」と号していた。先生の知人で近江商人で藤井天文台を創設した藤井善助
も「有隣」を名乗っていた。先生は藤井家とは親戚筋で、実家の桐生と京大との往復のあ
いだにもしょっちゅう大津の有隣様を訪ねていた。また西宮にあった「有隣」様も結婚直
後に夫妻で訪問している。大原は藤井の近江銀行が倒産したおりに、中国銀行を通じて援
助をおこなっている。そうした背景から大原と先生の間には直接のなにかの交際があった
はずであるが、今のところ前記の手紙しかでてきていない。
『天文歌』の扉絵
先生と倉敷天文台のかかわりはこのようにして、原を通じての緊密な関係が永く続いた。
原は明治 7 年に地元倉敷明倫館で出版された天文の教科書『天文歌』を屏風にしたてて飾
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っていたという。山本天文台資料の中にも、色鮮やかな版画のはいったこの冊子が一冊発
見された。その経緯と内容については第2回報告会集録に詳しく紹介している。今春、筆
者が倉敷天文台を訪問した際に、駆けつけてくださった孫にあたる原圭一郎氏から、この
冊子が原から贈られたものだということをおききした。
参考文献
・兼田麗子、
『大原孫三郎
・
『星尋
――善意と戦略の経営者』、中公新書、2012
~星空にいだかれて~』、本田實生誕 100 年記念誌、クラシキ・クラシック、2013
・冨田良雄、
「『天文歌』考」、第2回天文台アーカイブ報告会集録、2011
(2013 年 10 月 冨田記)
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山本先生の回転机
一昨年 4 月に山本天文台資料引受のための予備調査におとずれた折におどろいたものの
一つが、先生の書斎だった第二研究室の真中にしつらえてあった大きな回転机であった。
分厚い天板は、幅 430mm 厚さ 45mm の欅板を 4 枚つなぎ合わせて対角 2,020mm の六角
形としたもので、中心を貫く回転支柱の下部は軸受に載せられ、上部は天井の梁にわたさ
れた板に開いた丸穴にさしこまれている。ちなみに軸受は外径 82mm のスラスト玉軸受で、
軸方向に大きな荷重を支えつつ回転できる。支柱は 110mm 角材で、高さ 2,300mm ある。
6 方向ごとに異なるしごとの資料を載せておいて、しごとの切り替えごとに机を回転させて
お望みの作業スペースに自分が移動しないで即時に移れるという効率のよい家具である。
これは先生がヤーキス天文台に留学されたときに、天文台の教授室に設置されていたもの
を参考に製作されたものという(武田氏が先生御自身からきかれた話)。
資料搬出のおりに奥の書棚の本をとりだすのにその上に乗ってもびくともせず、上で歩
くと机は逆向きに回転するのであった(角運動量保存法則!)。同行の大野博物館長の「こ
れ欲しいなあ」の一言が耳にのこっていた。そのままではトラックに載らないので運送屋
にたのんで、支柱と天板を分解してトラックにのせ、資料室に運び込んでもらったのであ
る。資料室では 1 年以上の間、段ボールの山の間に立てかけたまま放置してあったが、立
派なスチール書架が昨秋組みあがり資料の全部が並べ終わった段階で、ちょうど回転机を
設置するスペースが空いたのであった。これはぜひ組み立てて動かせるようにせねばと、
思案をめぐらせた。
資料室に復元された山本先生の回転机
資料室の天井の高さを測るともとの書斎のとおり復元するに十分な高さであることが判
明。しかし、問題は天井板の固定方法にあった。普通の石膏ボードの天井ならばその固定
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ねじの頭が下側に出ているのだが、益川記念館の資料室はねじ頭が隠れてしまう施工法が
とられていて、最初考えたようにそのネジを利用して板をとりつけ柱を通す方法は簡単に
実現できないことが分かった。もちろん業者に依頼して天井を加工してもらえば可能であ
るが、そうするとかなりの経費と、プロジェクト室から撤収時の現状復帰にも工事が必要
になる。いろいろ悩んだ末、解決策が見つかった。穴開きの板を三方からワイヤーでひっ
ぱり、その端は廊下側の窓枠やスチール書架の支柱にクランプをしっかりとりつけそれに
ワイヤーを結ぶやりかたである。ワイヤーは 2mm 径の細いものであるが、1 本で 120kg
の耐荷重がありよほどの衝撃をあたえないかぎり大丈夫である。ワイヤーの長さと張力調
整にはターンバックルを使った。回転柱下部の軸受は元のものを使うことにした。ただし、
グリースが劣化してゴリゴリするので、分解してシンナーで洗浄し、新しいグリースを充
填した。これで滑らかに回転するようになった。軸受がはまり込む浅い円形に彫った
300mm 角の厚板を床面保護のために置いた。
天板が 70~80kg もあるので、一人での組み立て作業は大変だったが、手順を考えて一度
頭のなかで予行演習をおこなった後、慎重に組み立てをおこない、12 月下旬にはなんとか
復元できた。上部の回転柱と固定穴のところにはワックスを塗って摩擦を軽減した。まわ
してみるとくるくる快調に回転する。いやむしろ廻り過ぎるくらいである。作業には適度
の摩擦があったほうがよさそうである。
とにかく完成したということで、書斎にあった当時と同じものを載せてみようと、写真
を探したのだが私は建物の写真ばかり撮影していて書斎の中は撮影していなかった。天文
台アーカイブのみなさんに回転机を撮影した画像があったら提供してくださいとお願いし
たら、五島さんと武田さんから写真が送られてきた。それらの画像を参考に資料室にある
物品をさがしだして置いたのが次の写真である。
第一研究室内(五島氏撮影)
復元された回転机上の物品並び
実際に椅子に座ってみると、くるくるとまわしてみたくなる。やはりちょっと廻り過ぎ
かな。これは昔の男の子がお正月には必ず遊んだはずのコマの大型のもの。きっと先生も
くるくる回して喜んでおられたのではないだろうか。現在、山本天文台資料の目録づくり
はこの机を使って効率よく行いつつある。使い込まれた書斎道具はたいへん心地よいもの
(2013 年 1 月
である。
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冨田記)
山本天文台資料の『古事記』『先代旧事本紀』
山本天文台資料には明治以前に出版されたいわゆる和本や漢籍が数多くふくまれる。こ
れらは先生の蒐集品というよりも、医者であり儒者でもあった栗斎先生またはその先祖の
所蔵品であった可能性が高いものと考えられる。そのなかに『古事記』
(上中下三巻)と『先
く じ ほ ん ぎ
代旧事本紀』(全十巻 5 冊)がある(4-72)。両本とも寛永 21 年(1644)、洛陽書林、前
川茂右衛門開板である。
寛永本『古事記』(左)と『先代旧事本紀』(右)
『先代旧事本紀』は記紀の元になった史書のひとつとされ、大和朝廷が『日本書紀』を
編纂した際に焚書にあって抹殺された可能性のある史書である。『古事記』は太安萬侶が編
纂したあと『日本書紀』が正史として採用されたことから没になって歴史の表舞台からは
姿を消した。その後長いあいだ『古事記』という名は巷に登場するのにその実体は不明だ
ったが、室町時代になって再発見されたのが「真福寺本」と呼ばれる古写本である。真福
寺本は現在のところ『古事記』の一番古い写本であり、国宝に指定されている。京都大学
附属図書館の貴重図書にもいくつかの『古事記』写本がある。一番古いものが堀本である
が、真福寺本にはおよばない。堀本は 2012 年 4 月に京大総合博物館にて開催された「京大
日食展」において、天岩屋戸伝説の丁を開き皆既日食であったとする解釈の展示が行われ、
観衆の注目を集めた。また秋に大和郡山市で開催された古事記編纂 1300 年記念企画には、
山本天文台資料の寛永本『古事記』を出品した。
徳川家康は重要な本を新たに版をおこして順次刊行する文化事業を行った。その一貫で
寛永本『古事記』『先代旧事本紀』も出版された。本居宣長は真福寺本を研究して『古事記
伝』を著したとされるが、直接に依拠したのはこの寛永本である。そのあたりの事情は古
田著『多元的古代の成立(下)』に詳しい。
参考文献
・古田武彦、
『多元的古代の成立(下)』、ミネルバ書房、2013
(2013 年 1 月
38
冨田記)
山本天文台の観測装置の変遷
山本天文台(旧田上天文台)に設置された観測装置は、その代表格であるカルバー46cm
をはじめとして数奇な運命をたどっている。しかしその動きの全容を知る関係者がほとん
ど他界され、私たちが詳細を知ることはむずかしくなっている。そこで現在に残されてい
る写真、書類、各所に保管されている現物などを総合して推理し、その変遷を記録してお
くことが重要であろう。そうして出来上がった第一観測室、第二観測室に設置された観測
装置の移動を示す変遷図を次に掲載する。左端に西暦年を示してあり、実線の矢印は観測
用に設置されていた期間、破線の矢印は取り外され保管されていた時期を示す。
カルバー46cm 赤道儀は 1927 年に先生が英国の月面観測者として知られるグドエーカー
から譲り受けて輸入し、1929 年に竣工した花山天文台の敷地内にスライドルーフの観測小
屋を建設して設置された(写真 1)。先生が 1938 年に京大を退官された後、田上天文台が
完成した 1942 年に第二観測室に据え付けられた(写真 2)。この時期までの経過について
は先生自身による田上天文台の紹介記事に概略が述べられているが、各装置の入手の背景
なども含めた情報があまり説明されていない。
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写真1.花山天文台に設置された 46cm 鏡(1929) 写真2.田上天文台に置かれた 46cm 鏡(1942 ころ)
戦後、先生がアナナイ教に関係をもたれ、カルバー46cm 鏡は 1957 年に沼津のアナナイ
教天文台に移設された。しかし翌年に先生はアナナイ教とはすこし間をもたれ、1959 年に
亡くなられた。その後始末をされたのが坂井氏のお父さんの坂井義雄氏であった。その縁
で 46cm 鏡は岐阜の富田学園高校に移設された。1990 年ころには老朽化した 46cm 鏡を坂
井氏が引き取られ信州小川村の倉庫に眠っていたのであるが、2011 年夏に花山天文台に寄
贈のはこびとなり古巣に再びもどってきた。このあたりの経過については坂井氏の報告
(2011)に詳しくのべられている。つぎの写真3からもわかるように、山本先生の法要の
おりにご自宅に主鏡を含め望遠鏡が一時帰台していた。
写真3.先生の法要時にあった主鏡
写真4.第二観測室の屈折赤道儀と英子夫人
カルバー鏡がアナナイ天文台に派遣されて不在の期間、第二観測室に設置されたのが写
真4に示されている屈折望遠鏡である。これは一説にニコン製と言われていたが、今回の
さまざまな資料をつき合わせてみた考察の結果、これは 1932 年に神戸の改発邸に設置され
た 15cm 屈折赤道儀であることが判明した。対物レンズは中村要氏が研磨し、鏡筒と架台は
西村製作所がつくった。中村氏が亡くなったのちこの赤道儀は改発氏からの申し出により
山本先生に引き取られたことが山本資料にふくまれる手紙のやりとりから判明する。さき
の変遷図に推定で記入したのであるが、田上の自宅に分解して置かれていた鏡筒を第二観
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測室が完成した折に、カルバー鏡のガイド望遠鏡として同架されたことが写真2からも読
み取れる。そしてカルバー鏡がアナナイ天文台に移設されたおりに、再びもとの赤道儀に
載せられ第二観測室にピンチヒッターとして設置されたらしい。写真4は先生の法要とほ
ぼ同じころに新聞社によって撮影されたもので、暗くてわかりにくいが赤道儀は西村製の
ものである。
話は再び田上天文台設立の 1942 年にもどる。第一観測室はそれ以前の 1940 年末には完
成していて、中村要が火星観測用にとエリソンに反射鏡を注文して使っていた 16cm 経緯儀
が設置されていた。坂井氏の報告の写真にあるような状態で第一観測室のみが先行してあ
った 1941 年ころのことである。背景のわら葺屋根が時代を示している。ここからが先生ら
しいのだが、第二観測室が完成したおりにエリソン鏡にかえて中村要製作の 13cm 天体写真
儀をあまっていた改発赤道儀にのせて設置し、写真観測につかわれたのである。そしてカ
ルバー鏡がアナナイ教天文台に移設されたおりには、空いた第二観測室に 15cm 鏡筒と赤道
儀を合体させて設置されたのである。第一観測室のほうにはふたたびエリソン鏡経緯儀が
もどされたようである。なんともめまぐるしい動きであるが、先生らしい合理的な考え方
による観測装置の組みかえであった。
写真5.第一観測室に設置されていた中村 11cm 天体写真儀
写真6.山本資料室に保管中
(戦後すぐのころ)
のエリソン経緯儀
写真 5 を見ると天体写真儀に比べて赤道儀が不相応にしっかりしたものであるとわかる。
ちなみに先生の観測助手を務めているのは野邑俊彦氏である。
この 3 月下旬に国立天文台の中桐氏、国立科学博物館の西城、洞口、中島の3氏と西村
製作所を訪問した際に、改発 15cm 屈折赤道儀と中村 13cm 天体写真儀は西村製作所の倉庫
に眠っていることが確認された。
『天界』誌によれば、1983 年に英子夫人が逝去された後も
東亜天文学会の事務局は山本天文台に置かれていたが、1995 年には実質近江八幡の薮天文
台に移されたようである。おそらくこの時期に前後して、老朽化した山本天文台の建物は
立ち入りが危険であることから閉鎖され、第一観測室の屈折赤道儀と中村製天体写真儀は
西村製作所が撤去したものと思われる。これらの装置はふたたび整備して組み立て保管さ
41
れる日を倉庫の片隅で待っている。
参考文献

I. Yamamoto, “General Descriptions of the Kwasan Observatory of the Kyoto
Imperial University”, Publications of the Kwasan Observatory, vol.1, no.1, 1929.

天界花山天文台記念号、第 9 巻、第 103 号、1929.

中村要、「改発氏の 15 センチ赤道儀」
、天界、第 10 巻、第 105 号、1929.

山本一清、「田上天文台の施設
私設天文台での私の仕事」
、科学画報、第 31 巻、第 7
号、66-69、

山本一清、「村の天文台」
、旅、第 25 巻、第 6 号、28-30、1949.

山本一清、「田上天文台」
、天界、第 34 巻、第 344 号、31 – 42、1953.

木辺成麿、「山本英子夫人の想い出」
、天界、第 702 号、308、1983.

斐太天文処、星と人、山本博士関連記事、第 14、15、16 号、1983.

坂井義人、「山本一清博士と遺愛カルヴァー46 センチ反射望遠鏡」、第二回天文台アー
カイブプロジェクト報告会集録、11-17、2011.
(2013 年 4 月
42
冨田記)
中村要の火星観測
眼視観測が主流だったころの戦前の火星観測はプロとアマの境界に位置していた。火星
観測の大家といわれた佐伯恒夫は、その著書『火星の観測』において日本での火星観測史
について「我が国で、最初に、火星の表面を観察した人は、約 150 年前の国友一貫斎と岩
橋善兵衛の 2 人です。この両人は日本最初の望遠鏡製作者であって、国友は主に反射を、
岩橋は屈折望遠鏡を作って、火星の表面に大シルチスを認めております。明治以後は折々
に、いろんな人が小望遠鏡で火星を眺めていた程度であって、これという記録は残されて
おりませんが、1920 年(大正 9 年)以後山本一清博士の指導により京都大学の中村要が本
格的な観測を開始しました。1922 年には神戸在住の英人 R.スコフィールドも、カルヴァー
製作の口径 22cm 反射望遠鏡で、中村と協同観測を始め、同年この両名は山本博士の紹介で
ピッケリング主宰の火星観測者同盟に加入し、数々のすばらしい記録を残しました。」と記
している。中村がピケリングに送った火星スケッチは著名な火星観測家のスケッチに混じ
って Popular Astronomy 誌に多数掲載された。これについては拙著『中村要と反射望遠鏡』
に詳しく紹介しているのでそちらを参照していただければ幸いである。
また大正 15 年に中村が初の著書として刊行した『趣味の天体観測』の火星の解説の項目
では、「火星 Mars 予想されてゐる程見事なものでは無いが、それでも小望遠鏡として見
えるものは随分澤山ある。火星面上の模様は他の遊星のに比して大きな倍率が使える。火
星で第一に注目すべきは極冠である。二吋でもレンズさえ良ければ能く見える。衝の前後
に十二日頃の月の如く蝕けて居るのは容易に知り得る。極冠は南北何れかで強く輝いて居
るから注意すれば見える。衝の近くでは「海」と称せられる緑色地帯等著しいものである。
しかし通常三吋では南極部が僅か暗く存在する位しか分らぬものであるが好期さえ得れば
大シルチスの形状等を認め得る。火星の運河は容易に見えないがピケリングはクラーク三
吋で、ラウはバルドウ三吋四分の三で見、尚此の様な小さな望遠鏡で見た人が澤山ある。
自分は 1925 年の接近時に京都大学の十吋反射望遠鏡附属の三吋百十倍(日本光学工業会社
製)でソリス湖附近の二―三の運河を明瞭に見た事がある。火星観測は非常に困難である
から其のつもりで見られたい」と記している。
観測野帖と Popular Astronomy 別刷り
火星観測に関するスコフィールドとの往復書簡
43
山本天文台の第 1 観測室 1 階には、天体観測に直接関係する星図、星表、天体暦、気象
データなどが保管されていた。その中に中村要の観測野帖、火星スケッチ帖、手紙類もあ
った。また第 2 観測室 2 階でも、全国の天文愛好家からの中村宛や、中村の親族から山本
宛の手紙類が多数まとめて見つかった。
火星スケッチ
中村要宛の手紙類、書類等
中村の死後、花山天文台に残されていた遺品のうち、反射鏡研磨に関する資料はその事
業を引き継いだ木辺成麿の手に渡り、それ以外は山本が京大を退官するときに田上天文台
(山本天文台)に引き取られた。しかしその後、ごく一部の人をのぞいて中村の火星スケ
ッチを見たものはなく、資料が死蔵されることになってしまったのであろう。そのことが
戦後、宮本正太郎をはじめとする京大の火星観測者グループが活躍する時期となっても、
日本で始めて火星の研究を行った中村の業績が全く無視されてしまう原因となったのでは
ないだろうか。おそらく宮本は中村の火星スケッチを見ていないものと思われる。
中村要の火星カラースケッチ。左より 1922 年 3 月 13 日、7 月 16 日、7 月 20 日、10 月 23 日。
中村は火星観測を始めた 1922 年ころには、盛んにカラースケッチを行っていた。彼の観
測ノートは、貼り付けられたスケッチの上に柔らかい薄紙を重ね、こすれて顔料が落ちる
のを防いでいる。ところが 1924 年にはカラーのスケッチは 1 枚だけになりモノクロスケッ
チが大半を占めるようになる、1926 年以降はモノクロのスケッチのみとし、非常に精細な
絵を描くようになった。カラースケッチの手法はその後前田静雄にひきつがれた。
中村要とスコフィールドとの間の火星観測に関する英文の往復書簡は、スクラップブッ
クに丁寧に貼り付けられて保存されていた。これは日本の火星観測草創期の貴重な資料と
44
して読み解かれる必要がある。ちなみに中村の観測野帖やノート類もすべて英語で書かれ
ており、それは山本の指導があったのだろう。
中村要の火星スケッチ(単色、左 1924 年 8 月 19 日、右 1924 年 9 月 1 日)
佐伯によれば中村が 1932 年に亡くなった後、1935 年より天文同好会(東亜天文学会)
に遊星面課が設置され宮本、木辺が幹事を、その火星斑を伊達英太郎が担当し、木辺、伊
達、福井実信、佐伯、前田などが観測にあたった。前田はカラースケッチに意欲的にとり
くみ、10 年にわたる観測結果から大シルチスは季節による色彩変化がなく、植物地帯とは
いえないことを明らかにした。戦後には、海老沢嗣郎、村山定男、佐伯が活躍する。
先に引用した佐伯の文章の前半に江戸時代に火星観測を行った日本人の話が出てくる。
これは事実誤認ではないかと思うので記しておく。岩橋善兵衛が寛政年間に京都伏見の橘
南谿別宅に集まった文人たちと自作の望遠鏡を持ち来たって天体観望会をおこなった記録
『望遠鏡観諸曜記』がある。しかしその記録には月、太陽、木星、土星、星雲、星団の観
察記事はあっても、火星は無いのである。望遠鏡で見たかも知れないが、記録していない
のである。この観望会については「始めて尽くしの天体観望会」として紹介した。大シル
チスを確認していると佐伯がいう根拠はおそらく岩橋の出版した『平天儀図解』
(享和二年、
1802 年)に火星の絵があり、その中央に黒い模様が描かれているのを言っているのかもし
れない。この刊本は中国やオランダ渡りの本の挿絵の複製であり、実際に岩橋らが観察し
描いたものではない。国友一貫斎は製作調整中の反射望遠鏡を使用して、天保年間に太陽
黒点、月、金星、木星、土星などの観察スケッチを多数残している。しかしその中には、
火星のスケッチは無い。ということで佐伯は、両者とも望遠鏡を製作して木星や土星など
の観察をしたのだから、火星ぐらい見ているだろうと思い込んだのではなかろうか。一貫
斎の反射望遠鏡の史的研究を行ったことのある山本からおそらく出版後に指摘もあり、第
二版(1968 年)では一貫斎の記述は削除されている。
火星は 2 年 2 ヶ月ごとに地球に接近し、15-17 年ごとに大接近になる。接近時期に火星
が夕刻の見やすい空にあったり、大接近だったりすると小望遠鏡での観察にも耐えうる惑
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星である。このことは筆者自身 2003 年の大接近時に口径 60mm の野鳥観察用の望遠鏡で
大シルチスを見た経験からも言える。岩橋の屈折望遠鏡は長さ約 2,500mm 外径 80mm で
あるが、対物レンズの有効口径は 30mm くらいしかなく単玉で色収差もあった。しかし大
接近であれば見えただろう。一貫斎の反射望遠鏡は主鏡口径が 62mm、解像力はすばらし
く色収差も無いので、見えたはずである。岩橋が観望会をおこなったのは寛政五年七月廿
日(1793 年 8 月 26 日)である。いっぽうの一貫斎が惑星スケッチを残したのは天保七年
四月廿六日(1836 年 6 月 9 日)である。作花一志氏の計算によればその前後の火星の接近
は 1792 年 3 月、1794 年 5 月、1834 年 12 月、1837 年1月に起こっており、両者とも火星
の接近時期からかなりずれていた。したがって両者ともスケッチをのこした日には火星は
かなり暗かった。また岩崎恭輔氏からh1793 年 8 月 26 日の火星の出は 2 時 58 分、南中は
10 時 2 分、没は 17 時 6 分、1836 年 6 月 9 日の火星の出は 2 時 34 分、南中は 9 時 18 分、
没は 16 時 3 分だったので、いずれの日も観望を行いやすい夕方ではなく、未明であったの
で時間帯からいっても見ていないだろうとご教示いただいた。
岩橋善兵衛『平天儀図解』の熒惑星
国友一貫斎の惑星観察スケッチ(天保七年四月廿六日)
(火星)図(山本天文台資料室蔵)
ちなみに『平天儀図解』の火星説明本文を引用すると
とも しび
「火星ハ色赤くして他星と異なり正中に燈火の中の
おは ぐろ
歯黒の如ものあり此星□に向ひあふ時ハ大く又日に
近き時ハ小さく日よりな□九十度斗も去ルときハ
あんずる
星南北へ長くになるべし 按 に火星天ハ日曜天より
高しといへども大くひらかざる□日西にありて星中
をる時ハ南北へ長く見也是大きにひらかざる
を□□と見へたり」
である。江戸時代初期に日本に伝来した『天経或問』や、それにもとづいて出版された『初
学天文指南』などの書物には五星の運行のようすは記述があるが、このように観察にもと
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づいた火星表面の記述は無い。
学問は学派を形成し批判的に議論を深めながら切磋琢磨して進歩してゆくものである。
しかしその学派が閉鎖的になると正しく学問の継承をしてゆくことが難しくなる、中村の
火星観測の真実が継承されてこなかったことにその思いを深くする。中村要 80 忌にあたる
2012 年秋に火星のスケッチ帖などを含むオリジナル資料が大量に出現したのはなにかの啓
示かも知れない。今後、中村のスケッチをデジタル化して公開できるように準備中である。
参考文献
・ 佐伯恒夫、『火星とその観測』、恒星社厚生閣、1958
・ 冨田良雄・久保田諄、『中村要と反射望遠鏡』、かもがわ出版、2000
・ 中村要、『趣味の天体観測』、岩波書店、1926
・ 冨田良雄・西村昌能、
「初めて尽くしの天体観望会」、
『月刊うちゅう』
、大阪市立科学館
友の会、第 17 巻、第 9 号、2000
・ 岩崎恭輔、「国友一貫斎と火星」、上田市立博物館特別展『江戸時代の科学技術と信州・
上田』図録、2005
(2013 年 2 月
冨田記:
2 月 9 日日本天文史研究会にて発表したものを再録)
47
山本一清と海王星
古来人類は日月のみならず五惑星の運行をもってより精密な暦の作製や、占いを行って
きた。そしてギリシャで発展した天文学は宇宙の構造を扱うまでになった。その後、天動
説から地動説への転換を経て、ついにニュートンが惑星運動の根本理論を打ち立てること
になったのである。
2006 年の国際天文連合総会にて冥王星が惑星の資格を剥奪され、準惑星に分類されるこ
とになったのは読者の記憶に新しいことだろう。トンボーにより冥王星が発見されたのは
1930 年、海王星の軌道のずれから未知惑星の存在が予想され、理論が予報するまさにその
位置に太陽系第 9 番惑星として検出されたのである。これは山本先生が現職教授だったこ
ろの同時代史である。
山本天文台第一観測室の棚に『海王星
発見と其の後の知識』と題した 41 ページの小冊
子が 780 冊あまり保管されていた。この冊子は「海王星の発見後一百年を記念する出版」
として昭和 22 年 3 月 25 日に東亜天文学会から出版され、日本出版配給株式会社を配給元
とし定価 14 円にて販売された。おそらく千部くらい印刷され、東亜天文学会会員諸氏を中
心に販売された残部であろうと思われる。
780 冊の冊子
山本一清著『海王星』(1947 年)表紙
章立ては、「海王星の発見事情」、「海王星の軌道」、「海王星の質量」、
「海王星の視直径」、
「海王星の光度」、「海王星の表面の模様」、「海王星の自転」、「海王星の大気」、「海王星の
衛星」、「アダムスの傳」、「ルヴェリエの傳」、「ガッレの傳」からなる。中でも「海王星の
発見事情」は全ページ数の半分をしめ、天王星の軌道のずれの発見からときはじめて、当
時の天文学者、数学者の間の手紙や学界での議論などを数理的にも手をぬかずに、丁寧に
紹介しながら、読んでいるとまるで当事者になったような気にさせる文章でまとめられて
いる。現在の天文学史の教科書にもここまで詳しく解説したものはないのではと思われる。
48
「学暦 1846 年 9 月に海王星が発見されてから、正に一百年である。この星は、発見さ
れて以来、まだ一公転を完了しないのだけれど、これを研究してゐる人類の立場から言ふ
と、この一百年は実に記念すべき学術史を含むものであり、殊に其の絢爛たる発見事情は、
ニウトン力学発展のクライマクスを語るものとして、理学史上に永く伝え遺される価値を
有つことが、疑ひ無き所である。」
冒頭の文章はこのように始まる。当初、天王星の運動のずれの原因のひとつにニュート
ンの万有引力の法則が太陽から遠方では正しくないという説もあったが、最終的には海王
星の発見によりニュートン力学の正しいことが実証されたのであった。
英国のアダムズに対するはフランスのルヴェリエ、両者は独立して天王星の軌道のずれ
を未知惑星の摂動によるものとしてその現在位置を推定するという、逆摂動問題の解法を
行ったのである。コンピュータが無かった当時その数値解析はたいへんな苦労であったに
ちがいない。両者はほぼ同じ時期に同じような結論にたどりついた。しかし、その予報に
もとづき望遠鏡で観測する段階になって明暗が分かれた。ルヴェリエには親交のあったベ
ルリン天文台のガレの協力があった。アダムズのほうはグリニッジ天文台のエアリ台長に
観測協力を依頼したのだが、しばらく放置されたままになってしまった。ガレはルヴェリ
エの予報位置のすぐ近くに星図にない星を発見し、翌日の観測で移動していることを確認
したのである。
山本先生が 1922 年から 1925 年にかけて夫人同伴で欧米留学された折にパリ天文台のル
ヴェリエの銅像を撮影されたブローニー判のネガフィルムが残されている。銅像のルヴェ
リエが指差しているのは左手にもった海王星の模型であるが、その指先を延長したところ
に夫人を立たせて撮影されたこの写真は若き先生の茶目っ気たっぷりな芸術心がうかがわ
れて楽しい。
パリ天文台のルヴェリエ像の元にたたずむ山本夫人(1924 年)
49
さらに時代は 200 年あまり遡るが、ガリレオは自作の望遠鏡で初の天体観測を行い、天
文学的発見を数多く成し遂げた。その結果を『星界の報告』
(1610)として出版した。中で
も木星の4大衛星の発見とその運動の観測は、太陽系の縮小模型として地動説に対する有
力な証拠となった。惑星は黄道面のすぐ近くを運動しているのであるから、惑星同士の掩
蔽が発生する。ガリレオが木星の衛星観測をおこなっていた 1612 年から 1613 年の期間に、
海王星が木星に隠されるという掩蔽現象が 1613 年 1 月にあったことがアルバース(1979)
により指摘された。もちろんガリレオのころには海王星も天王星も発見されていない。海
王星は 8 等級の明るさであるからガリレオの望遠鏡で見えたはずである。ということでフ
ィレンツェ国立中央図書館に所蔵されているガリレオの残したオリジナルの観測ノートを
ドレイクとコワルが丹念に調査し、木星のそばを相対的に移動する暗い恒星としてガリレ
オは海王星を見ていたことが判明した。
(追記)冊子『海王星』は冒頭で紹介したように、780 冊あまり保管されていた。天文台ア
ーカイブの関係者で議論した結果、9 月 21 日~22 日に益川記念館にて開催される東亜天文
学会京都年会において、その参加者の皆さんに会の創立者である先生のこの冊子を記念品
として贈呈することになった。当日は約 80 名の方々が資料室を見学され、この冊子をお配
りした。
文献
・S.C. Albers, Sky & Telescope, 57, 3, 220 – 222, 1979
(2013 年 7 月
50
冨田記)
終戦後直後の社会活動
昭和 20 年 8 月、日本は連合国にやぶれ、GHQ の支配下におかれた。武装解除と民主化
が進められた。それまで「撃ちてし止まん」と民衆を鼓舞していた旧支配層、インテリた
ちが一斉に立場を翻し「民主主義」を口にしだして、良識をもった人々を驚かせ嘆かせた
時代である。山本先生も時代に押されて昭和 21 年衆議院議員選挙に滋賀全県区から社会党
候補として出馬、定数 6 名のところ 35 名が立候補、23,144 票を獲得も第 10 位で落選。ト
ップ当選は 4 万票あまりだったので、先生はかなりいい線までせまっておられた。翌年の
滋賀県知事選挙にも社会党候補として立候補されたが落選。選挙葉書、立会い演説会のポ
スターやチラシ、選挙運動に関する内務省の書類、社会党との契約書などが多数残されて
いる。
1947 年滋賀県知事選挙の立会演説会
養蚕試験方御布告(民部省)
佐伯義門『山蚕養法』
ポスター(資料番号 1-86-45)
明治維新と養蚕業、茶業
終戦直後のこうした先生の動きを考えるためには、80 年くらい時代を遡って近江地域の
産業、文化の背景をみておく必要があるだろう。明治維新政府は、外貨を稼ぐために各藩
に輸出品としての絹、茶などの生産を奨励した。明治 3 年に民部省から『養蚕方御下問御
布告』と『養蚕試験御布告』が発せられている。富岡製糸工場は政府が出資してその一貫
として建設されたものである。
それに呼応する形で、たとえば岡山の小田県では佐伯義門が『山蚕養法』
(明治 6 年、小
田県製糸場)を著し、クヌギ等に繭をかけるヤマサンの美しい緑色の天蚕糸を産業化する
ことにつとめた。この本には多色刷りの図版が多数掲載されている。同時期に岡山で出版
された『天文歌』(資料番号 1-39-46)のことについては第 3 回天文台アーカイブで報告し
た。新しい産業を育成するための啓蒙書と、それを担う次世代を育成するための教育書が
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各地で独自に出版されたのが明治初年のころであった。
こうした養蚕関係の技術書は江戸中期以降、各藩のきもいりで出版されてきた。その嚆
矢が上垣伊兵衛守国著『養蚕秘録(上、中、下)』(享和 3 年(1803)、須原屋茂兵衛ほか)
である。この本は後にフランスの養蚕業がウィルス病で壊滅状態になった折に東洋からの
蚕種を導入して復興する際の教科書として 1848 年仏訳出版された。その訳者がなんと若き
ころオペラ歌手として名をなし、同郷のシーボルトと友人であったホフマン(1805 - 1878)
である。ホフマンは語学に堪能で、日本語、中国語、マレー語をマスターし、のちにはロ
ンドン大学中国語教授、ライデン大学教授をつとめた人物である。時代が動くとき、多才
な人物が現れ活躍する。
もう一方の稼ぎ頭であった茶業も、その筆頭として徳川宗家の牧の原開拓により、その
後静岡が一大茶産地として発展してゆくきっかけとなった。京都でも南禅寺や清水寺界隈
の今では観光地となっている東山一帯に茶園がひろがっていた。また勧農局から派遣され
てインド紅茶の産地ダージリンへ 1876 年にたどりついたのは多田元吉(1829 - 1896)だ
った。多田は英国の紅茶移出植民地として発展したダージリンで最新の紅茶製造技術をま
なび、帰国後『紅茶製法纂要(上、下)』(勧農局)を出版し、日本での紅茶産業育成につ
とめた。
滋賀県では彦根藩が明治 4 年に『蚕桑図解』
、『製茶図解』と題した一般にわかりやすく
図版を多用した生産普及の冊子を刊行し県内にひろめている。筆者の東近江の実家に小規
模の茶畑があって今も自家用のお茶をほそぼそと栽培しているが、その起源はもともと彦
根藩領であったことにあるのだろう。近所の農家も数十年前まではそれぞれに数畝の茶畑
をもち自家用の緑茶を作っていたが、今は我が家だけになってしまった。5 月下旬の八十八
夜のころに人手があったころは手摘みで、今は図のような茶ハサミを用いて一番茶を収穫
し、市内の製茶業者にもちこんで煎茶に加工してもらっている。例年、生葉で 10kg くらい
収量があり、自家用である。二番茶は収穫していない。また養蚕に関しても県北の長浜あ
たりが中心ではあったが、東近江でも戦後の時期までさかんだった。その名残だろうか田
の畦道には桑の木が今もあちらこちらにみかけられる。
多田元吉『紅茶製法纂要』
『製茶図解』(彦根藩)
52
布袋付茶葉収穫用ハサミ
県南部の膳所藩でもこうした状況は同じようだっただろう。明治以降、各地に茶業組合、
養蚕組合が組織され発展したが、地主と貿易・流通業者が支配する経済構造になっていた。
大正7年に滋賀県茶業組合連合会議所がまとめた『滋賀県之茶業』が出版されていて、こ
のあたりの事情を語っている。
山本先生と茶業組合
終戦後、GHQ による農地改革にともない、農業協同組合の結成・再編がおこってくる。
戦後初となる衆議院議員選挙に社会党から立候補し、また翌年の滋賀県知事選挙にも立候
補した山本先生にもこうした改革をめざす農民からの相談が多数よせられていた。その一
件が甲賀郡大野村農民組合結成(昭和 22 年 1 月)の相談であった。先生は昭和 22 年 6 月
には大野村の前野氏の依頼に応じて大野村まで出向いておられる。これまでの地主支配か
ら脱却して、協同組合化し、自分たちで工場を設立して製茶業を発展させてゆくという意
気込みに燃えた農家の若者たちに力をかしておられたようである。さらにまた滋賀県南部
地域全体に広げた近江茶業協同組合の結成の話にまですすんでいる。
山本天文台資料に含まれる農民組合関連の資料(資料番号 1-85-24)には次のものが含ま
れている。内容を詳細にみると当時の社会党の農業政策が反映されている。
・ 「決議」
大野村農民組合定期大会(昭和 22 年 1 月 30 日)
・ 「農民組合に就いて!!」
前野弥一郎
・ 「大野村農民組合青年部規定」
・ 「改革運動の要旨」
・ 昭和 21 年度県下郡別茶業実勢
・ 「茶業改革案」
大野村農民組合
・ 「茶業年中行事」
大野実業補習学校
・ 「近江茶農業協同組合員募集方依頼」
近江茶農業協同組合設立準備会長
奥野忠安
昭和 22 年 12 月 30 日
・ 「設立趣意」
近江茶業協同組合設立準備会長
奥野忠安
・ 「近江茶農業協同組合設立要綱」
・ 「大野村農民組合規約」
・ 「近江茶業協同組合要項」
・ 大野村農民組合
前野弥一郎氏からの手紙(昭和 22 年 6 月 24 日付け)
しかし、先生が亡くなった 1959 年以降、高度成長と貿易自由化の流れを受けて安価な農
産物が輸入されるにおよんで、日本の蚕業も茶業も急速に衰退してゆくことになった。
(2013 年 7 月
53
冨田記)
晴明社の造暦事業と山本一清
映画「天地明察」
(角川映画、2012 年)をごらんになった方は徳川光圀が「ふふふ、さも
ありなん。暦を支配しておれば、公家は永遠に莫大なる利権にあずかれるからのぉ」と安
井算哲にいいきかせる場面を覚えておられるだろう。暦は何時の時代にも支配勢力の重要
な道具であった。
山本資料の中に科学史家として知られる井本進が、昭和 32 年 12 月 22 日付けで清水市の
三五教天文暦算局にいた山本に送った手紙(資料番号 2-W15-29)がある。
藤田から井本宛の封筒(左)と井本から山本宛の封筒(右)
山本一清先生
御机下
井本進
拝啓
年内余日無くなりましたが土御門神道の藤田義男様が御来訪でして、暦編纂の会社を作って
戴き度いと御申出でありました。御承知の通り土御門本庁の暦は土御門元子爵の令息が作っ
ていられるのですが、経営がうまく行かず御困りの様です。小生は先般申上げました構想で
設立を進めたいと思いますが、一度藤田様の御話を親しく御聴取願いますか。如何で御座い
ますか。三五教出資で作って頂けないでしょうか。会社はなるべく大阪に置きたいと思いま
す。同封の御手紙を御覧願います。各神社にも御出資願いたいと思います。
天文の総会に出席の予定の処、風邪のため臥床失礼致しました。
敬具
昭和 32 年 12 月 22 日
藤田義男は土御門家の番頭のようなことをしていたらしく、京都市の山科御陵に晴明社
という会社の事務所をおいていた。井本の手紙に同封されていた藤田からの手紙には
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拝復
御尊顔に接し難有御座いました。実は先日神田先生に御逢ひして暦の経営の事に就て
御相談申上、井本先生の良く御指導を賜ることが出来ないか御相談願います様御願い申上げ
ておきましたのですが、如何でしょうか。何分資金が微力のため、経営に不合理が出来て経
営困難に陥入るのですが、経営者の頭の入替をして私共は経験と御得意を以って入って一使
用人として使れた方が発展するのでないかと思いますが、一度大阪へ参りました時に御邪魔
させていただきます。本年も御蔭様で大半の仕事が終りました。それでも本年部数が増えて
おります。厚く御礼申上げます。
□右御礼□く御依頼申上げます。
十一月二十八日
藤田義男
井本進先生
「事業目論見書入」と墨書された晴明社の茶封筒にこれらの手紙と一緒に保存されてい
たのは、藤田の名刺 2 枚、
「事業年度第一年度昭和三十三年
造暦事業目論見経費予算書
発
起人会」と題されたガリ版刷り冊子 2 冊と、天社土御門神道本庁編の「昭和三十三年戊戌
年本暦」数冊である。予算書には資本金 1 千万円、暦の販売などによる総収入 5 千 5 百万
円、印刷費や人件費などの総支出が 3 千 3 百 8 十 9 万円、差し引き利益が 2 千 2 百 2 十 1
万円と計上されている。暦冊子のほうは配布元によってそれぞれ表紙デザインが異なるが
内容は同一である。中には聖徳太子の絵がはいった仏教暦まで含まれている。
さまざまな装丁の天社土御門神道本庁昭和 33 年本暦
『造暦事業目論見経費予算書』
山本資料の中には昭和 30 年代から昭和 60 年ころにかけての「靖国暦」が、各年合わせ
ると 300 冊以上ある。またほかに大神神社の「大三輪暦」や熱田神宮の「熱田暦」、近江神
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宮の「開運暦」、住吉大社の「重宝暦」など各神社の暦もある。先生は戦前から、エリザベ
ス・アケリスの提唱した「世界暦」の普及運動を行っておられ日本暦法協会を結成して活
躍されていた時期もあるが、戦後は暦学者、各神社の編暦担当者をあつめて暦学会も創設
された。そのうえで各神社の暦編纂も請け負っておられたらしい。靖国暦の編纂原稿や、
靖国神社社務所とのやりとりの手紙も残されている。こうした活動からの事業収入も、著
書の印税のほかに重要な収入源となっていたものと思われる。いずれも東亜天文学会の運
営と天界誌の発行資金確保のための努力であった。晴明社の事業計画が予算書通りに実現
したのかどうかについては不明であるが、時期的にいって晴明社の造暦事業が後の神社暦
編纂のきっかけになった可能性はある。
山本先生は天文を教義のひとつとする三五教教祖と考え方が合って三五教天文暦算局の
担当となられ、その中央天文台にカルバー46cm 反射望遠鏡を移設されるまでになる。この
あたりの経緯については坂井義人氏の報告に詳しい(第3回天文台アーカイブプロジェク
ト報告会集録)。昭和 32 年のころはそのために先生は静岡に滞在されていたのである。そ
の直前の時期にあたる 1954 年に富士観光株式会社が伊豆半島日本平に天文台建設の相談を
先生にもちかけた資料も残されている。この計画は日本平センター天文台として 1961 年に
20cm 屈折望遠鏡とプラネタリウムをそなえた観光施設としてオープンしている。
今は別組織となっているが、三五教の創設になる月光天文台から毎年発行されるカレン
ダーは、世界一情報量の多い天文カレンダーとして人気があり、現在もかなりの発行部数
があるという。ちなみにこのカレンダーの編纂に近年たずさわっておられるのが、先生の
後輩になる古川麒一郎氏である。
(2013 年 9 月
56
冨田記)
西堀栄三郎の両極星野写真
探検家として有名な西堀栄三郎(1903 - 1989)から山本先生(1889 - 1959)にあてた一通の手
紙が残されている(資料番号 2-W1-15)。これは西堀が撮影し、『天界』に 35 年の歳月をへだてて
掲載された 2 枚の天体写真の背景を語るものである。以下、時の流れに逆行するような形になる
が、筆者が山本天文台資料の中から西堀の天体観測資料を発見・再認識していった経緯を語ろ
うと思う。
図1.西堀栄三郎から山本先生への手紙の封筒
図2.スピグラ(米国グラフィックス社製スピードグラフィック
の表裏(消印:昭和 33 年 9 月 5 日)
ス)
山本一清先生
西堀栄三郎
御手紙及び天界別刷ありがたく拝見いたしました。
まさか天界のページをさいていただけるとは思っていませんでしたので、失礼な手紙だったの
です。ただただ恐縮しています。
さて御問合せの南天の写真の件、残念ながら正確な日時を書いたものが手元にありません。多
分1957.9.20頃だったと思います。GMT の 1800 頃かと思います。
場所は昭和基地、撮ったものはわたしです。機械はスピグラ 175 ミリ f4.5、でうつしたと思います。
フィルムは SSS です。
尚、宇宙塵の件については北村泰一(京大地球物理大学院)が再び昭和基地で一年を暮すこ
とになり、彼に受持たすつもりです。彼も引受けました。
しかし具体的方法については是非山本先生の御教示をうけたいと思っています。ついては彼も
出発前とて何かと忙しいところですので、うまく日程がとれるかどうかわかりません。彼は目下小生
の自宅に寄グウしていますのでいずれ彼から直接先生に御連絡することと思います。その節に
57
はよろしく。目下彼は柿岡へ訓練に行っています。
東京都大田区調布鵜ノ木町 404
西堀栄三郎
西堀は第一次南極越冬隊長として 1957 年 2 月から翌年 2 月までの 1 年間、10 人の隊員ととも
にすごし、帰国したあと東海村の日本原子力研究所の理事の職にいた。この手紙の前にもう一通
が西堀から先生に送られてきていたのを、『天界』(第 39 巻 401 号、1958 年)の巻頭のたよりの欄
に掲載されたことのお礼の手紙である。最初の手紙はまだ見つかっていないが、天界の記事から
再録しておこう。
山本先生! おなつかしうございます。
今、石崎正子さんから送ってくださった天界 399 号を拝見しました。(次は 400 号!)もうまよなか
ですが、一筆書かずには居られません。奥様も、お元気と思います。わたしは南極で、よく星を眺
めていました。そして“Celestial Objects”上下 2 冊をもって行ったのですが、残念ながら星図を持
って行って居ながら、2 冊とも“宗谷”に居た隊員に貸したまま忘れてしまって、基地に無く、学問
的に何等しらべることは出来ませんでした。しかし、星を眺めるたびに先生御夫妻のおもかげが、
南十字星の影げにいつもうかびました。南の空は淋しいです。しかし、カノープスや、アカーナ、
センタウルのαやβなど、南の空を飾っています。月のない夜は、いやと言うほどオーロラを見ま
した。寒さも忘れて、寝まきの上に羽毛の防寒服を着たまま、何時間も空を眺めて居ました。サソ
リ座、オリオン座や、大犬座が逆になって見えるのも面白いでした。隊員は月の兎が逆に見える
と言って大さわぎをして居るのには、こちらも大笑いしました。皆様にも見せたいものだと思いまし
た。
その時、かつてわたしが若い時に(もちろん先生もお若かった)北の空の写真をうつしたことを
先生にほめられて、天界にのせていただいたことなど、思い出はつきません。そして、同じように
して南極を写した写真をここに同送します。
夏になって、基地を離れて長い犬旅行をした時は、もう星を見ることは出来ませんでした。しか
し、先生に大津の天文台(藤井さんの)でお教えいただいた天測を思い出しウィルドのトランシット
で、緯経度を測って、地図を作りました。先生より受けた教えの御恩は忘れられません。
先生は、星のようにいつまでも御健在であらせられますように、また石崎さんの研究がよき実を
結びますように、宇宙の神においのりします。
(1958 – 8 – 1) 西堀栄三郎
この手紙から西堀は若いころに天文学に興味があったらしく、大津の藤井天文台にて山本先生
から、観測の手ほどきを受けたことが知れる。先生は若き学徒の西堀を導き、生涯にわたって交
流を続けていたらしい。西堀はのちに探検家星野道夫に六文儀を用いた天測法を教えているが、
それはこのときに教わったものだろう。また、西堀が南極から帰国後、原子力研究所にいたのは、
58
越冬中の探検旅行で発見したウラニウムを含む岩石(ピッチブレンド)を原子炉の燃料として使う
考えをもっていたからだろう。山本天文台資料には、原子力関係の雑誌などの資料がたくさんあ
るが、これは西堀の縁で天文台に送られてきたものである。当時山本先生自身は、太陽熱利用に
大きな関心を持って活動をされていた。
今回の手紙の内容は彼が昭和基地で南極を中心とする日周運動を撮影した写真を送ってきた
ことを示しており、それが翌号の天界の巻頭をかざっているのである(図3)。
手紙中にある南極観測船「宗谷」は、ソ連からの発注により耐氷貨物船ボロチャベツ号として昭
和13年長崎の川南工業香焼島造船所で建造されたが、最終的にソ連に引き渡されず、日本海
軍特務艦として過酷な運命に翻弄された。戦後は引揚船、灯台補給船、南極観測船、最後に北
海の巡視船として働きつづけ、今はお台場の船の科学館に係留保存され、子供たちに親しまれ
ている。地球観測年にあわせて日本が南極観測隊を派遣することになり、海上保安庁の補給船
を急遽改造して砕氷船にしたてあげたのであった。
図3.『天界』第 402 号に掲載された西堀栄三郎が
図4.『天界』第 2 巻第 18 号に掲載された西堀栄三
昭和基地で撮影した南極のまわりの日周運動写真
郎撮影の北極まわりの日周運動写真(1922 年)
(1957 年)
西堀は探検家として写真の腕も一級だった。使っていたカメラは当時の報道陣が使っていた通
称スピグラ(スピードグラフィック)というテクニカルカメラである(図2)。これにフジフィルムの SSS を
使用していた。昭和基地の緯度は 69 度であるから、この大きいカメラをほぼ真上にむけて撮影し
59
たのであろう。9月下旬は南極の春先であるが、夜は厳寒で撮影に結構苦労したはずである。
歴史は繰り返すというのだろうかその 35 年前、西堀は設立されたばかりの天文同好会の会員と
して、撮影した北極まわりの日周運動の写真を大正 11 年の『天界』第 2 巻第 18 号に掲載してい
るのである(図4)。その時に彼が書いた文面をつぎに紹介する。
星の日週運動の写真に就いて
会員 西堀栄三郎
私が星の美しいことを知り初めたのは一般の人々の様に幼少の時からでせうが、星に関する書
物を読み始めたのは非常に新しいことなのです。それは日本の天文学者連が例の鳥島で太陽
を睨んだ時から日食に刺激されて三澤氏の「天界の現象」を熟読したのが始りで、昨年の秋故一
戸博士著「天文学」下巻の出版に会ひいよいよ天文学の一端をうかがふことになったのです。か
くて常時までは唯星をながめては、その荘厳な美を愛するだけであった私が突然星の学術的意
義を知り、為に私の研究的本能が一時に動き出してとうとう天文学と私との関係を断るに断れな
いものとしてしまいました。
私は以前から学術的の写真に趣味を持ってゐましたので天文学書中の写真を見ては何時も星
や銀河やつきや其の他様々な天体を写して見たくてならなかったのです。然しそれは装置等が
許しませんので思ひ止まらねばなりませんでした。所が唯一つ何の装置もなくて撮影のできる面
白いことを知って早速やったものがこの日週運動の写真です。
昨年の十一月末のことです。それは寒い夜でしたが、露の多い屋根にのぼり書物や色々なも
のを台にして写真器を北極付近に向けて撮影を初めました。約二時間の後撮影をやめ其の夜
直に現像をしました所が私の予期には大部分背いた原板を得たのです。それはレンズが露の見
舞をうけて星の像が一方は不明瞭になったのです。
私はこの失敗にはくぢけないでその後毎夜晴天を求めてゐましたが、思はしい夜は十二月の
末まで得られませんでした。こんどは前回の失敗に鑑みて、デゥ・カップ(レンズの前にメガホーン
の様な筒をとりつけ露を防ぐ装置)を作って撮影しました。それが今ここに出して戴きました写真
です。これは二十三日の十一時二十三分から翌日の三時五十三分まで正確に四時半の露出で
やったものです。然しこれとても決して私の希望を満足したものではありません。と言ふのは私が
夜中にシャッターを閉ぢに行った時には東天に実に立派な月がさしのぼってしまってゐたのです。
それが為小さな星の像は消されてしまひました。
私はこんなにして二枚の原板を得、その正確な円弧、微妙な線、星の光度による太細、これらを
見ては、どの星がどこに像を作って、居るかを実物と見較べ又原板から星図を作りなどして独りほ
ほえんでゐました。
こうして私は原板をいぢっている時この二枚の原板を重ねて見ると驚いたことには二枚の原板
に於て日週運動の中心である北極全く一致する筈なのに北極星に対して全く反対の側にあるで
はありませんか。即「地軸が常とは二度半もかたむいてゐた」と第一回の写真が言ってゐるので
す。これは実に有得ないことなのです。写真がうそを言ってゐるのか本当なのか?
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私はそれに就いて色々と調査して考へましたが結局わからなかったので幸、大津天文台長藤
井氏の紹介で山本先生におめにかかり其の事をお話ししたので、何時か私に解決の時が来るだ
ろうと楽しみにしてゐます。
さて斯様に趣味のある学術的な写真は何の装置も無くて何人も得られるのですから写真器を
持って居られる読者諸兄は是非撮影して研究の資料に供給せられることを切にお願いたしま
す。
尚左に撮影上の注意其他を記載します。老婆心か知れませんが。
一、 日週運動
一、 必ずデゥ・カップを使用すること、
二、月無き完全な晴夜を選ぶべきこと
三、焦点距離は最遠(通常百 )の風景を撮影する時と同様にすること
四、場所はなるべく近くに街灯なぞのない震動の少い所から撮影すべきこと
五、シボリは必ず全部開き露出時間は一時間以上長ければ長い程よりし。
六、現像は全体が黒味を帯びない程度で充分すること。
二、黄道光(此頃は実に立派なものです。是非撮影の価値があります。)
前項の外に尚左の注意をして下さい。
一、 写真器は縦にして黄道光が充分肉眼で見え出してから、黄道光の充分上方をねらう必
要があります。
二、露出時間は一時間以上二時間以下で勿論シボリは全開のこと。
まさに天体観測法をきちんと受講した学生の文章である。1922年に来日したアインシュタイン
夫妻と同行して京都を案内したのもこのころであった。非常に活動的な青年であったことが知られ
る。
それにしても 1958 年、西堀55歳、先生は亡くなる一年前の65歳である。同好の子弟というより、
友人としてながい付き合いだったのだろう。手紙が出されたのは帰国後の忙しい日々をすごすな
か、岩波新書『南極越冬記』を 7 月にようやく出版し、一息ついたころであった。ひょっとすると、西
堀の本を読んだ先生のほうがなんらかの連絡をされたのかもしれない。
このようにして西堀からの手紙が見つかったのであるが、ひょっとしたらオリジナルプリントが山本
天文台資料のなかに残されているのではないかと、天体写真のストックをもう一度丹念に調べて
みたところ、ちゃんとあったのである。スキャンした画像をつぎに示す(図5)。
写真の上から下に向かって黒い線が写っているがこれは昭和基地のアンテナの線かなにかで
あろう。南極には明るい星は無い、やや右下近傍にある明るい星がκOct 星である。下部に明る
い星が2つあり、左がβCar、右がωCar である。画面左の斜め上と斜め下にぼーっとした雲のよう
なものが写っているが、これは小マゼラン雲、大マゼラン雲である。日周運動の弧が南極にたいし
て張る角度を測ってみると約8度であるから、露出時間は 30 分である。すばらしい天体写真であ
る。
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図5.西堀栄三郎が撮影した南極日周運動のオリジナルプリント(資料番号:1-145-2)
参考文献
・西堀栄三郎、『南極越冬記』、岩波新書、1958
・桜林美佐、『奇蹟の船「宗谷」』、並木書房、2011
(2013 年 8 月 冨田記)
62
山本一清先生の著書と論文・記事
現時点で判明している山本先生の著作についてまとめてみた。著書が 58 冊、論文・記事
が 270 編である。まず山本天文台に先生ご自身の予備として保管されていた著書を中心に
作成した目録を次にしめす。著書についてはほぼ完全なリストになっているものと思われ
る。
1. 『星座の親しみ』,警醒社,1921,(天文同好会出版の縮刷版も同時出版)
2. 『天文と人生』,警醒社,1922
3. 『遊星とりどり』,警醒社,1922
4. 『星空の観察』,警醒社,1922
5. 『アインシタイン相対原理』, 警醒社,1922
6. 『星と其神秘』、大阪毎日新聞社、1922、(婦人見学叢書2)
7. 『眼に見える 星の研究』,警醒社,1922,山本一清序、吉田源治郎著
8. 『国定教科書 星の話 解説』,警醒社,1922,山本一清閲、水野千里著
9. 『宇宙建築と其居住者』,警醒社,1923
10. 『火星が来るんだ』,警醒社,1924
11. 『最近の天文学界』,大阪毎日新聞社,1924
12. 『火星の研究』,警醒社,1924,付録「火星が来るんだ」
13. 『宇宙開拓史講話』,警醒社,1925
14. 『星につながる人々』,警醒社,1926
15. 『北極星その外』,警醒社,1926
16. 『天体と宇宙』,偕成社,1926,
17. 『天文学論文集 第 1 集』,警醒社,1927
18. 『趣味の天文』,文化生活研究会,1927
19. 『標準天文読本』,みつびし書店,1927
20. 『ラジオ通俗科学講座第 1 巻』,日本放送協会関東支部,1927,共著「太陽の近状」、
「春
の星座」
21. 『宇宙の驚異』,アクメ商会,1927
22. 『万有科学大系 第一巻 天体と宇宙』,万有科学大系刊行会,1927,共著
23. 『天文の話』,1929
24. 『JOGK 講演集』,熊本放送局,1929,共著、山本「天体よりの無線通信」
25. 『小学生全集第 62 巻 天文の話・鉱物の話』,文芸春秋,1929,共著、山本一清・脇水
鉄五郎
26. 『日本児童文庫 星雲・火山と地震』,アルス,1930,共著、山本一清・今村明恒
63
27. 『標準天文学』,天文同好会,1930
28. 『初等天文学講話』,恒星社,1931
29. 『宇宙の謎』,中央公論社,1931,婦人公論大学 最新科学篇、共著
30. 『登山者の天文学』,恒星社,1932
31. 『天文学辞典』,恒星社,1933,共著
32. 『天文地文講話(ラヂオテキスト)
』,日本放送協会,1934,共著、山本一清・坪井誠太
郎
33. 『日食の話』,子供の家出版部,1936
34. 『図説天文講座(8 巻)』,恒星社,1936
35. 『山岳講座第 8 巻 山と天文常識』,共立社,1936,全 8 巻、共著
36. 『宇宙壮観 第 1~5 冊』,商務印書館,1936,陳訳
37. 『アムンゼン』,新潮社,1941
38. 『寸鉄科学』
、三省堂、1941
39. 『星座の話』,偕成社,1942
40. 『科学メモ』,科学主義工業社,1942,共著、壷井繁治
41. 『子供の天文学』,恒星社,1942
42. 『星の宇宙』,恒星社,1942
43. 『星』,晃文社,1942
44. 『科学随筆 音』,人文閣,1942,共著「写真と眼の対比」
45. 『月の話』,偕成社,1943
46. 『コペルニク評伝』,恒星社,1943
47. 『科学随筆 換気筒』,厚生閣,1943,共著、山本「涼み台」
48. 『標準天文学 新版』,恒星社厚生閣,1944
49. 『天文新話』,恒星社厚生閣,1947
50. 『海王星
発見と其の後の知識』、東亜天文学会、1947
51. 『趣味の天文学』,晃文社,1948
52. 『中学天文教室 天体観測の手引,恒星社,1950
53. 『天体観測の手引』,恒星社,1950,共著、山本、木辺ほか
54. 『星座とその伝説』,恒星社厚生閣,1955
55. 『目で見る天文学』,丸善,1955,オルタ・クレミンショウ共著、山本訳
56. 『中学天文教室 16 星の宇宙』,恒星社厚生閣,1958
57. 『48 人の天文家』,恒星社厚生閣,1959
58. 『ぼくらの博物館(12) 天体をさぐる』,ポプラ社,1963
山本一清先生は、執筆論文・記事の別刷りに通し番号をつけて封筒にいれ、第二観測室
64
二階に整理保管されていた。この論文リストはそれに基づいてつくったものである。no.1,
no.10, no.81 は未発見。それ以外に先生のリストにもれている論文・記事を 106 番目以降
に追加したが、一般向けの雑誌等に寄稿されたものはまだまだあるだろう。
1.
“Novae Lacerta ?”, (1914 年投稿)
2.
Issei Yamamoto, “Preliminary Report of the Investigation on the Nature of the
“z”-Term in the Latitude Variation”, Tokyo Sugaku-Buturigakkwai Kizi, 2nd Ser.,
vol.IX., No.17,1918
3.
I. Yamamoto, “Light-curves of several recent Novae, and some notes on the
general features thereof.”, Mem. Coll. Sci. Kyoto Imp. Univ., vol.IV, No.1, 1919
4.
I.Yamamoto, Y.Ueta, and K. Kudara, “Observations of Nova Aquilae No.3.”, Mem.
Coll. Sci. Kyoto Imp. Univ., vol. IV, No.1, 1919
5.
山本一清、「新星総覧」、天文月報、第 13 巻、第 10 号、1 – 41、1919.
6.
Issei Yamamoto and Kaname Nakamura, “Observation of Meteors Probably
connected with the Pons-Winnecke’s Comet in 1921”, Mem. Coll. Sci. Kyoto Imp.
Univ., vol. V, No. 5, 1922
7.
Issei Yamamoto, “On some relations between the Solar Constant and Solar
Activity”, Monthly Notices of R.A.S., vol. 85, No. 1, 1924.
8.
Issei Yamamoto, “Simultaneous Observations of Latitude Variation with Special
Arrangements for the Investigation of the Atmospheric Refraction Effects at
Mizusawa”, Mem. Coll. Sci. Kyoto Imp. Univ., Ser. A, vol. VI, no. 7, 1922.
9.
山本一清、「印度洋航路の日誌より」
、1925 年 3 月 25 日印刷
10.
11. 「天体と宇宙目次」(『万有科学体系 I』の目次別刷)
12. 山本一清、「日本に於ける太陽黒点観測」、天界、第 6 巻、第 63 号、1-22、1926
13. 山本一清、「ニウトンの伝」、天界、第 7 巻、第 72 号、1-42、1927
14. 山本一清、「ツアイス製のプラネタリウム」、天界、昭和 2 年五月号、1-9、1927
15. Issei Yamamoto, “Photograph of a Remarkable Meteor”, Ap. J., Vol. 66, No. 4,
329-332, 1927.
16. 山本一清、
「1927 年 11 月 10 日水星の太陽面経過観測報告」
、自然科学、第 3 巻、第 1
号、109-136、1928
17. 山本一清、「吾が父の追憶」、天界、第 81 号、1-4、1927
18. 山本一清、「台湾遠征日記」、天界、昭和 2 年 12 月号、1927
19. 山本一清、「最近の太陽活動の状況研究」、天界、昭和 2 年 2 月号、1927
20. Issei Yamamoto, “The Influence of the Heliographic Activity upon the Solar
Constant, with two Appendices”, Mem. Coll. Sci. Kyoto Imp. Univ., Ser. A, Vol. A,
No. 4, 233 – 260, 1928.
65
21. Issei Yamamoto, “Some Notes on Solar Research”, Mem. Coll. Sci. Kyoto Imp.
Univ., Ser. A, Vol. XI, No. 5, 303 – 309, 1928.
22. 山本一清、「火星の最近消息」、日本学術協会報告、第 4 巻、890-895、1928
23. 山本一清、「彗星光輝の問題」、日本学術協会報告、第 4 巻、132-134、1928
24. 山本一清、
「太陽黒点の地球に与ふる影響についての新声明」、自然科学、第 4 巻、第
1 号、179-184、1929
25. Issei Yamamoto, F.R.A.S., “A New Series of Sun-Spot Observations and its
Comparison with the Zurich Series”, Astr. J., vol. 39, No. 6, 41 – 45, 1929
26. Issei Yamamoto, “Southern Manchuria as a Possible Site for an Astronomical
Observatory”, Proc 3rd Pan-Pacific Science Congress, Tokyo, 1221 – 1222, 1926.
27. Issei Yamamoto, “On the Relation between Sun-spots and the Solar Constant”,
Proc. 3rd Pan-Pacific Science Congress, Tokyo, 1240, 1926.
28. Issei Yamamoto, “A New Series of Sun-spot Observation”, Proc. 3rd Pan-Pacific
Science Congress, Tokyo, 1241, 1926.
29. 山本一清、「スマトラ日食観測の略報告」、天界、第 101 号、1-14、1929
30. 山本一清、「有限性新宇宙論」、自然科学、第 3 巻、第 3 号、1-17、1928
31. 「花山天文台」、天界、第 103 号、1-39、1929
32. Issei Yamamoto, “General Descriptions of the Kwasan Observatory of the Kyoto
Imperial University”, Publ. Kwasan Obs., vol. 1, no. 1, 1 – 16, 1929.
33. 山本一清、「星座と星名について」、天界、第 1 巻、第 5 号、65-72、1920
34. 「化学元素の週期律表」
(講義資料か?)
35. Issei Yamamoto, “Preliminary Report of the Solar Eclipse expedition to Sumatra,
May 9 1929”, Proc. 4th Pacific Science Congress, Java, 1-2, 1929.
36. 山本一清、
「スマトラに於ける日食観測の仮報告」、日本学術協会報告、第 5 巻、11-
14、1929(札幌)
37. 山本一清訳、
「ハーロー・シャプレイ
超銀河説」、天界、第 10 巻、第 111 号、235
-243、1930
38. Issei Yamamoto, “Kwasan Observatory”, Astronomischen Gesellschaft, 60, 202-215,
1931.
39. 山本一清、「シヴァスマン彗星と流星の観測結果講評」、天界、第 10 巻、第 112 号、
267-273、1930
40. 山本一清訳、
「E.F.フロインドリヒ
フラウンホーファ線の相対論的変移に関する論証
の現状」、天界、第 10 巻、第 112 号、274-286、1930
41. 山本一清、「
『微光流星』について」、天界、第 11 巻、第 125 号、403-407、1931
42. 山本一清、「改暦問題に就いて」、京都経済会、1-8、1931 年 10 月
43. 山本一清編、
「木村栄
我国が世界学界に誇る緯度観測事業
66
水沢が世界の中央局にな
る迄」、天界、第 12 巻、第 133 号、164-170、1932
44. 山本一清、「理学史の重要性」、日本学術協会報告、第 7 巻、第 1 号、23-24、1932
45. 山本一清・小槇孝二郎、
「流星報告」
、天界、第 12 巻、第 134 号、240-245、1931
46. 山本一清、
「微光流星の研究」、日本学術協会報告、第 7 巻、第 3 号、331-334、1932
47. 山本一清、「天文研究二十五年」、天界、第 12 巻、第 138 号、326-330、1932
48. Issei Yamamoto, “Kwazan Observatory”, Astronomischen Gesellschaft, 68, 215-219,
1933.
49. 山本一清・小槇孝二郎、
「1932 年の獅子座流星群の観測」、天界、第 13 巻、第 144 号、
124-134、1933
50. 山本一清・小槇孝二郎、
「1932 年の獅子座流星群の観測(2)」、天界、第 13 巻、第
246 号、212-216、1933
51. 山本一清、「天体宇宙の話」、修養会、1-38、1933
52. 山本一清・古畑正秋、「エロスの光輝変動の観測報告」、日本学術協会報告、第 8 巻、
第 2 号、201-204、1933
53. 山本一清・中村要、
「国友能当の天文研究について」、日本学術協会報告、第 8 巻、第
2 号、302-313、1933
54. 山本一清、「昭和八年の天文界」、科学知識、第 14 巻、第 2 号、1-7、1933
55. Issei Yamamoto, “Kwasan Observatory”, Astronomischen Gesellschaft, 69, 285-294,
1934
56. 山本一清、「太平洋と天文学」、日本学術協会報告、第 9 巻、第 1 号、8-9、1934
57. 山本一清、「精密学としての天文学」
、1-25、
58. 山本一清、「北米旅行記」
、天界、1933
59. 山本一清、「太陽活動指数の比較研究(第一報)
」、日本学術協会報告、第 9 巻、第 4
号、651-656、1934
60. 山本一清、「プラネタリウム(遊星儀)」、弘文社、1-16、
61. 山本一清、「宇宙と神」、教化振興会、1-21、1935
(講演録)
62. 山本一清、
「満州国の標準時を改めよ!」、天界、第 15 巻、第 170 号、281-283、1935
63. 山本一清、「経緯度と天文学」、天界、第 15 巻、第 170 号、284-287、1935
64. 62 と同じ
65. 山本一清、
「冥王星の起原について」
、日本学術協会報告、第 10 巻、第 3 号、647-650、
1935
66. 山本一清、「久米栄左衛門と天文学」
、日本社会教育館講演記録、1-14、1935 年 12
月 18 日(講演録)
67. 山本一清、「山と天文常識」、『山岳講座』、第 8 巻、69-139、1936
68. 山本一清訳、
「F.J.M. Stratton
1934 年のヘルクレス座新星」
、天界、第 17 巻、第 190
号、133-140、1937
67
69. 山本一清、
「文化要素としての天文学を論ず」、日本学術協会報告、第 12 巻、第 3 号、
455-458、1937
70. Issei Yamamoto, “Kunitomo and his astronomical activities in the pre-Meizi era”,
ISIS, vol. 26, no. 72, 330-335, 1937
71. 山本一清、「ペルー日食観測記」、銀河、第 1 巻、第 6 号、266-278、1937
72. 山本一清、
「黄道光の諸問題」、日本学術協会報告、第 12 巻、第 4 号、487-489、1937
73. 山本一清、「1936 年 6 月 19 日の日食観測仮報告」、日本学術協会報告、第 12 巻、第
4 号、489-498、1937
74. Issei Yamamoto, “Subcommitee of Zodiacal Light, International Astronomical
Union”, 1937
75. 「山本一清
学歴」
76. 山本一清、「我国天文学振興ニ対スル予ガ態度並ビニ天文台経営計画ノ概況」
77. Issei Yamamoto, “Subcommittee of Zodiacal Light, International Astronomical
Union”, 1937
78. 山本一清、「弁明覚え書」
、1938 年 3 月
79. 山本一清、
「東亜の標準時製作を論ず」、天界、第 18 巻、第 205 号、213-217、1938
80. 山本一清、
「我が国に日光節約法を実施せよ」、天界、第 18 巻、第 206 号、1-6、1938
81.
82. 山本一清、「急ぎの欧米旅行より帰りて」、天界、第 19 巻、第 211 号、2-9、1938
83. 山本一清、「黄道光観測の過去現在並に将来」、天文、第 1 巻、第 6 号、291-298、
1938
84. 山本一清、「ストックホルム会議より見たる新天文学界(1)」、天文、第 1 巻、第 6
号、298-317、1938
85. Issei Yamamoto, “Shinzo Shinjo”, Astr. Nachr., Nr.6406, 1938
86. 山本一清、「欧米再遊日誌」、天界、第 200 号-第 215 号、1938
87. 山本一清、「東亜の標準時制」(一枚刷り地図)
88. 山本一清、「来る十月一日の皆既日食」、天界、第 20 巻、第 224 号、36-40、1939
89. 山本一清、
「来る十月一日の皆既日食(続)」、天界、第 20 巻、第 227 号、149-150、
1940
90. 山本一清、「学術と宗教」
、23-32、
91. 山本一清、「米洲行日誌(1)-(13)」、天界、
92. 山本一清、「ベツレヘムの星の解釈について」、4 ページ、1940 年 6 月
93. 山本一清、「9 月の天空だより」、湖畔の声、第 28 巻、第 9 号、近江兄弟社、1940
94. 山本一清、「アメリカに関する感想」
、?、60-69、1941 年 5 月
95. 山本一清、「今 1941 年 9 月 21 日の日食」、天界、第 21 巻、第 242 号、233-245、
1941
68
96. 山本一清、「台湾日食の効果」、天界、第 21 巻、第 246 号、361-367、1941
97. 山本一清、「ガリレオ伝」
、天界、第 22 巻、第 250~253号、1942
98. 山本一清、「田上天文台」
、天界、第 22 巻、第 252 号、175-183、1942
99. 山本一清、
「来年(1943 年)2 月 5 日の皆既日食」
、天界、第 22 巻、第 252 号、1-5、
1942
100. Issei Yamamoto, “Total Solar Eclipse of may 9, 1929”,
101. 山本一清、
「田上天文台の施設
私設天文台での私の仕事」
、科学画報、第 31 巻、第 7
号、66-69、
102. 山本一清、「近江と天文学」、天界、第 22 巻、第 254 号、243-245、1942
103. 山本一清、「中等学校に於ける天文教材論」、天界、第 22 巻、第 253~256 号、1942
104. 山本一清、「本年七月のビルマの日食」、天界、第 24 巻、第 271 号、56-58、1944
105. 山本一清訳、
「D.Alter 電波天文学の話」、天界、第 39 巻、第 395 号、53-57、1958
以降は山本先生の目録以外の論文・記事。ただし、新聞への投稿記事についてはその切
抜きがおびただしいものが保存されているが、スクラップブックなどに貼ってあっても紙
名や日付についての情報が無いものがほとんどで、調べるのが非常に困難であり、まだほ
とんど手付かずである。
106. 山本一清、「緯度ノ変化」
、東京物理学校雑誌、1914
107. 山本一清、「彗星捜索を奨む」、天文月報、第 12 巻、第 12 号、1919
108. 山本一清、「旧約の背景」
、宗教教育、第 12 号、1921
109. 山本一清、「聖誕祭の夜の空」、日曜世界、12 月号、1921
110. 山本一清、「昴と金牛」、日曜世界、1 月号、1922
111. 山本一清、「デオスクリの星」、日曜世界、2 月号、1922
112. 山本一清、「馬槽の星」、日曜世界、3 月号、1922
113. 山本一清、「獅子の星座」
、日曜世界、4 月号、1922
114. 山本一清、「乙女の星座」
、日曜世界、5 月号、1922
115. 山本一清、「正義の星座」
、日曜世界、6 月号、1922
116. 山本一清、「蝎の天象」、日曜世界、7 月号、1922
117. 山本一清、「天の勇者」、日曜世界、8 月号、1922
118. 山本一清、「山羊の星座」
、日曜世界、9 月号、1922
119. 山本一清、「尽きせぬ生命の水」、日曜世界、10 月号、1922
120. 山本一清、「二つの魚」、日曜世界、11 月号、1922
121. Issei Yamamoto, “Rare apparitions of the Zodiacal Light”, Astronomische
Nachrichten, Band 215, Nr.5144, 1922
122. Issei Yamamoto, "Observations on the Distributuions of Gravity Gradients on Tone
69
Basin", Report of the Imperial Japanease Geodetic Commission, no.III, 1923
123. Issei Yamamoto, “Astronomy in Japan”, Popular Astronomy, vol.XXXI, no.7, 1923
124. G. van Biesbroeck, O Struve, Issei Yamamoto, “Observations of Asteroids at the
Yerkes Observatory”, Astronomical Journal, vol.XXXV, no.6, 1923
125. 山本一清、
「相対性原理に就いて」、六稜科学(第六高等学校科学会)、第 15 集、1923
126. Issei Yamamoto, "Observations on the Distributions of Gravity Gradeients on
Niitsu Oil Field" Report of the Imperial Japanease Geodetic Commission, no. V,
1924
127. Issei Yamamoto, “Some Notes on Solar Research”, Popular Astronomy, vol. XXXII,
no.10, 1924
128. Issei Yamamoto, Leon Campbell, “The Long Period Variable W Hydrae”, Harvard
College Observatory Circular, no.270, 1924
129. 山本一清、山本英子、
「ボン星表中の変光星の数と型式分布について」、天界、第 4 巻、
第 47 号、1924
130. Harlow Shapley, Issei Yamamoto, Harvia H. Wilson, “The Magellanic Clouds, VII.
The Photographic Period-Luminosity Curve”, Harvard College Observatory
Circular, no.280, 1925
131. Issei Yamamoto, "Observations of Gravity-Gradients Around The Mizusawa
International Latitude Observatory", Report of the Imperial Japanease Geodetic
Commission, no. VI, 1926
132. Issei Yamamoto, "Preliminary Report of Observations of Gravity-Gradients about
Volcano Asama", Report of the Imperial Japanease Geodetic Commission, no. VII,
1926
133. 山本一清、「観測家三澤君
諏訪湖畔の太陽観測家」、科学画報、1926
134. 山本一清、「オーロラとは何ぞや」、東洋学芸雑誌、第 42 巻、第 3 号、173、1926
135. 山本一清、
「彗星発見の新記録(一)」、東洋学芸雑誌、第 42 巻、第 4 号、246、1926
136. 山本一清、「小遊星の総数と総質量について」、自然科学、第 3 冊、改造社、1926
137. 山本一清、「琴の星座」、日曜世界、8 月号、1926
138. 山本一清、「ヨブの棺」、日曜世界、9 月号、1926
139. 山本一清、「神馬ぺガス」
、日曜世界、10 月号、1926
140. 山本一清、「ヨナの大魚の星」、日曜世界、11 月具、1926
141. 山本一清、「聖ベロニカの天象」、日曜世界、4 月号、1927
142. 山本一清、「天空のヨルダン河」、日曜世界、5 月号、1927
143. 山本一清、「ヰンネッケ彗星の観測結果総勘定」
、科学画報、昭和 2 年 9 月号、1927
144. Issei Yamamoto, “Notes on Observation of an Occultation by Venus”, The Journal
of the British Astronomical Association, vol.38, no.4, 121, 1927
70
145. 山本一清、「日本に於ける天文学史」
、科学画報、昭和 2 年 11 月号、1927
146. 山本一清、「教材としての天文学」、兵庫教育、昭和 2 年 8 月号、1927
147. 山本一清、「宇宙に輝やくニウトンの功績」、朝鮮時論、8 月号、1927
148. 山本一清・村上忠敬、「月に親しむ」
、家庭の電気、第 8 巻第 9 号、
149. Issei Yamamoto, “Some Notes on Solar Research”, Mem. Coll. Sci. Kyoto Imperial
University, Ser.A, vol.XI, no.5, 1928
150. Issei Yamamoto, “New minor Planet 1928 QM”, Astronomical Nachrichten,
nr.5595, 1928
151. Issei Yamamoto, “Occultation of Mars by the Moon on 10th August, 1928”, The
Journal of the British Astronomical Association, vol. 39, no.2, 55, 1928
152. Issei Yamamoto, “Note on statistics of variable stars”, Astronomical Nachrichten,
nr.5596, 1928
153. Issei Yamamoto, “Komet 1928b (Forbes)”, Astronomical Nachrichten, nr.5608,1928
154. Issei Yamamoto, “A Remarkable Variation in Zodiacal Light”, Astronomical
Nachrichten, nr.5684, 1929
155. 山本一清、「虹は七色-何故?」、虹、第 83 号、児童講演社、1928
156. 山本一清、「
『1927 年 11 月 10 日水星の太陽面経過』観測報告」、自然科学、第 3 巻、
第 1 号、1928
157. Yamamoto-Issei,
“Sigwatu
no
Sora”,Romazi
Sekai,
4-gwatu,
10 - 11 、
Nippon-no-Romazi-Sya, 1928
158. 山本一清、「子供に Romazi を教へよ」、Nippon no Romazi、2、日本のローマ字社
159. 山本一清、「日食観測と学術鍵へ」、婦人の友、第 25 巻、1929
160. 山本一清、「宇宙論」、大思想エンサイクロペデア、春秋社、1929
161. 山本一清、「スマトラの日食観測記(一)―(四)」、理学界、第 27 巻、1929
162. 山本一清、「名家一言集、山本一清」
、キング、第 15 巻、第 11 号、1929
163. 山本一清、「天文学のこと
教養としてみた」、関西学院新聞、昭和 15 年 2 月 20 日
164. 山本一清、「皆既日食観測の旅」、婦人の友、昭和 5 年 4 月号、1930
165. 山本一清、「シヴァスマン彗星と流星の観測」、科学知識、昭和 5 年 8 月号、1930
166. 山本一清、「
『時』と宇宙」、
、大阪毎日新聞社、1930
167. 山本一清、「
「エロス」来る」、天界、第 11 巻、第 115 号、1930
168. 山本一清、「太陽系の未知星」、岡山県之社会事業、第 1 巻、第 2 号、
169. 山本一清、「日時計」、婦人の友、昭和 6 年 1 月号、1931
170. 山本一清、
「これぞ時代星
この三十一日を目ざしエロス遊星は近づく
た彼女のイツト」、サンデー毎日、昭和 6 年 1 月 25 日号、1931
171. 山本一清、「最近の天文思想」、大阪銀行通信録、第 405 号、1931
172. 山本一清、「最近の天文界」、文芸春秋、第 9 巻、第 1 号、1931
71
学界を魅了し
173. 山本一清、「宇宙の謎」、婦人公論大学
最新科学篇、21-84、中央公論社、1931
174. 山本一清、「暦と其の改正案」、学暦研究、第 10 巻、第 8 号、1931
175. Yamamoto-Issei, “Asteroid “Eros””, Romazi Sekai, 21kan, 21go, 1931
176. Yamamoto-Issei, “Atarasii Hosi “Pluto” no Hanasi”, Romazi Sekai, 21kan, 4go,
1931
177. 山本一清、「木星来る」、理科教育、第 15 巻、1 月号、1932
178. 山本一清、「全世界の天文学の権威を集むる九月一日の皆既日食」、科学知識、昭和 7
年 9 月号、1932
179. C.G.アボト、山本一清訳、「天気は太陽変動に支配される」
、科学知識、昭和 7 年 12
月号、1932
180. 山本一清、「冥王星の発見物語」、改造、
、1932
181. 山本一清、「余程可笑く見える天文台の生活
だが、ここにも電気はある」、家庭の電
気、第 8 巻、第 7 号、1932
182. 山本一清、「天体問答(宇宙の神秘)
」、修養、第 32 号、1932
183. 山本一清、「此の頃の自分」、時報、京都帝国大学基督教青年会、no.3,1933
184. 山本一清、「北斗と其の子星」、湖畔の声、第
巻、第 2 号、1933
185. 山本一清、「星の光とシカゴ博覧会」
、湖畔の声、第
巻、第 8 号、1933
186. 山本一清、「生活としての福音宣揚」
、松江聖公会説教梗概、1933
187. 山本一清、「冥王星の発見者を訪ねて」、湖畔の声、第 22 巻、第 1 号、湖声社、1934
188. 山本一清、「今日の学生YM界を顧みて」、時報、昭和 9 年第 2 号、1934
189. 山本一清、「天災克服の道」、更生農民講座、1934
190. 山本一清、「二大遊星の掩蔽観測」、図解科学、昭和 9 年 2 月号、1934
191. 山本一清、「長期天気予報の新光明(こんどの冬は寒いとの説について)」、中央公論、
192. 山本一清、「宇宙と神」、鉄道青年、1935
193. 山本一清、「経緯度と天文学―倉敷天文台第八周年記念式に於て-」、倉敷照合校友会
誌、第 15 号、1935
194. 山本一清、「吾が将来のプログラム」
、開拓者、昭和 10 年 1 月号、1935
195. 山本一清、「他の宇宙系の話」、科学画報、
196. 山本一清、「天文学的数字の話」、科学知識、、84-87、
197. 山本一清、「天上の星の話」、人道、第 28 号、1935
198. 山本一清、「巻頭言」、時報、京都帝国大学基督教青年会、no.1, 1935
199. 山本一清、「聖書を研究しよう」、時報、昭和 11 年第 1 号、1936
200. 山本一清、
「オムスクに於ける日食観測」、科学知識、第 16 巻、第 8 号、12-16、1936
201. 山本一清、「太陽」、婦人の友、昭和 11 年 1 月号、1936
202. 山本一清、「日食と現代天文学」、高野山時報、第 781 号、34-49、1936
203. 山本一清、「日食を求めてオムスクへ」、改造、昭和 11 年 8 月号、144-150、1936
72
204. 山本一清、「日食問答」、科学画報、昭和 11 年 6 月号、1936
205. 山本一清、「太陽の研究と人生」、科学画報、昭和 11 年 7 月号、1936
206. I.Y生、「聖公会神学院氏訪問記」
、福音新報、昭和 11 年 10 月 1 日号、1936
207. Issei Yamamoto, “Observations of the Solar Eclipse of June 8, 1937”, Nature,
vol.140, no.3542, 501, 1937
208. 山本一清、「座談会『節操』を語る」
、婦人の友、昭和 12 年 3 月号、1937
209. 山本一清、「ペルー日食観測記」、銀河、第 1 巻、第 6 号、1937
210. 山本一清、
「ストックホルム会議より見たる新天文学界(2) 変星学の進展」、天文、
第 2 巻、第 1 号、28-40、193
211. 山本一清、
「太陽黒点から地球への影響」、サービス、第 8 巻、第 4 号、28-55、大阪
市電気局電燈部、1938
212. 山本一清、「日光節約法とは何か」、科学知識、第 18 巻、第 6 号、1938
213. 山本一清、「日本と日本語への愛」、文芸春秋、昭和 13 年 6 月号、1938
214. 山本一清、「昔の児童の教科書」、子供の教養、第 10 巻、第 6 号、14-15、1938
215. 山本一清、「百年前の汽車時間表」、子供の教養、第 10 巻、第 11 号、5、1938
216. 山本一清、「暦は此の儘で好いか?」
、政界往来、昭和 13 年 5 月号、1938
217. 山本一清、
「国際天文同盟第三回総会から帰って」、科学知識、第 18 巻、第 11 号、1938
218. 山本一清、
「渦動の欧米を行く
国際天文同盟総会より帰朝の山本一清博士を囲みて」、
科学知識、第 18 巻、第 12 号、1938
219. 山本一清、「理学と宗教に関する感想」、新興基督教、第 110 号、20-21、1939
220. 山本一清、
「わが軍、官権と協力して
先づ日本人を誨へよ-宗教家の任務につき栗山
氏へ―」、中外日報、昭和 14 年 7 月 14 日
221. 山本一清、「火星を見送りつゝ」、婦人の友、第 33 巻、第 9 号、1939
222. 山本一清、「日本国民に挑む」、政界往来、第 10 巻、第 9 号、1939
223. 山本一清、「素人天文家に就て」、科学ペン、昭和 14 年 10 月号、1939
224. 山本一清、「観測界うらおもて談義(一)」、科学ペン、昭和 14 年 11 月号、1939
225. 山本一清、「玄人と素人」
、文芸春秋、第 17 巻、第 17 号、1939
226. 山本一清、「名家一言集、山本一清」
、キング、昭和 15 年 1 月号、1940
227. 山本一清、「誠実の世の中に」、キング、昭和 15 年 4 月号、1940
228. 山本一清、「
『海外之日本』に望む一つ二つ」、海外之日本、昭和 15 年 1 月号、1940
229. 山本一清、「木星土星とベツレヘムの星」、湖畔の声、第 28 巻、第 8 号、1940
230. 山本一清、「ベツレヘムの星の解釈について」、神学研究、第 31 巻第 4 号、1940
231. 山本一清、「本年十月の日食」、科学知識、8 月号、1940
232. 山本一清、「今日の天体宇宙観」、理想、昭和 15 年 8 月号、1940
233. 山本一清、「静夜の栄光
月の暈」、湖畔の声、第 28 巻、第 9 号、近江兄弟社、1940
234. 山本一清、「9 月の天空だより」、湖畔の声、第 28 巻、第 9 号、近江兄弟社、1940
73
235. 山本一清、「火星世界に関する新知識」、科学画報、昭和 15 年 9 月号、1940
236. 山本一清、「ベツレヘムの星現はる?」、基督教家庭新聞、第 33 巻、第 9 号、1940
237. Issei Yamamoto, “Observation of occultation of Venus by the Moon”, Beobachtungs
-Zirkular der Astronomischen Nachrichten, Nr.16, 1940
238. Issei Yamamoto, “Observation of Mercury transit on November 11, 1940”,
Beobachtungs-Zirkular der Astronomischen Nachrichten, Nr.1, 1941
239. 山本一清、「理学の温床は?」、科学人、昭和 16 年 6 月号、1941
240. 山本一清、「アメリカに関する感想」
、理想、第 122 号(7 月号)、1941
241. 山本一清、「日食の話」、実業之日本、第 44 巻、第 18 号、1941
242. 山本一清、「原始人を探る」、週刊朝日、昭和 16 年 6 月 29 日号、1941
243. 山本一清、「海外の友」、科学ペン、第 6 巻、第 10 号、1941
244. 山本一清、「恒星の回転分裂から生れた太陽系の誕生:分裂は他の星の接近による」、
東京物理学校雑誌、第 50 巻、第 10 号、1941
245. 山本一清、「暦と人生」、蛍雪時代、第 11 巻、第 29 号、1942
246. 山本一清、「星・北斗・南斗(天体の観察)」、保育、第 63 号、1942
247. 山本一清、「地球は生きてゐる」、母乃光、第 51 号、1942、基督教保育連盟
248. 山本一清、「日本語と日本文について」、学鐙、第 46 巻、三月号、1942
249. 山本一清、「迷信について」、西日本、第 11 巻、第 11 号、1942
250. 山本一清、「登山者の天文訓」、登山講座、第 2 巻、山と渓谷社、1942
251. 山本一清、「航海と天文」
、海、第 12 巻、第 11 号、1942、大阪商船
252. 山本一清、「夏の赤星」、のびゆくこども、高桐書院、1943
253. 山本一清、「天文学的数字の話」、科学知識、第 23 巻、第 1 号、1943
254. 山本一清、「地球の誕生」
、登山講座、第 6 巻、1943
255. 山本一清、「希望と目標」
、新文化、第 2 号、1946
256. 山本一清、「こよみの効用」、湖畔文化、第 10 号、近江兄弟社図書館、1947
257. 山本一清、「時局への感想」、松籟、創刊号、彦根工業専門学校、1947
258. 山本一清、「星に名を付ける」、湖畔文化、第 19 号、近江兄弟社図書館、1948
259. 山本一清、「皆既日食と金環食」、中部日本新聞、S24 年 4 月 19 日
260. 山本一清、「村の天文台」
、旅、第 25 巻、第 6 号、28-30、1949
261. 山本一清、
「社会見学
天文台」、大阪中央放送局台本、昭和 25 年 7 月 28 日午後 6 時
30 分第二放送、1950
262. 山本一清、「天文学の初等教育」、天文と気象、4 月号、1951
263. 山本一清、「ラジオ絵葉書
私のふるさと」、大阪中央放送局台本、昭和 26 年 9 月 4
日午後 10 時 55 分第一放送、1951
264. 山本一清、
「月世界の探検―今や月への飛翔も夢ではない―」、旅、第 26 巻、第 11 号、
32-34、1952
74
265. 山本一清、「火星近づく」
、麗園、第 78 号、東洋レーヨン滋賀工場、1954
266. 山本一清、「わけのわからぬ一事」、事務と経営、2 月号、22、1954
267. 山本一清、「近江の天文算数家」、滋賀公論、5 月号、6-7、1954
268. 山本一清、「宇宙の庭『地球』」、淡交、7 月号、49-51、1954
269. 山本一清、「太陽と黒点」
、東洋レーヨン教養講座集、8 月号、33-35、1954
270. 山本一清、「本当の科学は奇蹟を否定するのではない」、青年バプテスト、第 6 巻第 3
号、10-12、ヨルダン社、1958
(2013 年 9 月現在
75
冨田記)