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Invited Article
CHROMATOGRAPHY, Vol.33 No.3 (2012)
Invited Article
安全・安心な社会を目指して
北野
大
Towards the Establishment of Safety and Security based Society
Masaru Kitano
Graduate School of Science and Technology, Meiji University
1−1−1 Higashimita, Tama−ku, Kawasaki, Kanagawa
Abstract
In the 20th century, we tried to establish our society to be safety. In the 21st century, sense of security must be added to the safety. What is the
difference between safety and sense of security? Former is objective, on the other hand later is subjective. Risk communication is a bridge
which connects these two concepts. The most important issue to be considered in risk communication is trust. Without trust, risk communication does not work among participants.
Keywords: safety, sense of security, risk, trust, risk communication
五陰盛苦(五蘊盛苦)の四苦を合わせたものです。五蘊(ご
1.初めに
うん)とは色、受、想、行、識の総称で物質と精神との諸要
20世紀は安全を求めた世紀でした。たとえば残留農薬の安
全であり、食品添加物の安全でした。一方、21世紀は安全・
素を収 め る も の で、(1)色(し き、物 質 及 び 肉 体)、(2)受
安心な世紀にすることが求められています。本稿では安全、
(じゅ、感受作用)、(3)想(表象作用)、(4)行(ぎょう、意
安心の相違、安全学の考え方、安全と安心を結ぶ役割である
志・記憶)、(5)識(しき、認識作用・意識)を意味します。
リスクコミュニケーションについて述べることにします。
すなわち五蘊が盛んに活動している、つまり生きているだけ
で苦しみが盛んにおこってくることを言います。失礼です
が、広辞苑の説明ですと、私たちは生きている限り安心はな
2.安全、安心とは
いことになりましょう。
平成18年3月28日閣議決定された第2期科学技術基本計画
では21世紀初頭にわが国が目指すべき国の姿として「安全が
ISO/IEC ガイド51では「安全とは受け入れ不可能なリスク
確保され、人々が安心して心豊かに、質の高い生活を営むこ
がないこと」、また JIS Z 8115では「安全とは人への危害ま
とのできる国」としています。
たは資材の損傷の可能性が、許容可能な水準に抑えられてい
安全、安心ですが、広辞苑、第6版では、安全とは「安ら
る状態」と定義しています。これらの定義ではどこまでが受
かで危険のないこと。平穏無事。物事が損傷したり、危害を
け入れ不可能なのか、または許容可能なのかは明示されてい
受けたりするおそれのないこと。
」安心とは「心配・不安が
ません。一方、安心ですがこれは「人が知識・経験を通じて
なくて、心が安らぐこと。
」と説明しています。四苦八苦と
予測している状況と大きく異なる状況とならないと信じてい
いう言葉をご存知と思いますが、これは仏教での人生の4種
ること、また自分が予想していないことは起きないと信じ、
の苦痛(生、老、病、死)と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、
何かあったとしても受容できると信じていること」といえま
明治大学大学院
理工学研究科
新領域創造専攻
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がるという考え方です。
す。
どちらのモデルが合致するかですが、対象となるリスクに
結論としては「安全(safety)とはその時点、時点におい
て科学技術に裏づけされた客観的なもの、また、安心(sense
対し、
of
1)関心が高い場合
security)とは自らの理解と納得に基づく主観的なもの」
SVS モデル……主要価値の類似性評価が相手への信頼
といえます。参考までに括弧の中に英訳を入れておきまし
に導く、能力や意図の評価の影響は比較的小さい
た。日本語の安心という意味の言葉は英語には無いようで
2)関心が低い場合
す。
伝統的信頼モデル……能力評価や意図評価が相手への信
さて、「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に
頼性につながる
関する懇談会」では2004年4月に安全・安心な社会として
といわれています。
1)リスクを極小化し、顕在化したリスクに対し持ちこたえ
なお、リスクとは単なる受動的な危険ではなく勇気を持っ
られる社会
2)動的かつ国際的な対応ができる社会
て試みる、行為者がみずから危険を認知しつつ敢えて臨む危
3)安全に対する個人の意識が醸成されている社会
険であり、リスクの意味する危険は可能性としての危険で、
4)信頼により安全を人々の安心へと繋げられる社会
人間が利を求めることの代償としての危険を意味します。
5)安全・安心な社会に向けた施策の正負両面を考慮し合理
4.安全学の考え方
的に判断できる社会
を、挙げています。著者はこの中で特に4)について重要と
機械は故障するもの、人は過ちを犯すもの、人は規則を守
考えています。リスクコミュニケーションの役割りはまさに
らないもの、人は事故を忘れるものという前提でまず考えま
安全と安心の架け橋であり、リスクコミュニケーションこそ
す。そして事故の原因を人間(Man、作業者の注意、訓練で
信頼の醸成につながると考えるからです。安全、安心、信頼
安全を守る)
、機械(Machine、設備、構造で安全を守る)
、
は下記の式で示せましょう。
環境・媒体(Media、温度、湿度、振動などの 管 理)
、管理
(Management、システムの問題点を把握、対策の決定)、上
安全×信頼=安心
記の4つの M から解析します。
すなわち、信頼がなければ安全は安心につながらないとい
機械や装置の設計については次の3ステップメッソドを取
うことです。
ります。
第1ステップ:本質的安全設計
3.信頼とは
信頼とはなんでしょうか。中谷内(2008)によりますと、
設計、製造などの段階で危険源が初めから無いように作
「相手の行為が自分にとって否定的な帰結をもたらしうる不
るか、エネルギーやスピードを、下げて危険源のリスクの
度合いを低減
確実性がある状況で、それでもそのようなことは起こらない
だろうと期待し、相手の判断や意思決定に任せておこうとす
第2ステップ:残るリスクの大きさに合わせた安全装置
る心理的な状態、つまり相手に対する監視や、裏切り行為に
第3ステップ:警告ラベルや取扱説明書の配布
対する制裁を準備することで、否定的な帰結をもたらさない
です。
大事なことはまず本質的安全設計を試み、次に安全装置、
であろうと期待することは信頼ではない」としています。
V. Covello の研究(伝統的信頼モデル)によりますと、1)
最後に残余リスクについては警告、ラベルなどを用いること
共感と配慮、2)能力と専門知識、3)誠実さとオープンな
です。この順番が特に大事であることに注意をする必要があ
態度、4)ひたむきな態度と真剣な取り組みが信頼に結び付
ります。
なお fail safe と fault tolerance という言葉がありますがフェ
くとしています。
イルセーフとは直接に安全性を目標とするもので、たとえば
すなわち
機械が故障しても安全だけは確保するという考え方です。一
(1)能力への信頼と(2)意図への信頼の両者が一般的信頼に
方、フォールトトレランスとは、信頼性の向上を目標とした
結びつくという考え方です。
一方、最近の中谷内らの研究によりますと、人は相手の持
考え方で A が壊れたら B でカバー、B が壊れた ら C で カ
つ主要価値(具体的には問題の捉え方、重視する項目、結果
バーの多重系により信頼度を上げ、安全性を確保するという
の選び方など)が自分の主要価値と類似していると認知する
方法です。ちなみに昨年の福島原発事故の最大の問題点は原
とき、その相手を信頼すると言われています。これは Salient
子力発電システムが基本的にフェイルセーフになっておら
Value Similarity(SVS モデル)と呼ばれています。たとえば、
ず、フォールトトレランスで対処しようとしたところにあり
遺伝子組み換え作物の例で述べますと、この問題を1)社会
ます。
的必要性、2)技術的安全性、3)倫理的側面のどのような
フレームで捉えるかといった主要価値観の同一が信頼につな
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Masaru.Kitano
どの高度な科学技術問題があります。
5.リスクコミュニケーション
先に述べたようにリスクとは「危険に遭遇する可能性」
5−3
を、Communis とはラテン語で共有するという意味です。
リスクの認知
したがって米国の National Research Council,1989はリスク
認知のギャップが存在するとコミュニケーションが成り立
コミュニケーションを「リスクについての、個人、機関、集
たず、したがって、問題解決が遅れ、社会が解決法を受け入
団間での情報や意見のやり取りの相互作用的過程」と定義し
れない恐れがあります。また利害関係者間での信頼の確立が
ています。
できないことが問題です。一方、認知ギャップが無くなれば
情報量と信頼度は比例すると考えられます。
5−1
Covello によりますと、我々はリスクを次の3つの因子が
リスクコミュニケーションを実施する意義
組み合わさってイメージを形成すると言われています。これ
リスクコミュニケーションを実施することで、
1)民主的な意思決定の支援が可能となること
らは1)恐ろしさ因子(dread)、2)未知性因子(unknown)
2)公益の確実な考慮がなされること
および、3)災害規模因子(number of people involved)です。
また、フレーミング効果といって、生きるというポジティ
3)よりよい意思決定のために必要な理解の深化が可能にな
ブな面を強調するか、死ぬというネガティブな面を強調する
ること
4)意思決定の基礎となる知見の改善が期待されること
かで人々の判断が変化します。本来は両者同じであるべきで
5)意思決定にかかる時間と費用の節約の可能性があること
すが、たとえばツベルスキー&カーネマンの研究,1981によ
6)リスク管理担当機関への信頼性の向上が期待できること
りますと、
7)より受け入れやすく、より容易な実行可能なリスク管理
(問) 末期がんの患者に「新しい技術で手術すれば成功確率
70%で完治します」。と伝える場合と、「新しい技術で手
の意思決定に導くことが考えられること
術すれば失敗確率30%で死亡します」と伝える場合で、
などがいわれております。
手術を受けようとする患者の割合が前者では90%以上で
また、
あるのに対し後者では40%にとどまったという報告があ
1)自分たちの生活に直接の影響を及ぼす問題について判断
ります。
を下す権利
これまでをまとめますと、リスクコミュニケーションとは
2)地域社会からのインプットがよりよい決定をもたらす可
1)単なる情報提供ではないこと――これはリスクメッセー
能性
ジの伝達にすぎない
3)プロセスへの参加を通じ、リスクへのより良い理解と適
2)合意に達することが目標ではないこと――合意を目的と
切な対応の可能性
すると説得になる
4)協力による信頼感の醸成
なども期待され、したがって可能な限り早い段階から地域社
3)平時から常に行なっておくべき
会に関与させること(early involvement)が大切であり、こ
であり、最も大切なことは相互の信頼の確立です。信頼につ
の場合、参加する人々の役割を明確にするとともに必ずしも
いてはすでに述べましたが、信頼を構築するには
人々には限られた権限しか与えられないことを徹底する必要
1)リスクメッセージに対する信頼がまずあります。これに
があります。得てしてリスクコミュニケーションを実施すれ
は相手がすでに理解している言葉や概念を用いた分かり
ば、地域住民の意見がすべて通るという誤解や過大な期待が
やすい表現が重要です。難しいことをいかに正確さを失
わずに易しく表現するかが問われます。
ありますので。
2)担当者への信頼には利害関係者の話に耳を傾け、発言の
5−2
機会を与え共感する姿勢を持つ人間性が問われます。
リスクコミュニケーションの領域
3)参加プロセスに対する信頼としては手続きの透明性と早
1)個人的選択領域(あるリスクを回避するか、受け入れる
期の参加があり、最後に
かどうかは個人の判断であり、これらには健康・医療問
題(インフォームドコンセント)
、喫煙や消費生活用品
4)組織への信頼
の選択などがあり、合意や判断は比較的容易といえま
もまた問われます。
す。一方、
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2)社会的論争領域ではあるリスク回避するか、受け入れる
専門家の問題点
かどうかは公なルートを通しての社会の判断となり、合
リスクコミュニケーションでは当事者のみでなく専門家と
意を得るのはかなり困難といえます。なぜならば、多数
いわれる第3者が通常参加し、中立的な立場で専門的知識を
の利害関係者の存在、異なる価値観や利害の相反などが
伝え、当事者相互の理解を促進する役割を持ちます。
生じるからです。具体的にはこの領域に入るテーマとし
専門家の問題点としては
(1)素人は理解できないという先
ては原子力、GMO(遺伝子組み換え作物)、環境問題な
入観を持ち、素人のニーズに合った情報を用意しないこと、
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その理由として
素人が理解できない表現をする場合があります。また(2)自
1)リスクコミュニケーションを実施することへの事業者の
我の強さも問題です。これらには自らは常に正しいという強
糾弾されるという恐怖感
すぎる信念、ほかの専門家の意見を取り入れない態度、素人
2)リスクコミュニケーションの意義に対する企業トップの
の意見に耳を貸さない態度です。これらの専門家はかえって
リスクコミュニケーションの目的である相互理解を傷つける
できればやりたくない、無駄な労力だという無理解
ものになりかねません。最後に、米国環境保護庁(EPA)の
3)リスクコミュニケーションですべてが解決すると思う住
「リスクコミュニケーションに関する7つの重要な規則」を
民の過大な期待と満足感が得られないことへの不満があ
紹介します。これらは、
り、これらがリスクコミュニケーションへ忌避感、無力
1)地域住民をパートナーとし、連携せよ
感につながったものと思います。しかし、著者が専門家
2)方法論を注意深く立案、評価せよ
またはファシリテーターとしてかかわったリスクコミュ
3)人々の声に耳を傾けよ
ニケーションでは、すべての事業者が、リスクコミュニ
4)正直、率直、オープンであれ
ケーションを実施してよかったと述べて、実施する前の
5)他の信頼出来る機関と協調、協働せよ
心配は杞憂であったということです。
6)メディアの要望に答えよ
6.終わりに
7)いたわりの気持ちを持って、明瞭に話せ
安全、安心及びリスクコミュニケーションついて述べてき
何れも信頼に結び付いていることが分かります。
ました。21世紀を真の安全・安心な社会にするため、今後当
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事者間でのリスクコミュニケーションをさらに活性化し、国
なぜ、日本ではリスクコミュニケーションの実施が
民各位の参加が大切と考えています。本稿の執筆に当たって
少ないのか
PRTR 法(化学物質管理促進法)の施行以来、地域住民と
は、特に引用は付けておりませんが、多くの先人の著作など
事業者の間でのリスクコミュニケーションが多く持たれるで
を参考とさせていただきました。改めてここに感謝申し上げ
あろうと著者らは予測しましたが、必ずしもそのようになっ
ます。
てはいません。
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