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うみ 湖 に 育 った鳥 人 たち 春はみず面 に秀麗 な影を落 した近江富士 。夏は 瀬田の唐橋を漕ぎい出す エ イ ト・ フォアーの競走 艇 。秋は もみぢ葉舞 う堅田の浮御堂 。冬は白雪 を いただ く比良 、比叡の峨 々たる山なみ と、四季 そ れぞれの美 しい風景 には ぐくまれ、育て られた若 鳥達が或 る日決然 として飛び立 った。 今 、彼等は何を思 い、何処 の梢 に翼を休 めてい ることであろう。 かつて雄 々 しく、荒 々 しく波立 った琵琶の うみ も、岸辺 に立 って遥か に三上 山を望み 、ユ タユ タ と打寄せ るさざ波に浮ぶ水鳥の姿を見 るとき、母 の懐 に抱かれたぬ くもりにも似た永遠の安 らぎを 覚えないではい られない。 琵琶湖は今 も我 々の心 の故郷 である。 九〇式初歩練 習機 5J 思い出の写真集 54 湖 に育 った鳥人 たち J5 ` ″ 天虎訓練所 敬礼 魏 大空 に思 いをはせ て (納 屋嘉治氏提供 ) ∫ ` 湖 に育 った鳥人 たち いざ飛 ばん ″ 同大教練 査閲 空 中参加者 の 出発 (昭 和18年 11月 天虎訓練所 惨 灯 綺 ) 第一期 。第二 期 全員集合 (昭 和18年 12月 ) ζノ 海洋 部小 史 昭和 5年 4月 28日 日本学生航 空連盟創立 (朝 日新 聞社後援 )。 昭和 6年 7月 28日 同 昭和 8年 12月 6日 海軍航 空予備学生制度新設方 針決 ま る(大 臣決裁 )。 昭和 9年 勅 令 第 293号 に基 づ き、海 軍省令第 11号 を以て制度 が新 設 上 。財団法人設立許可 。 され た。 昭和 9年 6月 1日 団 日本学生航 空連盟 内 に海洋部 を設置 (航 空本部後 援 )。 昭和 9年 7月 10日 日本学 生航 空連盟海洋部 の発会 式 が羽 田飛行場で行 われ 、 教育 を開始 した。 昭和 10年 11月 航 空 関係 海軍予備士官 の補 習教育 を併 せ 行 う。 昭和 11年 7月 10日 日本 学 生航 空連盟海洋部 を廃 し、海軍航 空予備学生志願者 の準備教育 を行 う ことを 目的 と して新 た に聞 学生 海洋飛行 団が設立 され た。 関東 。関西 の 2支 部 が設 け られ 、関東支部 は羽 田の海洋部 を その まま引継 ぎ教育 を開始 した : 昭和 11年 10月 19日 関西 支部 は第 1年 団員 20名 の募集 を始 め る。 昭和 12年 3月 関東 支部 (羽 田)、 関西支部 (大 津 )施 設 工 事竣 工 。 昭和 12年 4月 5日 関西 支部 、琵 琶湖畔下坂本村 際川 で教育 開始 。 昭和 12年 9月 15日 海軍予備航 空団 と名称 を変更 、関 東 支部 を東京支部 に、関 西支部 を大津支部 と改称 した。 昭和 16年 5月 海軍予備航 空団閉鎖 。 昭和 18年 5月 天虎訓練所 開所 (大 津市馬場里 中40)。 第 一期生訓 練 開始 。 昭和 18年 11月 」∂ 湖 に育 った鳥人 たち 第 二 期生訓練 開始 。 予備 学 生 一 覧 表 (塔 乗員のみ) 水交 編 集 部 資 料 に よ る 期別 日本 学 生 航 空 連 盟 海 洋 部 の卒 業 者 1 採用員数 入隊年 月 日 日 召不日9.11 10 5 1 3 11 学生海洋飛行 団 の卒業者 4 海軍予備航空 団 の卒業者 (大 津 支部 は6期 か ら) 5 17 1 12. 4.12 12 6 5 13. 4.15 19 9 6 14. 4. 7 15 4.15 9 10 4 17 17. 9.30 17 9.30 18.12. 1 9 30 ::}98 橿 曇 4,726 1 )(1)採 用員数 は、昭和 19年 以後卒業 と同時 に充員召集 を受 た。 Q0 17 言 十 卒業後一 旦 社会 に 出た後 、充員 召集 を受 けた。 1 17. 6.20 19 事 44 239 11 言己 10 4 8 (註 戦死殉 職 0 6 2 学徒動 員令 によ り海兵 団 に入団 後志願 によ り採 用 卒業員数 }8,182 1,954 2,278 1,854 8,980 1,535 2,043 2月 海軍省 人事局 の調査 によ る。 (2)卒 業員数 は、白鴎会発行 の「 雲流 るる果 にJに よ る。 (3)昭 和 17年 にお け る採 用員数 (239名 )は 、卒業員数 (278名 )よ り少 いが 、その理 由は不 明。 5, 南方秘話 ヽ ′ 」 原 博 41年 前 、昭 和 20年 2月 16日 は、米軍機動部 隊が た。 あ る 日異様 な もの を塔載 して い るの に気付 い 関東方面 に飛来 した 日で あ る。北浦 空 もグ ラマ ン たので 、その艦 を訪 ねて みた と ころ、見張 り用 の F6Fの 反復攻 撃 を うけた。かねて 空襲 に備 えて 1人 乗 り飛行凧 だ った。写 真、取扱説 明書 、用法 練 習機 は湖 畔 に分散配置 して あ った。 当 日は全機 、 な どの資 料 一式 は、北浦空着任後 直 ちに空技廠 に 琵琶湖 に移動 さす準備 を進 めて いたや さきの こ と 持 ち こん だ。潜 水艦 に曳航 されて浮上 す るヘ リコ で あ る。手持 の 2式 水戦 2機 を上空 に上 げ、滑走 プ ター式 グ ライダ ーで あ った 。 台 の指揮所で指揮 中、 ロケ ッ ト弾 を浴 びた。腹部 盲貫爆 弾 々片倉1、 腸損傷 で 霞浦海軍病 院 に運 ばれ 、 昭和 16年 1月 、対米戦 に備 え 19空 が開隊 され 、 マ ー シ ャル群 島 ヤ ル ー ト環礁 の イメー ジ島 に進 出 腸30セ ンチを切 除 した。 す る こ とにな った 。 この とき以来 、零式 三座 水上 偵察機 に塔乗 す る こ とにな った 。 クエゼ リン、 ウ 当時 、北浦空 で は、第 14期 飛行 専修 予備学生水 オ ツゼ、 ミレな どへ 飛 んで 基地調査 に従事 した。 上機 班 110名 の 操 縦 訓 練 を行 って いた 。慶応 出身 イメ ー ジ島へ は 司令 の要 望で 、 ロー ラカナ リヤ の 同期が分 隊長 を して い たが 、 昭和 19年 9月 末 、 マ レー半 島 の 西岸 ペ ナ ン島 で彼 と交代 、 引継 ぎ、 10月 1日 北浦 に着任 した。 ペ ナ ン島 は、潜 水艦 によ る 日独連 絡航路 の 拠点 5つ が いを親戚 か ら貰 い持参 した。 昭和 16年 9月 末 、離 島す る頃 には、大 いに繁殖 していて美声で さえず り続 けて い た。最近 、イメ ー ジ島守備 隊 の戦記 が 出版 され たよ うな ので 、 ロー ラカナ リヤの消息 を尋 ねたい と思 って い る。 にな って いた 。 水偵 隊 は、 これ ら日独 潜水艦 の 出 開戦前 、水偵 6機 を率 いて 北朝鮮元 山水上基地 入港時 の護衛 、 マ ラ ッカ海峡通過 時 の対潜 哨戒 を で 船団護衛 の任 に就 いて いた 。陸 軍 の 司令官 に挨 任務 と して いた。 ベ ンガル湾方面 か ら入港す る潜 拶 に伺 った ところ、なん と京 三 中時代 の 配属将校 水艦 に対 して は、ア ンダマ ン島 ポ ー トブ レヤ ー水 だ った。 向 う睡 を蹴 られ た ことな ど想 い 出 し、笑 L基 地 、 マ レー半 島北部 ビルマ の メル グイ水上基 い話 の うちに退 出 した。 地 に水偵 を配備 して いた 。 ペ ナ ンの独 海軍 か らは 開戦後 、水上機母艦「 能登 呂Jで イ ン ド洋 ア ン 潜水艦塔載 の小 型水上機 1機 、塔乗 員士 官 1名 、 ダマ ン諸 島 の ポー トブ レヤ ー に進 出。 イ ン ド洋 の 下士官 1名 、整 備 員数 名を我 が 水上基 地 に派遣 し 敵機動部 隊索敵 に従事す る ことに な った。 て いた 。 こち らの指揮 下 にはい って 行動 して いた ので、独海軍 武官府 よ り、たびたび通 訳 の ひ とに 当時 、 こち らは電探 を装備 して い なか ったので 、 もっぱ ら 目視 で 、先 端 300海 里 の 圏 内洋上 を低 空 来て いた だ いた 。同志 社先輩 の西川磯 吉氏 だ った。 で索 敵を して いた。 独潜水艦 は大 西洋 か らア フ リカ南端喜望 峰を回 スマ トラ島西岸 シボル ガの飛行艇 隊が太平 洋南 り、 マ ダガ スカル 島か らイ ン ド洋 へ と行動 して ペ 東海域 に移動 した後 の イ ン ド洋索敵 は水偵 隊が 引 ナ ン島 に入港 して いた 。帰 路 は ゴム・ 錫・ タ ング き継 いで シボ ル ガ に 進 出 した。昭和 19年 6月 の ス テ ンな どの戦 略物 資を積載 して いた 。 「 あ号 作 戦 J(マ リア ナ戦 )に は フ ィ リピン、 ミ ンダナオ 島 ダバ オに進 出、艦 隊 の作戦 に参加 した。 ペナ ン島の桟橋 には独潜水艦が数隻繋留 して あ っ 湖に育 った鳥人たち `θ 私 の率 い る零 式水偵 隊 は イ ン ド洋 、南 シナ海の 対潜哨戒 、船 団護衛 を受持 って いた。 イ ン ドシナ (ヴ ェ トナ ム)の カ ム ラ ン湾基地 、北 ボ ル ネオの ラ ブア ン島水上基地 、 シ ンガポールの セ レター水上 基地 、サ イ ゴ ンの カ ツ トライ水 L各 基 地 に水偵 隊 進 、夜 間飛行 にまたが る こと もあ り、塔乗 員 の 練 度 は艦 隊塔乗 員以上 に 向上 して いた。 南東海域 の 塔乗 員 の 消耗 が い ち じる しくな るにつ れ 、 これの 補 充 のため 、我 が 水偵 隊か らもつ ぎつ ぎ引 き抜 か れて い った。 19年 3月 下旬 リンガ泊地 に在泊 の艦 特 に顕 著で 、軍令部源 田実参謀 か ら、 セ レタ ー基 隊水偵 隊が 、呉空 か ら シ ンガポール まで零 式三 座 水偵 を空輸 す るの に、 沖縄 ・ 台湾・ 海南 島・ サ イ 地 で説 明を求 め られ 、 さ らに10数 機 を増 や して い ゴ ンを経 由 して 5日 も費や して いた。 それ と較 べ ただいた。昭和 18年 11月 1日 、海軍大尉 に任 ぜ ら る と、わ が 水偵 隊塔 乗 員 は、佐世保 か ら東港 (台 れ た頃 は手 持 ち機数 24機 で あ った 。 湾 )1泊 、 マ ニ ラ・ カ ム ラ ン経 由 シ ンガポ ール ま で 2日 で空 輸 して いた。 ア ンダマ ン島 ポ ー トブ レ を配置 して いた。 カ ム ラ ン基地 の 水偵 隊 の 活躍 は 昭和 18年 末 には電探 を装備す るよ うにな ったが、 各国 に さきが けて 開発 され た磁探 は配分 され るま で には至 らなか った。対潜哨戒船 団護衛 は60キ ロ ヤか ら シンガポール まで も、 ペ ナ ン島 を経 由せず 爆弾 4個 を携行 、推測航 法で洋 L目 的海面 に到達 し、艦船 または船 団 と会合 して前路 、側方 を 目視 対潜 水艦 攻撃 の戦果 につ いて は、浮遊物 、油 の 流失 な どで効果 を判定 。確認 し報告 して いた。 で 見張 、警戒 す る もので あ った。黎 明 、薄暮 の発 しか し、米軍 の発 表す る損害 を 見な いか ぎ り、 い っき に飛 んで いた。 零式 水上 偵察機 海軍予備 航空 団 小 畑 政 次 正確 な こ とは判 らな い 。北浦空 に着任 して しば ら 私 は昭和 14年 11月 海軍予備航 空団大津支部 に入 く経 った頃 、西沙諸 島で坐 礁 した米潜 水艦 の航 海 団。初 めて 飛行機 に乗 れ たので す 。 当時大学 の 級 日誌が公報 に発表 されて いた。 友 に牧野伊兵衛君 、橋本元雄君 、西 田君等 が 日本 ミンダナオ島西方 スル ー海で水上機 発見 、潜航 学生航 空連盟で大活躍 。特 に橋本元雄君 が 日本 学 とい う記事が あ ったので 、当 日の ことを思 い 出 し 生航空連盟 の飛行大会で定着 に優 勝 。 その他 8字 て調 べ て みた と ころ、附近海面 には我 が 水上機 し 飛行 で も同大勢 が優 勝す るな ど全 日本 の大学生 と かな く「異状 な し」 と報告 して いた。 目視 のみ に して同志社大学 は大空 に君 臨 して いたので す 。私 よ る哨戒 が如何 に 当 て にな らな い もので あ るかを も飛行機 に乗 りた くそ の時 に先輩小 原博 氏が海軍 痛感 した。 予備士 官 と して飛行機 に乗 って お られ る話 を聞 き、 負傷す るまえ 2月 初旬 、 日吉 の海軍 当局 に呼 び 出 され 、新 しく編 成す る彩雲 の偵 察隊長 に転 出 の 私 も入団を決意 。入団試験 (身 体検査 、学科試験 ) にパ ス。琵 琶湖 ホテ ル の北側 にあ った航空 団 で 水 内示を うけて い た。艦 隊正面戦域 で 彩雲 の 真価 を 上機 に乗 った次第 で す 。予備航 空団 は海軍 と名付 存分 に発揮 してみ たい と決意 して いたの に、入 院 け られ たよ うに、学校卒業後 は必ず海軍 に志願 す によ り期待 に応 え る こ とがで きず残念 で あ った 。 神風特別攻撃隊「 魁隊」 の出発を見送 るためい っ る ことを義務 づ け られて い ま した。飛行訓練 は毎 日学業 の余 暇 に、又土 。日曜 日は 1泊 で 海軍予備 たん北浦空 に戻 ったが 、その後 は 自宅療養 、東京 下士官 の教 員 によ って下駄 ば きの 13式 水上練 習機 航空隊分隊長兼教 官 、 自宅療 養 を繰 り返 し終戦 と で 6∼ 7時 間 の 訓練後単独飛行 を許可 され ると言 な った。 9月 1日 充員召集 が解 除 され たので 、霞 う海軍式 の訓 練で した。同大 の先輩 で は、小原 博 ケ浦海軍病 院 に再 入院 、治 療 を うけ昭和 21年 初 め 氏 (予 備学生 6期 )だ けだ ったよ うで 、学部 か らは 退院 、社会 に 出た。学部卒業以来 7年 後 の こ とで 私 が 2人 目だ った と思 い ます (私 は 9期 で 昭 17年 あ った 。 1月 に土 浦 海 軍 航 空 隊 に入隊 )。 (昭 和 14年 卒 ) 3ヵ 月間 は全 く 月 1度 の飛行訓 練以外 は海軍士官 にな るための訓 練で 、一課 目終 了す れ ばす ぐテ ス ト。実 際 に35名 土浦 に入 隊 の 人員が 、実用機 に行 く時 には31名 に な って い ま した。私 は水上偵察機 (95式 )。 零式観 測機 に乗 り、再 び大津 空で 13期 の予備 学生 、第 期飛行生徒 (い 1 づ れ も大 学在 学 中 に志 願 され た方 たち)の 教 官を命 ぜ られ 、 同 時 に 強 風 (水 上 戦 闘 機 )で 空戦 に も参加 、20年 332空 零 戦 隊 に転勤 、 同 6月 中支空 に転勤 し上海 にて 終戦 。翌21年 復 員。 現在 は病 気 治療 中です 。同志社 関係 で は前述 の小 原 氏 を初 め 2階 級特 進 の故木野少佐 。 B29機 を 19 二式水上戦 闘機 `2 湖 に育 った鳥人 たち 機 も撃墜 した故坪井君 (9期 )、 故木村君 、故松 阪 私 の歴 史 柘 君 、高商 、専 門部 か らも予備学生 出身 の士 官 と し 植 恵 二 昭和 16年 3月 同志社 中学 (旧 制 )を 卒業 。同志社 て 相 当 に活 躍 され た 先輩 、後輩 もお られ ます (13 大学予科 に入学 。学 業短縮 で 17年 10月 には大学経 期 以 後 は私 に は不 明 )。 今 はな き戦友 の冥 福 を お 祈 りす ると同時 に、今 一度 スポー ツ と して 楽 しく 済学科 に進 学 した。 あの広 い大 空 を飛 んでみ た く思 い ます 。今 日 も近 くの調布 飛行場 よ り民 間機 (セ スナ等 )が 飛 んで い を背負 いなが ら天虎訓練所開設 とlol時 に第 1期 生 ます。ああ、もう一度操縦得を握 って みた いなあ″ ― (府 中市 自宅 にて )一 (昭 和16年 卒) 生者必滅会者常離 とは中せ 、各 々が 別 離 の運命 前期 と して入所 した の は昭和 18年 5月 で あ る。故 山本兄 と金沢亮 三 、 岡本 師両君 が一 諸 で 、1年 先 輩 の杉本兄 と中学 時代 か ら同窓 で あ った千 宗室 氏 らは第 1期 生 後期 の 入所 。また山 田美都 男 、清 田 政宏 の両君 は 2期 生 と して入所 して きた。 操縦訓練 は、90式 初歩 、93式 中間練 習機 によ る 。 操縦技量 習得 が 目的 で 、京都 。大 阪 。神 戸 彦根 な どの各大学 。高専 の学生各 4∼ 5名 が参加 。第 1期 は約30名 (後 に前期生 と称 され た)。 2ヵ 月 お くれ て 後期生 も入所 し、約80名 の学生 が 7月 か ら 2週 間 に亘 って琵琶湖北青柳で全員合宿訓 練 に入 っ た。 飛行訓練学 生 は当時の勤労動員や ら、軍事教 練 の科 目は免 除 され 、学生気 分 その ままの集 団が寝 食 を共 に しなが らの 合宿訓練 は、今振 り返 って み て も楽 しい思 い 出の一 つで あ るの また、 この年 の 11月 に行 なわれ た 同志社 の大学 、 予科教 練査 閲 には杉本 、金 沢 、山本 、岡本 、江藤 の 5君 が編 隊を組 んで京都 に向 い、空 中 よ り査閲 に参加 した こ とも思 い 出 の一 つで あ る。 昭和 18年 12月 には、学修期 間中 の徴 兵猶予 が取 り消 され (世 に謂 う学徒動員 )、 多 くの学 生が戦場 に向 った。 私 も昭和 19年 8月 に 2課 程在学 中 、第 15期 1次 海軍飛行科専修 予備学生 と して 山田美都 男君 と共 に土浦 海軍航 空隊 に入 隊 した。 きび しい 訓練 の後 、昭和20年 1月 に海軍士官 と して の基礎 教程 を終 ったが 、私達操縦学生 は、当時す で に燃 強風戦 闘機 料 の不足 は著 し く、飛行訓練 の ための練 習航 空 隊 `′ 天虎の想 い出 千 へ の配属は行 なわれず、やむな く茨城 県石 岡 で 2ヵ 不 室 父 の影響 で 幼少 の ころか ら乗馬 が 好 きだ った。 月 にわ た る セ コ ンダ リーの操縦 訂1練 を うけ るハ メ 中学生 の ころは、毎 日馬 術 な る もの にチ ャ レンジ にな った。 して いたが 、大 学予科 の ころにな る と、戦 いの拡 この訓練 中、同僚 の 山 田美都 男君 が米軍機 の機 大 とともに馬 も徴 用 され 、乗馬 も軍 の部 隊 へ 通 っ 銃掃射 を あび、右肩 に貫通銃傷 を負 い霞 ケ浦海軍 て の練 習 、 とい うよ りも飼育係 み たいな こ とをや 病院 に約 lヵ 月入院す る とい う事件 が あ った。彼 らされ た。大 学 2年 の春 、琵琶 湖 の膳所 に あ る天 は この ブラ ンクの ためか 、その後 の操縦教 官 の選 虎水上飛行 機訓練所 が第 1期 の飛行学生 を募集 し に もれ 、特修 学生 と して金沢基地 にお もむ いた。 て い るのを知 り、同 じ乗 りもので も飛行機 の方 が 一方 、私 は福 井 県 三 国 で 第 15期 2次 予備学 生 の 時節 に似合 うとばか り、教 練教官 を通 じて 申 し込 操縦教官 と して彼等 を特攻兵器 の塔乗要 員 に育 成 す るため教育 中 、 8月 敗戦 を迎 えた。 んだ。 各大学 、専 門学校生 が多 く志願 したが 、幸 い身 復 員後 、未就 学 の第 3課 程 へ の復学 を希 望 した 体検査 や適正検査 に合格 。同志社 か らは 7名 が第 がすで に第 2課 程 試験 合格 者 の軍 隊在 隊者 は第 3 1期 訓練生 と して 、天虎訓練所 に毎 日午 後 か ら通 課程修了 とみ な され 同学部卒業 とな った。 う ことにな った。特典 といえば、教練 に 出な くと 出身地京都 市 に帰 った 私を まち うけて いた もの 光学 の 販売会社勤 務 。福 井 の新興織物 会社 の東京 出張所勤 務 。47年 には東京 の既製服 販売会 社設立 。 横浜 で の婦人既製服製造卸売 自営 。ゲ ーム機械販 売会社 設立 。次 いで 家庭用 防災 具 日用雑貨 販売会 社取締役就 任 と目ま ぐる しい変遷 を経て現在 に至 って い る。 振 り返 って 見 る と私 の 人生 は大 学卒業後 が 第 ス ゑ τ 強 ごム は、あの戦後 の 大混乱 で あ った。 岩国 で の カメ ラ 1 期 、横浜で の独立 自営迄 が 第 2期 、 その後 が第 3 期 で30余 年苦楽 を共 に した妻 と昨年死別 した後 が 第 4期 の人生 で 現在 独 りの生活 を続 けて い る。 最後 に病死 され た杉 本僚 三先輩 、戦死 した山本 雄 三 君等 多 くの戦死 、病没 され た方 々の ご冥福 を 心 か らお祈 りいた します 。 (昭 和20年卒 ) 琵 琶湖畔 にて 64 湖 に育 った鳥人 たち もよ い こと、 も し陸海軍 に徴兵 され た ときは操縦 学生 と して採 用 され るよ うにな る とい う こと、 そ んな と ころで あ った。1年 上級 で ラグ ビーの猛者 で あ った杉本僚 三君 、山本君 (い ずれ も故人 )ら と、 毎 日海 軍 式 訓 練 を 受 け、水 上飛行機 (俗 に赤 トン ボ)の 操縦訓練 を受 けた。 や が て 単 独 飛 行 (大 体 14時 間か ら15時 間 の飛行 訓 練 で 、 ソ ロで や ら され る)に 入 った ころ、法文 系学生 の徴 兵猶予 が取 り消 され 、徴 兵検査 を受 け る ことにな った。 同期 の仲 間 の 多 くは、当時陸軍 に新 しく設 け られ た特別操縦 見習士 官 に採用 され たが 、私 は杉本君 らと海軍 に と られ た。 そ して 、 昭和 18年 12月 海兵 団 に入 L■l後 あ らゆ る試験 の 関門 を幸 いに も突破 し、海軍飛行予備学 生 に合格 、土 浦海軍航空 隊 に入 隊 した ので あ る。 当然 、水 L飛 行機 を単独 まで 出来 る私 や杉本君 は、早速 に も水 上機 に乗 せ られ ると、大 いに期待 したのだが 、 ど う した ことか 陸上機 に回 され たので 、水上機 な ら 今 す ぐにで も操縦 出来 るの に、海軍 はなんて無駄 (納 屋嘉治氏提 供 ) な ことを す るのだ ろ うと、 2人 で上 中 したが 、聞 いて は もらえなか った。 天虎で の操縦訓 練 は厳 しか ったが 、楽 しか った。 俺 がや るか ら操縦棉 を離 せ Jと いわれ 、青 くな っ て しま った。 しか し、後席 にど っか と座 られ腕組 各大学 か ら選抜 されて きた人 たち と仲良 くな り素 れ たお姿 は大盤 石 の ご ときで 、 みを して 自信 に ああゝ 晴 らしい飛行機仲 間 とな った。な に しろ教 練 に 出 それを見て い っぺ ん に安心感 が 出た ものだ。 な くて も出席 とみ な され 、教 官 も私 たち天虎 組 に い ろ い ろな海軍 式訓練 を受 け られ た こ と、例 え は「 よ くや るなあ、頑 張 って くれ Jと 、 いつ も激 ば カ ッターや手旗信号 、 モール ス信号 を教 官一人 励 して くれ た もので あ る。 そん な ときの他 の教練 一人 か ら、あ る時 は怒 鳴 られ なが ら、あ る 日は手 組 の連 中 は、鉄砲 か つ いで 私 たちを うらめ しそ う を と って教 え られ た こ とは、後 日海軍 に入 って か に見 て いたのが 、今 も印象 に残 って い る。 らとて も助 か った。 当時 の 多 くの仲 間 は、陸 に海 昨年亡 くな られ たが 、天 虎 の所長藤本先生 は素 に と特攻 隊員 とな り戦死 され た。残 され た私 は、 晴 ら しいか ただ った。 私が初 めて 飛行 を ご一 緒 さ 時折 り思 い 出 の アル バ ムを出 して タイ ム トンネ ル せて いただ いた時「 俺 は操縦席 で坐禅 を組 むか ら、 をた どる気持 ちで 当時を なつ か しんで いる。 覚 えた こ とを勝手 にや って み ろ。危 う くな った ら (昭 和21年卒 ) 6D‐ 天 虎 か ら海 軍 へ 田 島 了 先 日、OBの 佐 々 木哲兄 か ら丁寧 な書状 を頂 き、 の手 で操 縦拝 を握 って 飛 んだその 瞬間 は、 それ を 40数 年 ぶ りに天虎訓練所 の訓練生名簿 を拝見す る 経験 した者 の みが知 る感激で あろ う。 自分 で 飛 ん ことがで きま した。 そ こには今活躍 中 の諸 兄あ り、 だ者でなければ分 らな い共感を分ち うる こと も知 っ 故人 あ り、消息不 明 あ り、 さま ざまです 。 これ も た。青春 は若者 の 最高 の特権 だ とい うが、平和 の 戦争 とい う巨大 な うね りに押 し流 され た戦 中学生 大空を飛 べ る若 者達 はその幸 せを胸一 杯 吸 い こん の運 命 と もい え ま しょう。 当時 は、 ア メ リカの学 で ほ しい と思 う。 生 は速成 パ イ ロ ッ トと して第一線で活躍 で きる基 近江舞子 の夏 季合宿訓練 も終 り、夢 に見 た単独 礎 を も って い るか ら、 日本 で も学生 に航 空機操縦 飛行 を楽 しみ に練 習 に励 んで いた頃 、徴 兵 延期 が を教 え る こ とによ って 学 生 へ 航空知識 の 普及 と陸 廃 ILさ れ 、文 科系学生 が陸 海軍 に入隊す べ く学 徒 海軍 パ イ ロ ッ ト養成 の一 助 に と、 それ まで民 間 パ 出陣が発表 され た。既 に大 平洋戦争 の戦局 は、昭 イ ロ ッ ト訓 練所 で あ った天虎飛行訓練 所 が学 生航 和 17年 7月 には ミッ ドウェー海戦 の 敗北 につづ き、 空隊 の訓練所 と して 昭和 18年 5月 に開設 され た。 丁度春休 み も終 り、帰省先 か ら大学 へ 出 て きた 4 18年 4月 18日 山本連合艦 隊司令長官 の戦死 とい っ 月 の こと、静思館 の掲示 に「 学生航空 隊 ものが きた とい う気持 で あ った。 訓練生募 集 Jと 天虎訓 た悲 しい ニ ュースに、 当然 われわれ に も来 るべ き あ るのを見て 、ため らう こ 私 は海軍志 望が か なえ られ た。 昭和 18年 12月 広 と もな くす ぐ手続 を とった と ころ、身体検査 も無 島県大竹海兵 団 に学 帽学生服 の まま入団 した。 ジ 事通過 、パ スす る こ とがで きた。 ヨンベ ラとい った水兵服 か ら錨 の 帽章 と紺 サ ー ジ 練所 天虎訓練所 は浜大津 に あ り京 津電車 で通 う こと の軍服 に あ こが れ の短剣 を つ ったの は茨城 県 の 七 になった。所長 の藤本 さんは海軍出身の名パ イ ロ ッ 浦航空隊 に入 った翌年 の 2月 の末 頃だ った 。 この 地 に厳 しい飛 行 適 性 検査 にパ ス した精鋭2,800名 トといわれ た人 で 、美髭 を た くわえ 目の す るどい、 落着 きは らった柔 い物腰が特徴 で 、誰 しもす ぐフ ァ が第 14期 飛行専修予備学生 と して選 ばれ 参集 した。 ンにな るよ うな人 間的魅力 に満 ちた奥行 きの あ る 土浦 で は も っぱ ら飛行機乗 りにな る為 の基礎教 育 性格 の持主 だ った。飛行訓練 は藤本所 長 の ほか、 が行 われ た。 温厚 な神 田教 官 や 2人 の助教 が学生 の指導 に 当 っ ど こへ 行 くの もか け足 で あ る。朝起 きてか ら夜 たが、教 官 達 は皆 ハ ー トナ イ スばか り、厳 しい な 寝 るまで少 しも気 を抜 くこ とはで きな い。時 には か に も張合 いの あ る訓練 が始 ま った。 寝 た と思 った ら総員起 しがかか り気合 を入れ られ 初訓 練 は体験飛行 か ら始 ま る。 宙返 りや ス ロー る こと もあ る。気 を抜 いて ダ ラ ッと して いよ うが ロール に垂 直旋 回な ど特殊 飛行 にす っか り目を回 い ま いが 定期便 の よ うに、教官 か ら顔 が変形 す る したあげ く、 日の まわ りに飯 つぶ を一杯 つ けて青 くな って 飛行機 か ら下 りて きた者 もあ ったの も忘 ほど修 正な る もの を頂戴 す るの は当 り前 で あ る。 緊張 の 日々で あ った。数 多 くの海軍 のパ イ ロ ッ ト れ得 な い思 い 出 で あ る。 を育て あげた土浦 もど うや ら卒業 の 日がや って き 学生 が飛行 機 に乗 ろ うと考 えた動機 は私達 の 頃 たが 、その前 に関門が あ る。再度 の適正検査 は勿 と戦後 とで は全 く違 うだ ろ うが 、大空 を 自分独 り 論 だが 、 これ につ け加 え る面 白 い話 が あ る。海軍 66 湖に育 った鳥人たち では操縦 と偵 察学 生 に分 けて教育 し、別 々の任務 着水 は水 L15mま で ア ップ 3度 の姿勢 で 降下 、そ を負 う ことにな る。 その選別方法 はまず本人 の希 こか ら徐 々に操縦梓 を 引 き起 し 3点 着 水 した ら満 望 と適正検査 を基 にす るが 、更に骨 相・ 手相 が参 点 だが 、 この 15mの 高度判定 は至難 の技 だ。未熟 考 にされ る。 この場面 は阿川 弘之 の「 山本五十 六 の うちは高す ぎた り低す ぎた り して 、10m余 りも J 新潮社版 に出て くるが、真黒 い墨を手 の ひ らにい っ 落下 して舌 をかみ そ うにな った り、大 ジ ャ ンプ し ば いつ け 手形 を押 して 、鑑 定 の先生 の前 に神妙 な て 頭 か ら海 中 に突込 んだ りの離れ技 もあ った。94 顔で座 った。 科学 を尊重 した といわれ る海軍 にあ っ 水偵 は 2枚 翼 、三 菱 製 瑞足850馬 力 の エ ンジンを て も、一寸奇 妙 に思 え る ことだ。 塔 せ た 3座 の水上偵察機 で巡 航 で 13時 間 とい う抜 余 談だが 、かの アポ ロを月 に打上 げ る前 にケ ネ 群 の航 続力 を もち、量産 され 、太平 洋戦争に 活躍 デ ィ大統領 が教会 に許 しを得 た とい う し、未 だ に 進化論 。地動 説 が否 定 されて い る町や 市 もあ る と したが 、速 度 の 点 で は巡航 で 120ノ ッ ト程度 と記 憶 して い る。私 たちは20年 2月 神風特攻 隊員 に任 い うアメ リカの こ とを聞 くと、人 間社会 で は科学 命 され 、94水 偵 によ る特攻隊 が編成 され た。実 は だ けで は律 し切 れ ない一面 もあ るのだ 。 この足 のおそい飛行機 を以 って して 、尚 、立派 な 私 は ここで 希 望通 り水 L機 の操縦 に きま った。 戦果 をあげて 亡 くな った戦友達 の記録 が あ る。 練習航 空 隊 は茨城 県 の北 浦航 空隊 だ った。 赤 トンボ といわれ た93中 練 によ る教程 を了 え る (あ とが き) 終戦時 の秘話 な どまだ い ろ い ろの ことが あ った。 と実用機教程 に進 む こ とにな り、94水 偵 によ るコ 練 が は じま った。海軍機 は エ ンジ ン加速 レバ ーが 書 き残 して お きた い と思 い ますが紙面 の都 合 で 、 前押 し式で 、陸軍機 は全 く逆 で 引張 り式 とい った 又機会 が あ った ら続 きを書 きた い と考 えて い ます 。 ││ 具合 に規格 が異 って いたの も妙 で あ る。水上機 の (昭 和 21年 卒 ) 九二式 中間練習機 思い出すままに 吉 田 鉄 也 今 回連絡 いただ くにつ いて は、私 の住 所 を塚 本 L機 の方 の佐 々木 さんだ と今 で も不思 議 に名前 を 君 か井 口君 か らお聞 きにな ったので はな いか と考 記憶 して お ります 。佐 々木 さんお覚 え はないで す えて い ま したが 、お手紙 によれ ば神 戸兵庫 区役所 か ?。 や 、福井市役所 へ 再 三 再 四の問 い合 せ 調査 され た 卒業後 は余 り勉 強 も しなか ったので 平 々 凡 々の との こ と、全 く恐縮 に存 じて お ります 。重 ね重 ね サ ラ リーマ ン生活 を送 って い ます 。福井 新 聞 に20 の ご配慮 に感 謝 いた します 。 年余 りいたので す が 8年 前 に新 しい地方新 聞 と し さて 、すで にお 聞及 びか も知 れ ませ んが 、私 は 昭和 19年 8月 に、塚本 、外村君 と一 緒 に第 2期 海 軍予備生徒 (予 科 2年 か らだ ったので 生徒です )と て 日刊福 井が創立 され たのを機 に こち らに移 りま した。 子供 達 も(1女 1男 )す で に仕上 って い るので現 して二重海軍航 空 隊 に入 隊 しま した。皮 肉 な もの 在 は気 楽 に ノ ンビ リした気分で す 。 お互 に大分年 で 学生 時代 は毎 日の よ うに飛行機 に乗 れ たの に、 もと って きま したので体 には くれ ぐれ もお気 を つ 肝心 の軍隊 に入 った途端 、 ガ ソ リンの 欠乏 か ら飛 けて下 さい。 ご健 闘を お祈 りいた します 。 行機 には全然乗 せて もらえず 、 グ ライダー訓 練 で (昭 和24年 卒 ) お茶を にご して お りま した。 しか し、爆音 の な い 静 か に翼で風 を切 る音 だ けの飛行 もさわやかで い い ものだ と思 い ま した。 今 で も印象 に残 って い るの は、不覚 に も失速 し 右主翼 か らス リップ しなが ら墜落 し、地 面 に激突 して主翼が折れ裏返 しにな って セ コンダ リー 1機 を大破 し、国家 に大 損害 ?を 与 え た こ とです 。で きるだ け高度 を とりた い と操縦檸 を一杯 引 いたの で す が 、空 き腹 で 引 いて くれ る同僚達 もへ ば って いてス ピー ドがつかず 、我なが ら情 な い始末 とな っ た訳 です 。 それ に比 べ る と今 の学生 は飛行機 で曳 航 され た り して羨 ま しい限 りで す 。 たまに福井空港で関西か ら学生 たちが グライダ ー 練 習 にや って 来 て 飛 んで い るのを見 る と昔 が懐 し く思 い 出 され ます 。 それか ら今 回発刊 され る50年 誌 関係 で大変 にご 苦労 にな って い る佐 々木 さん とい う名前 で思 い 出 した ので すが 、私が天虎 に通 って いた 当時 、道で 出会 った時 に敬礼 を しなか った とい う こ とで部室 で説教 され た ことが あ ります 。 その時 の先輩 が 陸 湖に育 った.島 人たち `∂ 九〇式 初等練 習機