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WORKING PAPER SERIES
朚村 登志男
セむコヌ゚プ゜ン・事業倚角化の起源
ビゞネスケヌス 資料 No.1
2009/10/27
No. 
The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY
WORKING PAPER SERIES
Toshio Kimura
Professor, Hosei Business School of Innovation Management
SEIKO EPSON Corp., The Origins of
Diversification
The Case of a Business, No.1
October 27, 2009
No. 
The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY
ビゞネスケヌス 資料 No.1
セむコヌ゚プ゜ン・事業倚角化の起源
朚村登志男
䞻旚
長野県諏蚪垂圚の時蚈工堎、諏蚪粟工舎がどのような経緯で発展し、事業の倚角化・囜
際化を進めるこずになったのか、今日のセむコヌ゚プ゜ンの基瀎を築いおいくプロセスず
それを掚進した経営者・幹郚・技術者の果たした圹割を远う。
序章
セむコヌずセむコヌ゚プ゜ンの沿革
セむコヌグルヌプ
セむコヌグルヌプの本業「時蚈事業」は、茞入・販売からスタヌトした服郚時蚈店を起
点に、やがお工堎粟工舎を蚭立しお時蚈の囜産化に乗り出し、さらに別䌚瀟第二粟工舎、
諏蚪粟工舎を蚭立しお発展しおきた。話しのはじめに、セむコヌグルヌプ圢成の経緯をご
く簡単に振り返っおみよう。
セむコヌグルヌプ・セむコヌ䌁業集団はナニヌクな資本圢態をずっおいる。
服郚時蚈店は 1881 幎明治 14 幎服郚金倪郎によっお創業された。服郚時蚈店は茞入
時蚈商ずしお頭角を珟し、創業埌数幎で東郜の有力時蚈店になる。倩才時蚈技垫吉川鶎圊
ず知己を埗た服郚金倪郎は 1892 幎明治 25 幎吉川鶎圊を技垫長に服郚時蚈店工堎粟工
舎を蚭立し、時蚈の囜産化に取り組む資本は同䞀で「店」ず「工堎」の本立お。
粟工舎はボンボン時蚈柱時蚈の囜産化からスタヌトし、創業 3 幎で埓業員 300 人を
抱える日本最倧の時蚈工堎になる。その埌も囜産初の目芚し時蚈、懐䞭時蚈、腕時蚈を開
発・商品化し、発展を遂げる。服郚金倪郎は東掋の時蚈王ず称される存圚になる。関東倧
震灜埌の火灜で粟工舎は党焌の被害にあうが、瞬く間に埩興する。1937 幎昭和 12 幎
戊争の足音が高くなっおきお、粟工舎の軍需生産比率が高たっおきた頃、時蚈生産の継続
を望んだ圓時の瀟長服郚玄䞉は、服郚時蚈店工堎粟工舎ずはたったく別資本の第二粟工舎
を蚭立した資本は服郚家が出資。第二粟工舎は懐䞭時蚈・腕時蚈の生産を担圓する。1942
幎諏蚪垂長・諏蚪商工䌚議所䌚頭ず諏蚪の時蚈商山厎久倫からの匷い䌁業誘臎芁請に応え
1
お、第二粟工舎は諏蚪垂に䞋請け䌚瀟有倧和工業を蚭立する。たた翌幎疎開工堎第二
粟工舎諏蚪工堎を蚭立する。倧和工業ず第二粟工舎諏蚪工堎は戊䞭・戊埌を通じお䞍離䞀
䜓の合䜜瀟経営を展開しお発展し、1959 幎䞡瀟合䜵により諏蚪粟工舎が蚭立された。諏蚪
粟工舎も資本的には第二粟工舎ずは別䌚瀟で、服郚家資本の䌚瀟である。぀の「粟工舎」
は資本的な繋がりはないが、人脈は繋がっおいたし、服郚家資本ずいう意味で同じグルヌ
プに属する。時蚈事業に関しおは、぀の「粟工舎」は生産を担圓し、SEIKO ブランドを
保有し、販売を担圓する服郚時蚈店を通じお䞀本に繋がっおいた。
服郚時蚈店珟セむコヌ
工堎粟工舎
珟セむコヌクロック・セむコヌプ
レシゞョン
クロック担圓
第二粟工舎
珟セむコヌむンスツル
りオッチ
女物・男物担圓
諏蚪粟工舎
珟セむコヌ゚プ゜ン
りオッチ男
物担圓
時蚈事業の生産・販売の業務の流れは今日でも倉わっおいない。しかし、今日ではセむ
コヌむンスツル、セむコヌ゚プ゜ンの倚角化が進み、䞡瀟における時蚈事業の比率は倧き
く䜎䞋しおいる。ずくにセむコヌ゚プ゜ンでは時蚈事業の売䞊比率は事業党䜓の以䞋
である。
なお、2009 幎 10 月日付けで持株䌚瀟セむコヌホヌルディングスずセむコヌむンスツ
ルが合䜵する予定である。そのずきには、セむコヌグルヌプは、SEIKO ブランド商品を統
括するセむコヌホヌルディングス傘䞋にセむコヌりォッチ、セむコヌクロック、セむコ
ヌプレシゞョン、セむコヌオプティカルプロダクツ、セむコヌむンスツルなどを抱える
ず EPSON ブランド商品を統括するセむコヌ゚プ゜ンの系列に集玄される。
スワセむコヌグルヌプ
スワセむコヌグルヌプの䞭栞、諏蚪粟工舎は前述のずおり、第二粟工舎の䞋請䌚瀟有
倧和工業ず第二粟工舎諏蚪工堎が合䜵しお 1959 幎に蚭立された䌚瀟である。諏蚪粟工舎は
諏蚪・䌊那・束塩地域での腕時蚈䞀貫補造䜓制確立を目指し、瀟工堎の盎蜄関連䌚瀟
を擁するナニヌクな䌁業集団パヌトナヌ経営䜓制を構築した。
この䌁業集団を「スワセむコヌグルヌプ」、83 幎以降はセむコヌ゚プ゜ン誕生たで「スワ
2
セむコヌ゚プ゜ングルヌプ」ず称した。珟圚は瀟工堎の仕事の内容も完党に倉わり、
すべおセむコヌ゚プ゜ンに統合されおいる。
浜柀工業茅野工堎文字板補造
諏蚪工堎時蚈組立
1954 幎蚭立
1957 幎操業開始
高朚工業小物郚品補造
1957 幎蚭立
束島工業硬石補造
1959 幎蚭立
倩竜工業ケヌス補造
1959 幎蚭立
塩尻工業時蚈組立
1961 幎蚭立
信州粟噚1982 幎゚プ゜ンに瀟名倉曎
村井工堎地板・受補造
1961 幎蚭立
広䞘工堎情報機噚補造販売
1970 幎操業開始
1970 幎蚭立
島内粟噚時蚈組立
このスワセむコヌグルヌプが、情報機噚事業進出にあたり蚭立したのが、1970 幎操業開
始の信州粟噚広䞘工堎である。スワセむコヌグルヌプ情報機噚事業の特城は生販分離であ
る。スワセむコヌグルヌプは関連䌚瀟信州粟噚埌の゚プ゜ンの情報機噚郚門広䞘工
堎が 1970 幎代埌半から末にかけお米囜・欧州に販売䌚瀟を蚭立しお倧成功するのを芋お、
1980 幎代に入るず囜内でも販売䌚瀟を蚭立するのが望たしい、特に EPSON ブランドの情
報機噚完成品の堎合には日本党囜を機動的にカバヌするためにも販売䌚瀟蚭立がのぞたし
いのではないかずいう話題が関係者の口に䞊り始めおいた。
囜内販売䌚瀟の蚭立が具䜓的な経営課題ずなった 1980 幎代前半、スワセむコヌグルヌプ
は 1980 幎床を基準幎ずする“NFDNew Future Development80”蚈画を策定し、NFD80
によるグルヌプの事業再線・再構築ず時蚈事業・非時蚈事業䞡方の倧いなる発展を目指し
た掻動の真只䞭にあった。
ずいうのも、1960 幎代・1970 幎代ず 20 幎間にわたり黄金時代を謳歌した時蚈事業が突
劂 1979 幎床1980 幎 4 月期をもっお、その黄金時代の終焉を迎えおしたったのだ。ス
ワセむコヌグルヌプは 1956 幎に発売されたマヌベル以降ヒット商品を連発させ、さらにス
むス・ニュヌシャテル倩文台時蚈コンクヌル出品で粟床向䞊に磚きをかけおメカ時蚈事業
を成功させ、さらには 1969 幎末に発売したクオヌツりォッチの創業者利益によっお、20
幎の氞きにわたり超高収益を享受しおきた。
その 20 幎間にわたる高収益の栄光の軌跡を蚘せば、䞋蚘のずおりである。
スワセむコヌグルヌプのりォッチ黄金時代
りォッチ黄金時代は諏蚪粟工舎誕生以前の 1956 幎のマヌベル発売が起点になるが、1959
幎 5 月諏蚪粟工舎発足を起点にするず、第 1 次りォッチ黄金時代は 1960 幎 3 月期から 1969
3
幎 3 月期たでの 10 幎間、第 2 次黄金時代は 1970 幎 3 月期から 1979 幎 3 月期たでの 10
幎間ず芏定するこずができる。第 1 次はメカ時蚈による黄金時代、第 2 次はクオヌツりォ
ッチの導入からクオヌツりォッチ党盛に至るたでの黄金時代である。
その売䞊高、皎匕前利益率の掚移は䞋蚘のずおりである。
第 1 次りォッチ黄金期
決算期幎床
売䞊高億円
売䞊高皎匕前利益率
1960 幎 3 月期
27.1 億円
12.0
1961 幎 3 月期
40.8 億円
11.5
1962 幎 4 月期
50.9 億円
10.7
1963 幎 4 月期
59.0 億円
9.9
1964 幎 4 月期
71.8 億円
9.5
1965 幎 4 月期
90.8 億円
8.6
1966 幎 4 月期
94.2 億円
9.3
1967 幎 4 月期
110.0 億円
9.3
1968 幎 4 月期
137.5 億円
10.1
1969 幎 4 月期
166.7 億円
10.3
泚1962 幎 4 月期は決算期間倉曎のため 13 ヶ月決算ずなっおいる。
第 2 次りォッチ黄金期
決算期幎床
売䞊高(億円)
売䞊高皎匕前利益率
1970 幎 4 月期
220.8 億円
10.6
1971 幎 4 月期
264.9 億円
9.8
1972 幎 4 月期
312.4 億円
8.7%
1973 幎 4 月期
327.9 億円
8.7
1974 幎 4 月期
422.5 億円
10.7
1975 幎 4 月期
525.0 億円
12.3
1976 幎 4 月期
555.3 億円
12.6
1977 幎 4 月期
738.7 億円
14.4
1978 幎 4 月期
956.2 億円
15.8
1979 幎 4 月期
1,019.8 億円
14.0
しかし、クオヌツりォッチは他産業やりォッチ埌進囜の垂堎参入を招き、1979 幎床には
぀いに砎壊的な䟡栌䜎䞋を招いおしたった。3 分の 1 近い平均単䟡の䞋萜は残念ながら短期
間ではカバヌできず、倧幅な採算悪化に芋舞われた。しかし、スワセむコヌグルヌプの堎
合は、幞い関連䌚瀟信州粟噚埌の゚プ゜ンに委蚗したミニプリンタ事業が順調に成長
4
し、加えお電子機噚事業・液晶衚瀺䜓事業も成長軌道に乗り始めおいた。たた諏蚪粟工舎
の半導䜓事業も基瀎を固め぀぀あった。その状況を、1979 幎床1980 幎月期の諏蚪粟
工舎ず信州粟噚の業瞟数倀で瀺すず、䞋蚘のずおりである。
1980 幎月期の諏蚪粟工舎・信州粟噚の業容
諏蚪粟工舎
諏蚪粟工舎の売䞊高は 1,033 億円、皎匕前利益は 53 億円だった。売䞊内蚳はりォッチ
851 億円、郚品その他 182 億円であるが、この「郚品その他」の売䞊には事業売䞊 28
億円、信州粟噚からのノりハり料 30 億円も含たれおいる。1980 幎月期䞊半期はりォッ
チ事業も利益が出おいたが、䞋半期はりォッチ事業だけを取り䞊げるずブレヌクむヌブン
を割り蟌んでいた。
信州粟噚
信州粟噚の売䞊高は 524 億円、皎匕前利益は 84 億円だった。
売䞊の内蚳は䞋蚘のずおり。
時蚈
45 億円
プラスチック
27 億円
ミニプリンタ
295 億円
電子機噚
81 億円
液晶衚瀺䜓
87 億円
内郚振替控陀
11 億円
したがっお、りォッチ事業を再建し、非時蚈郚門を䌞ばしおいけば、スワセむコヌグル
ヌプには掋々たる前途が広がっおいる。そう確信したトップマネゞメントの匷力なリヌダ
ヌシップのもずに掚進されおいたのが「NFD80」蚈画である。
ここで NFD80 蚈画の由来に぀いお簡単に觊れおおこう。
NFD80 蚈画は 1980 幎月日仕事始めの日早々に垞務䌚で審議決定され、即刻圹員䌚
に付議されおスタヌトした。1980 幎月期䞋半期に諏蚪粟工舎は創業以来始めお実質赀字
ずいう事態に盎面し、トップマネゞメントはこれを抜本的改革の奜機にしようず考えた。
新幎早々の NFD80 蚈画スタヌトは非垞事態宣蚀でもあった。この非垞事態宣蚀は珟状打砎
による経営改革ぞの決意だった。りォッチ事業を䞻䜓ずするスワセむコヌパヌトナヌ䌁業
集団経営䜓制は制床疲劎状態に陥り、内郚厩壊の兆候を瀺し始めおいた。りォッチ専業時
代の仕事ずシステムを党面的に組み替え、りォッチ事業も含めお、ハむテク・メカトロニ
クス䌁業集団に倉身させなければならなかった。ずくにりォッチ事業暪割りパヌトナヌ集
団経営システムでは急激に情報機噚事業分野ぞシフトする事業展開スピヌドに適応できな
かった。りォッチ垂堎の激倉に察しおも察応しきれなかった。研究開発機胜の抜本的な再
線成・匷化、補造・販売拠点展開の䞖界戊略策定も埅ったなしの急務だった。
5
NFD80 蚈画では䞊蚘の構造改革・経営改革を進めるずずもに成長目暙・売䞊高利益率目
暙・借入金の返枈目暙・総投入人員の圧瞮目暙・海倖掻甚目暙などを高いレベルで具䜓的
に定めお䞭・長期的に取り組むこずずされた。
象城的なのはサマヌレビュヌず称しお毎幎ロヌリングで 10 幎レンゞの長期ビゞョンの策
定に党瀟をあげお取り組んだこずである。党事業郚・囜内倖の関係䌚瀟がすべお参加し、
自らの 10 幎ビゞョンを描き、その達成に向けお努力を傟泚した。
りォッチ事業は販売を担圓する服郚時蚈店や同業の第二粟工舎ずも連携・協働しながら
事業の再線・再構築ず匷化をすすめ、業瞟の改善がはかられた。スワセむコヌグルヌプの
事業再線成の䞀環ずしお瀟ある関連䌚瀟のうち浜柀工業・高朚工業・倩竜工業瀟が合
䜵しおサンリツ工業が 1983 幎に蚭立されおいる。非時蚈郚門匷化はセむコヌグルヌプ各瀟
も同様で、1983 幎には、服郚時蚈店は瀟名を服郚セむコヌ珟セむコヌに倉曎したし、
第二粟工舎もセむコヌ電子工業珟セむコヌむンスツルに瀟名倉曎した。
1983 幎時点になるずスワセむコヌグルヌプはその呌称をスワセむコヌ゚プ゜ングルヌプ
ず改める。ずいうのは非時蚈郚門、ずくに情報機噚郚門を担圓する゚プ゜ン1982 幎月
に信州粟噚から瀟名倉曎の成長は顕著で、成熟期に達したミニプリンタに加えお、パ゜
コン甚のドットむンパクトプリンタタヌミナルプリンタが米囜・欧州垂堎で倧ヒット
し、急成長しおいた。急成長の牜匕車はアメリカの販売䌚瀟 EPSON America, Inc. であっ
た。画期的な 100所有ディストリビュヌションネットワヌク党米 12 瀟を構築しお䞀
挙にタヌミナルプリンタの販売を䌞ばしおいた。ドむツ・むギリスの販売䌚瀟もアメリカ
に続けずタヌミナルプリンタの販売䜓制を匷化しおいた。さらに、タヌミナルプリンタの
成功に勢いを埗お開発した販売チャネルを掻甚すべく、パ゜コンやハンドヘルドコンピュ
ヌタずそれらの呚蟺機噚の商品開発・垂堎導入も進められおいた。米・欧販売子䌚瀟の躍
進ずずもに、日本囜内の情報機噚完成品販売䜓制の匷化ぱプ゜ンの電子機噚事業郚傘䞋
の電子機噚営業郚を䞭心に行なわれおいた。電子機噚営業郚傘䞋には東京・倧阪・名叀屋
など党囜ヶ所に営業所が眮かれおいた。たた、77 幎䌚蚈事務所専甚オフィスコンピュヌ
タ発売以来、79 幎タヌミナルプリンタ、81 幎ハンドヘルドコンピュヌタ、パ゜コンおよび
その呚蟺機噚を垂堎導入し、急速に商品ラむンアップを拡充匷化しおきおいた。
情報機噚郚門の成長をさらに加速し、非時蚈郚門の売䞊を、時蚈郚門以䞊に䌞ばすには
日本囜内も海倖ず同じように生産ず販売を分離しお販売䌚瀟を蚭立したほうがよいだろう
ずいう機運は十分高たっおきた。
合䜵ぞの垃石囜内営業統合の象城、゚プ゜ン販売蚭立
株諏蚪粟工舎ず゚プ゜ン株合䜵の垃石の意味も蟌めお、1983 幎 5 月 20 日゚プ
゜ン販売株が株諏蚪粟工舎ず゚プ゜ン株の営業郚門統合の囜内販売䌚瀟ずし
6
お蚭立された。半導䜓を陀く、諏蚪粟工舎ず゚プ゜ンの党商品の囜内販売を担圓するこず
になった。オペレヌションは 7 月から開始された。
゚プ゜ン販売の母䜓ぱプ゜ン株の東京支店、倧阪支店以䞋党囜各地の営業所名
叀屋・仙台・広島・札幌・犏岡そしお株諏蚪粟工舎営業本郚囜内第䞀線セクション
だった。
゚プ゜ン販売の本瀟は東京 NS ビルに眮かれた。
゚プ゜ン販売は販売ラむンがメむンなので、芪䌚瀟の補造ラむン䞻䜓ずは異なる就劎・
賃金䜓系が敎えられた。たた、第䞀線営業マンは珟地採甚をメむンずしおいく基本方針が
定められた。
取扱い商品ぱプ゜ンが担圓しおいた電子機噚オフィスコンピュヌタ、パ゜コン、タ
ヌミナルプリンタ、その他の呚蟺端末機噚、ミニプリンタ、液晶衚瀺䜓、プラスチック郚
品、および諏蚪粟工舎が担圓しおいた特品氎晶振動子、同発振噚、磁石、モヌタヌ、特
噚モゞュヌル等、等であった。
販売䌚瀟は EPSON ブランド完成品の電子機噚情報機噚にこそふさわしい業態であ
るが、蚭立の時点では、電子機噚情報機噚だけで販売䌚瀟の採算が維持できる業容に
は達しおおらず、OEM 補品営業郚門の支揎・費甚補填が必芁だった。たた、それ以䞊に営
業郚門から゚プ゜ンず諏蚪粟工舎の䞀䜓化を進めようずいう、将来の合䜵掚進に向けたト
ップ刀断が働いおいた。
瀟長には諏蚪粟工舎垞務取締圹営業本郚長兌゚プ゜ン垞務取締圹囜内営業本郚長の岡本
達が就任した。
セむコヌ゚プ゜ン誕生
「NFD80」蚈画策定の前埌からトップマネゞメントの間では、スワセむコヌ゚プ゜ング
ルヌプを牜匕する双頭の鷲の合䜵は重芁な経営課題であったが、事は非垞に困難・埮劙な
問題だった。
すべおの経営資源を最効率に掻甚するには合䜵が良い。しかし、䞡者の䌁業文化の違い
などを理由に、トップマネゞメントの間にも反察論があったようであるし、それ以䞊に重
芁で困難な問題は服郚本家筋創業者服郚金倪郎の長男玄䞉に連なる家系。服郚謙倪郎・
犮次郎ず服郚分家筋創業者服郚金倪郎の次男正次に連なる家系。服郚䞀郎・歊・靖倫
の株匏持分シェアの問題だった。
しかし、諏蚪粟工舎ず゚プ゜ンは合䜵に向けお行動を起こした。䞡瀟は合䜵を前提に擬
䌌合䜵的な合䜜瀟組織あるいはシャドヌ組織)を線成し、䞡瀟の䞻芁圹員や幹郚は 2 ぀の
䌚瀟の圹職を兌務しお、䞡瀟が䞀䜓的・有機的に協力し合えるような苊心のオペレヌショ
ンが展開した。それは戊䞭・戊埌の創業の頃に行なわれおいた倧和工業ず第二粟工舎諏蚪
工堎の合䜜瀟経営の知識・ノりハりが生かされたものだった。
圹員間の意思統䞀ず服郚本家筋・分家筋䞡頭領の倧所高所からの英断・了解が埗られお
7
諏蚪粟工舎ず゚プ゜ンが合䜵し、セむコヌ゚プ゜ン株匏䌚瀟が発足するのは 1985 幎 11 月
1 日のこずである。
新生セむコヌ゚プ゜ンは資本金 15 億 2,200 䞇円、売䞊高玄 3,000 億円前幎床諏蚪粟
工舎 2,360 億円、゚プ゜ン 1,570 億円、埓業員玄 7,000 人、そしおトップマネゞメントは
䌚長服郚謙倪郎、瀟長服郚䞀郎、副瀟長䞭村恒也、同濱廣䞀、専務取締圹山村勝矎、同安
川英昭、同盞柀進ずいう垃陣であった。
セむコヌ゚プ゜ン株発足匏での服郚䞀郎瀟長の挚拶芁旚は䞋蚘のずおりであった。
「以前から諏蚪粟工舎ず゚プ゜ンの合䜵ずいうこずを考慮し、䞡瀟の力を十分に発揮で
きるような新䜓制をず、䞀本化の䞋準備を行っおきたした。
そしお、創業以来の䌝統を持぀『セむコヌ』ず諏蚪セむコヌ゚プ゜ングルヌプが倚角化
を進めるプロセスの䞭で若い人達の䞭から生たれおきた『゚プ゜ン』
、今埌はこの䞡瀟を合
わせお、創業以来の『堅実な䌝統』ず『新しい情熱』ずを合わせもった䌚瀟ずしお生たれ
かわりたいず考えおいたす。
぀たり、諏蚪粟工舎の研究開発ず技術力、゚プ゜ンの営業力ず商品䌁画力ずいったもの
が、合䜵によっお 11 が 3 にも 4 にもなる力が発揮できるようにしたい、ずいうのがその
ねらいなのです
そしお、最初から『察等合䜵』で新䌚瀟を䜜るず匷調しおきたずおり、どちらか䞀方に
り゚むトがかかるのではなく、新䌚瀟ずしお䞡瀟の力を合わせ『セむコヌ゚プ゜ン株匏䌚
瀟』ができたず考えおいたすし、今埌も同じ方針でのぞんでいこうず思いたす。
それから、よくワヌルド゚ンタヌプラむズをめざしおずいうこずが瀟内でいわれおいた
すが、私が理解するワヌルド゚ンタヌプラむズの意味は必ずしも芏暡のこずだけをいっお
いるのではありたせん。
もちろん、䞖界的䌁業であるためには䞖界各囜で営業なり補造なりしおいるこずが必芁
ですが、それよりもなによりも質的な面で今埌䞖界で求められる新しい皮類の補品やサヌ
ビスを独自に䜜りだせる、ずいうこずの方がはるかに重芁です。
しかも、それを垂堎に送りだし、たたそれによっお利益をあげられる、ずいうのが䞖界
的な䌁画力をもった䌁業なのではないでしょうか。
ですから、芏暡的な拡倧だけではない『䞖界の䞭で意味ある䌁業』ずしお生き残り、発
展しおいく、ずいうこずに぀いお䞀床考えおほしいず思いたす。
珟圚は円高や、パ゜コン、IC の垂堎における倱速状況などさたざたな困難な珟況があり
たすが、たすたす『第二の創業期』ずいう意味をかみしめ、新しい出発の䞭で『䞖界的に
意味ある䌁業』を぀くりあげるずいう気持ちで、この新しい『セむコヌ゚プ゜ン株匏䌚瀟』
を築いおいきたいず思いたす」瀟内報198512 月号
8
第章
クオヌツりォッチずミニプリンタの開発商品化
創業者
山厎久倫
セむコヌ゚プ゜ン株は株第二粟工舎の䞋請䌚瀟ずしお 1942 幎に蚭立された有
倧和工業を起源ずする。その第二粟工舎も翌 1943 幎に疎開工堎の䞀぀ずしお第二粟工舎諏
蚪工堎を蚭立する。その頃には最早時蚈生産どころではなくなっおいた。いやおうなく軍
需生産を匷いられ金属兵噚郚品銃匟の信管などの生産に埓事した。しかし、1945 幎 8
月 15 日終戊の日に圓時の第二粟工舎の最高責任者服郚正次専務は時蚈事業ぞの埩垰を宣蚀
した。服郚正次の意を受けお諏蚪の珟地責任者山厎久倫はなんずしおも諏蚪の地に時蚈工
業を怍え付けるべく獅子奮迅の掻躍を開始する。山厎は第二粟工舎からの疎開技術者・技
胜員に衣食䜏の䞍自由をさせないよう最倧限の努力を払った。ずくに食糧はダミ物資を手
にいれおでも工面した。䜏宅に぀いおは持ち家を奚励し䜎利の䜏宅金融を行った。家を建
おれば東京に垰らないだろうずいう深謀遠慮である。有倧和工業ず第二粟工舎諏蚪工堎
はたるで䞀぀の䌚瀟のように䞀䜓ずなっお「合䜜瀟経営」を行い、男物腕時蚈の生産ず生
産の機械化・近代化に党力で取り組んだ。
この機䌚にセむコヌ゚プ゜ンの実質的創業者山厎久倫を簡単に玹介しおおこう。
有倧和工業の代衚者ずなる山厎久倫は家が諏蚪垂内の時蚈商であったこずから東掋
の時蚈王ずいわれた服郚金倪郎にあこがれおいた。尋垞高等小孊校卒業の日、黒板に自分
の尊敬する人ずしお「服郚金倪郎」ず倧曞したずいう。倧正 8 幎1919 幎尋垞高等小孊
校卒業ず同時に服郚時蚈店に修理工ずしお奉公したが倧正 12 幎1923 幎9 月 1 日の関東
倧震灜のあず服郚時蚈店をやめ諏蚪垂で家業の時蚈商に埓事した。その埌昭和ずなり、日
䞭戊争が激しくなり日米関係が怪しくなった頃、諏蚪垂では垂長が䞭心ずなり、䜕の産業
もない諏蚪に機械工業の䌁業誘臎をしようずいう話が持ち䞊がった。服郚時蚈店に䌝手の
あった山厎久倫は第二粟工舎専務の服郚正次に垂長・商工䌚議所䌚頭ずもども懇請し、諏
蚪に第二粟工舎の䞋請け䌚瀟(有)倧和工業を誘臎・蚭立するこずに成功する。そしお服郚正
次の意を受けお代衚者に就任した。その埌戊火が激しくなり疎開工堎の 1 ぀ずしお第二粟
工舎諏蚪工堎が蚭立されるずその珟地責任者も合わせお匕き受ける。倧和工業ず第二粟工
舎はあたかも同じ䌚瀟のように䞀䜓ずなっお経営された。山厎は第二粟工舎諏蚪工堎が東
京に匕き䞊げるこずがないよう、疎開技術者・技胜員が衣食䜏に䞍自由しないよう最倧限
の配慮をした。たた工堎が火事になれば東京に匕き揚げられおしたうずいう虞から防火に
も䞇党の配慮をした。䟋えば、タバコは最も危険なので、喫煙できる堎所を厳栌に定めた
䞊、灰皿には必ず氎を入れさせた。その灰皿の回収にもきちんずしたルヌルを定め、䞇が
䞀にも火事を出さないよう培底した。譊備・倜譊も厳重にした。
山厎久倫は服郚正次の意を受け、諏蚪地域に時蚈の䞀貫補造䜓制を構築するため、工堎
建蚭に八面六臂の掻躍をした。倧和工業・第二粟工舎諏蚪工堎の拡匵・敎備はもずより、
9
浜柀工業を皮切りに盎蜄関連䌚瀟を次々に蚭立した。1959 幎昭和 34 幎倧和工業・第
二粟工舎諏蚪工堎が合䜵し、山厎久倫悲願の諏蚪粟工舎が蚭立される頃には、盎蜄関連䌚
瀟は高朚工業・束島工業・倩竜工業を加えお 4 瀟になっおいた。その埌 1961 幎昭和 36
幎に塩尻工業・信州粟噚が蚭立され、諏蚪・束塩・䌊那地域での腕時蚈䞀貫補造䜓制が
敎った。
もう 1 ぀山厎久倫が力を泚いだのは優秀な倧孊工孊郚卒業生の採甚だった。無名に近い
第二粟工舎諏蚪工堎の責任者の頃から有力倧孊の工孊郚教授を蚪問し孊生ぞの就職斡旋を
䟝頌するずずもに、孊生に諏蚪工堎ぞの就職を勧誘した。その熱心さは矀を抜いおいたず
いう。その熱意ず誠意が通じ次第に教授たちずの関係も深たった。1955 幎東倧工孊郚粟密
機械工孊科卒の安川英昭埌セむコヌ゚プ゜ン瀟長・䌚長、珟盞談圹が第二粟工舎に入
瀟し、山厎の垌望どおり諏蚪工堎に配属になった時には山厎は狂喜したずいう。翌幎 1956
幎には東工倧卒の山村勝矎埌セむコヌ゚プ゜ン副瀟長、珟セむコヌ䌚長ず東倧工孊郚
粟密機械工孊科卒の盞柀進埌セむコヌ゚プ゜ン専務取締圹の 2 名が入瀟した。安川・
山村・盞柀の 3 名は埌幎諏蚪粟工舎そしお゚プ゜ン、セむコヌ゚プ゜ンぞの倧飛躍の原動
力ずなった人材である。そしお 1957 幎以降も優秀な人材が続々入瀟しおくる。
しかし、山厎久倫は䞍幞にしお病に倒れ、1963 幎昭和 38 幎4 月 8 日、たさに働き盛
りの 58 歳の若さで逝去する。葬儀は 4 月 14 日諏蚪粟工舎䜓育通で執り行なわれた。創業
以来の倧黒柱を倱っお、その埌の䜓制ずしお、それたで取締圹に名を連ねおいなかった服
郚正次氏が取締圹䌚長に就任した。珟地垞駐圹員ずしおは束朚邊雄氏が代衚取締圹に就任
した。
垞勀圹員は束朚代衚、西村取締圹、䞭村取締圹の 3 名。それに総務郚長兌䌁画宀長の濱
廣䞀が加わっお 4 名で䌁画䌚議が構成・運営された。
故山厎代衚の功瞟をたたえ、その人柄をしのぶ「誠実努力」の蚘念碑が本瀟蚘念通前に
建立され、1964 幎 8 月 12 日に陀幕匏が行なわれた。
「建碑のこずば」は次のように曞かれ
おいる。
「諏蚪湖畔に股賑を極める時蚈工業は昭和 17 幎 5 月この地に創業された倧和工業に始た
った
東掋のスむスヘの倢は倧和工業から諏蚪粟工舎ぞの道皋に芋事に開花した
これは創業以来䌁業の成長䞀途に献身した山厎堎長の誠実努力の賜である
山厎堎長の功瞟は瀟史を食り其の誠実努力の人ずなりは氞遠に人々に語り継がれるであ
ろう
昭和 39 幎倏
䌚長
10
服郚正次」
マヌベル誕生からクオヌツ・ミニプリンタぞ
戊埌 10 幎を過ぎるず時蚈の生産䜓制も敎い、技術陣も充実しおきた。1956 幎に入っお
それたでのスむス時蚈の暡倣から脱した完党独自蚭蚈の名機マヌベル泚 1が開発商品化
された。それ以降、高玚時蚈ロヌドマヌベルや自動巻きのゞャむロマヌベル泚 2など数々
のメカ時蚈倧ヒット商品を連発した。
1959 幎倧和工業ず第二粟工舎諏蚪工堎の合䜵により諏蚪陣営悲願の諏蚪粟工舎が誕生し
た。その誕生ずずもに、圓時の技術課長䞭村恒也埌の瀟長・珟名誉盞談圹をリヌダヌ
ずする「59A プロゞェクト」ず称する氎晶時蚈開発プロゞェクトがスタヌトした。最初は
時間倖の勉匷䌚からスタヌトしたが、ほずんどの技術者は機械工孊か粟密機械工孊専攻で、
電気・電子工孊の知識がないため、思うように研究が進たなかった。それを憂慮した䞻力
メンバヌの䞀人盞柀進埌セむコヌ゚プ゜ン専務取締圹は母校東京倧孊工孊郚が電子工
孊科を新蚭したこずを知り、囜内留孊蚱可を願い出た。工堎長山厎久倫の了解が埗られ、
週日は東倧で電子工孊の勉匷に没頭し、週末は䌚瀟に戻っお実隓を繰り返すずいう生掻を
幎続けた。1960 幎月以降、電気・電子工孊専攻の孊生が毎幎入瀟するようになる。氎
晶時蚈の開発はやがお軌道に乗っおいった。
氎晶時蚈の開発ずメカ時蚈の高粟床化・高性胜化に自信を埗お 1963 幎からスむス・ニュ
ヌシャテル倩文台の時蚈コンクヌルに参加した。卓䞊型の氎晶時蚈はマリンクロノメヌタ
ヌ郚門で参加早々奜成瞟を残したが、1964 幎から参加したメカ時蚈の成瞟はその幎は振る
わず、期埅はずれに終わった。しかし、1965 幎・66 幎・67 幎ず幎々倧幅に成瞟を向䞊さ
せ、スむス時蚈産業の泚目するずころずなった。1968 幎には遂にメカ時蚈でも実質第 1 䜍
ず思われる抜矀の怜定結果を埗た。ずころが突劂ニュヌシャテル倩文台時蚈コンクヌルが
䞭止されおしたった。想像するに、諏蚪粟工舎が出品したメカ時蚈の怜定結果に驚いお、
䞻催者偎はコンクヌルを䞭止しおしたったのではないかず思う。真盞は分からないが、ス
むス・ニュヌシャテル倩文台の時蚈コンクヌルは遂にその 100 幎の歎史の幕を閉じおした
ったのである。
それはさおおき、実力を蓄えた諏蚪粟工舎を含むセむコヌグルヌプは 1964 幎 10 月に開
催された東京オリンピックの蚈時支揎を党面的に担圓する。セむコヌグルヌプの総垥服郚
正次瀟長の号什䞀䞋グルヌプの総力をあげお取り組む䜓制が䜜られた。この東京オリンピ
ックの蚈時支揎甚に開発した蚈時時蚈・蚈時機噚が諏蚪粟工舎の事業倚角化のルヌツ非
時蚈郚門の自瀟営業の原点ずなる。東京オリンピックの蚈時支揎にあたり、粟工舎・第二
粟工舎・諏蚪粟工舎はそれぞれの埗意技術・持ち味をベヌスに蚈時装眮の開発を分担した。
諏蚪粟工舎が担圓した蚈時装眮の䞭に「卓䞊型氎晶時蚈クリスタルクロノメヌタヌ」ず
「プリンティングタむマヌ」
蚈時ずずもにその蚈時結果を甚玙にプリントアりトできる装
眮が含たれおいた。
卓䞊型氎晶時蚈から腕時蚈ぞの開発商品化努力は東京オリンピックから 5 幎埌、1969 幎
11
の末に䞖界初の氎晶腕時蚈クオヌツアストロン泚 3ずしお結実した。アストロンは発衚
ず同時に倧反響を巻き起こした。クオヌツりォッチは 1970 幎代のセむコヌ黄金時代を先導
したばかりでなく、内䜜䞻芁郚品の半導䜓・氎晶振動子・液晶衚瀺䜓等電子デバむス事業
化の道を開いた。たた、プリンティングタむマヌの印字機構郚分は党面的に蚭蚈倉曎され
お 1968 幎小型電子プリンタ EP101泚 4ずしお商品化された。EP101 は発衚ず同
時に圓時成長途䞊にあった電卓甚の印字装眮ずしお、たた蚈枬噚甚の印字装眮ずしお䞖界
的な反響を呌んだ。EP101 は情報機噚事業発展の尖兵ずなっおいく。
泚 1マヌベル
マヌベルはセむコヌ初の完党独自蚭蚈腕時蚈である。男性甚腕時蚈のムヌブメント倖埄は、それ
たで 10.5 型23.75mmであったが、粟床を䞀局高めるため囜産で初の 11.5 型26mm サむズの
独自蚭蚈ず新しい生産技術を駆䜿したこずにより品質ず生産性が倧幅に向䞊し、垂堎から「健康優
良児」の折玙が぀けられた
仕様
本䞭䞉針
17 石
倖埄 26.0mm―厚み 4.4mm
ムヌブメントサむズ
1957 幎・58 幎の囜産時蚈コンクヌルで通産倧臣賞を受賞。たた、スむス著名ブランド品ず遜色
のない品質ずの評䟡を埗た。
12
泚 2ゞャむロマヌベル
ゞャむロマヌベルはスむスに遅れをずっおいた自動巻腕時蚈でセむコヌが初めお開発した普及
型自動巻腕時蚈である。1956 幎、諏蚪工堎が独自蚭蚈のマヌベル11 型・䞭䞉針・17 石を商
品化したずき、スむスはすでに自動巻時蚈時代に入っおいた。1955 幎、亀戞工堎が、囜産初の自
動巻時蚈を 13,500 円で発売し、続いおシチズン時蚈㈱が 1958 幎に「シチズン・オヌト」を 9,400
円で発売したが、圓時マヌベル 17 石が 4,000 円台で販売されおいたので、普及が進む䟡栌垯に入
っおいなかった。マヌベルの蚭蚈・補造の過皋で培われた技術力が、次の課題であった普及型自
動巻時蚈の商品化ぞの基盀ずなった。安定した品質のマヌベルを有効に利甚し、このベヌスに自
動巻機構を積み重ねる構造に決定し、郚品点数の極めお少ない独自の機構ずしお開発したのが、
ツメレバヌ方匏通称マゞックレバヌである。
1959 幎、ゞャむロマヌベルの商品化に成功。5,900 円で発売され爆発的な人気を獲埗した。以
埌セむコヌの普及型自動巻時蚈は、男性甚・女性甚キャリバヌずもに小型化・薄型化・倚機胜化
の芁玠を付加しながら、この方匏で商品化されおいる。
13
泚 3クオヌツアストロン
スむス゚ボッシュ瀟、米ハミルトン瀟等の電池時蚈開発、米ブロヌバ瀟の音叉時蚈の開発等、1950
幎代埌半の各瀟の腕時蚈の粟床远求の動向の䞭で、諏蚪粟工舎では 1959 幎発足した「59A プロゞ
ェクト」により小型氎晶時蚈の開発が開始された。
1960 幎、オリンピック東京倧䌚の決定・セむコヌの競技蚈時担圓の意思決定により、開発に拍車
がかかった。1963 幎卓䞊型氎晶時蚈が開発され、951 型が商品化された。951 型は翌幎の東京オリ
ンピックで䜿甚された。
オリンピック蚈時甚時蚈の開発ず䞊行しお進められおいた氎晶時蚈の曎なる小型化は、スむス・
ニュヌシダテル倩文台クロノメヌタヌコンクヌルぞの参加の䞭で進められ、ボヌド型から懐䞭型ぞ、
そしお 1967 幎、腕時蚈ずしおスむス CEH 瀟ず諏蚪粟工舎がプロトタむプを完成させた。
このプロトタむプを腕に着甚する条件を満たす技術開発が進められ、1969 幎 12 月 25 日
クオヌ
ツアストロンの発衚・発売ずなった。
この時蚈で採甚した音叉型氎晶振動子、1 秒運針方匏、分散配眮ステップモヌタは、その埌の様々
な技術進歩にも関わらず、りオッチの䞖界暙準ずなっおいる。
14
なお、クオヌツアストロン発売から 35 幎埌の 2004 幎 11 月 25 日、IEEE The Institute of
Electrical and Electronics Engineers,Inc.電気・電子技術者協䌚からマむルストヌン賞が授䞎
された。マむルストヌン賞ずは IEEE が電気・電子技術およびその関連分野においお、瀟䌚に貢献
した重芁な歎史的偉業を称えるために 1983 幎に制定した賞である。これたでに䞖界䞭で 50 以䞊の
マむルストヌン賞が認定されおいるが、日本では八朚アンテナ1995 幎、富士山頂レヌダヌ2000
幎、東海道新幹線2000 幎に続いお番目の受賞である。
泚 4EP101
EP101 は䞖界初の超小型電子プリンタで、“EPSON”のルヌツである。
仕様は 21 桁ドラム型フラむング方匏印字デゞタルプリンタ
特長は
①
小型・軜量幅 16.4、高さ 712、奥行 13.3cm、2.2kg
②
高い信頌性
③
䜎電力電池でも䜜動
④
長寿呜モヌタ無接点トランゞスタモヌタ䜿甚
â‘€
簡単な IC 回路で動䜜
⑥
廉䟡
⑩
電子匏卓䞊蚈算機をはじめずし、あらゆる情報凊理機噚・蚈枬機噚の蚘録装眮ずしお応甚
できる
15
第章
ミニプリンタ誕生ず営業掻動開始
ミニプリンタ EP101 誕生
卓䞊型氎晶時蚈もプリンティングタむマヌも開発責任者は電子課長の盞柀進だった。氎
晶時蚈のりォッチ化は圓然セむコヌグルヌプずしお最重芁テヌマであったが、盞柀は事業
の倚角化に぀いおも匷い関心があった。開発担圓者の䜿呜ずしお時蚈売䞊高の%ぐらいの
芏暡の新芏事業を立ち䞊げたいず垞々考えおいた。
東京オリンピック終了埌、プリンティングタむマヌの印字装眮郚分が商品になるのでは
ないかず考えた。圓時小型の優れたプリンタメカニズムはどこも商品化しおいない。電子
技術が発展すれば、いろいろな電子機噚が開発されるだろうから、小型プリンタの垂堎は
必ずあるず考えた。そうは蚀っおも党おは零からの出発である。開発商品化ぞの道は厳し
く詊行錯誀の連続で困難を極めた。蚭蚈・詊䜜を繰り返し、秘かに詊䜜品を朜圚ナヌザヌ
ず思われる客先に持ち蟌み、客先の感觊を探りながら完成床を高めおいった。そしお 1968
幎遂に掻字ドラム匏のフラむングプリンタ EP101 の商品化に成功する。正匏発衚前に゜
ニヌ、内田掋行、高千穂亀易、日本蚈算機販売、早川電機珟シャヌプ、日本無線、岩厎
通信機などから匕き合いを受け生産䜓制を敎えおいった。ずいっおもスタヌトは生産技
術・組立技術・生産管理ず組立・調敎䜜業員党郚合わせお 10 数名のこじんたりしたグルヌ
プからだった。1968 幎 9 月 12 日 EP101 が発衚されるず前述の劂く、囜内倖の電卓メヌ
カヌ、蚈枬噚メヌカヌを䞭心に倧きな反響を呌んだ。リコヌ、日本オリベッティ、束䞋通
信、キダノン、䞉菱電機、䞉掋電機などからも匕き合いを受けた。生産䜓制増匷・敎備は
埅ったなしの状況になっおきた。この頃になるず翌幎 1969 幎初めには月産 2000 台の生産
胜力、埌半には月産 5000 台の生産胜力確保にむけお必芁な機械蚭備投資、工堎建物の確保、
人員の手配などの諞蚈画が具䜓化しおくる。組立䜜業は 1970 幎 4 月には信州粟噚に移管す
るこずが想定されおいた。
EP101 の事業化にあたり盞柀を倧きく勇気づけたこずのひず぀は、圓時 SOBAX ずい
う電卓を商品化しおいた゜ニヌの井深倧瀟長に EP101 を芋おもらったずきの反応だった。
井深瀟長は「玠晎らしい。こんな粟密機械ず゚レクトロニクスを融合した機構は゜ニヌで
はできない」ず唞ったずいう。さらに井深瀟長は「このプリンタを゜ニヌで独占的に䜿わ
せおくれないか」ずいう芁望もだしたずいう。しかし、残念ながら、゜ニヌはその埌「SOBAX
は゜ニヌの事業ポリシヌに合わない」ずいうこずで電卓事業から撀退しおしたい、ビゞネ
スには結び぀かなかった。その゜ニヌの事業ポリシヌずは「誰もやらないもの」、「䞖界最
初のもの」、
「顧客を感動させるもの」の぀だった。
自瀟営業の起源
営業は圓時の垞識に埓えば、セむコヌグルヌプでは服郚時蚈店の担圓ずいうこずになる
が、EP101 の堎合、OEM ベヌスの䞭間補品であっお、最終仕様決定たでに客先ずの間
16
で技術的な打ち合わせ事項が倚く、どうしおも技術者の助けを借りなければ正匏契玄たで
持ち蟌めない。服郚時蚈店で扱う時蚈のような完成品ずはわけが違うずいうこずで、圓時
の服郚䞀郎専務の決裁を受け、営業は工堎の諏蚪粟工舎が盎接行うこずになった。盞柀課
長傘䞋の開発䞀課に営業スタッフが眮かれるこずになり、補造課䜜業係長だった雚宮照倫
埌゚プ゜ン販売垞務取締圹が諏蚪粟工舎第 1 号の営業マン係長に起甚された。雚
宮にずっお圓然営業は初䜓隓。瀟内に営業経隓者は党くいないわけだから、すべお詊行錯
誀の連続のなかで営業の仕事に取組たねばならなかった。しかも、生産はただパむロット
ランレベル、客先に持ち蟌むサンプルすら思うように䞊がっおこない状況の䞭での営業掻
動を匷いられた。それこそ倜蚎ち朝駆け、諏蚪ず東京・倧阪方面の客先ずの間を埀埩する
毎日が続いた。
1968 幎 7 月内田掋行ずの取匕契玄、12 月には高千穂亀易ずのバロヌスぞの茞出取匕契玄
がたずたった。1969 幎に入っおさらに客先ずの取匕契玄が増えおくるず開発䞀課䞭心の生
産・営業䜓制では間に合わなくなり、本栌的な事業組織を線成しなければならなくなった。
「事業責任者を誰にするか」トップマネゞメントが考え始めた頃、極めお異䟋のこず
であるが、開発䞀課長の盞柀進ず䌁画課長兌庶務課長の土橋光廣埌セむコヌ゚プ゜ン専
務取締圹、゚プ゜ン販売瀟長が二人そろっお名乗りを䞊げた。二人のコンビでぜひプリ
ンタ事業をやらせお欲しいずいう。申し出を受けたトップマネゞメントは驚いた。「二人の
情熱・意気蟌みはわかるが、プリンタはそこたで有望な事業なのだろうか」。盞柀はクオ
ヌツりォッチの開発も抱える開発郚門の゚ヌス、土橋は次代の事務郚門を担う゚ヌスであ
る。二人ずも䜙人をもっお代えがたい。どちらも盎属䞊叞の䞭村垞務ず濱取締圹埌セむ
コヌ゚プ゜ン副瀟長、2005 幎 12 月逝去が簡単に銖を瞊に振れる人材ではない。圓然「埅
った」がかかった。
しかし、1969 幎 5 月プリンタの事業化組織「粟機グルヌプ」がいよいよ発足する時点で、
濱取締圹は土橋課長の粟機グルヌプ転出にゎヌサむンをだしたが、䞭村垞務はただ盞柀課
長の転出を保留した。1969 幎 5 月 21 日発足の粟機グルヌプ「郚レベル」は 3 課線成だ
った。業務課・蚭蚈課・補造課である。郚長は䞭村垞務が兌務、郚付兌業務課長兌補造課
長に土橋光廣が就任した。盞柀は開発䞀課長のたた、粟機グルヌプの蚭蚈課長を兌務した。
盞柀を補䜐する蚭蚈課付には工機蚭蚈課から転じた阿郚健次郎埌セむコヌ゚プ゜ン取締
圹が発什された。プリンタの蚭蚈には小さな腕時蚈の蚭蚈者よりも倧きな工䜜機械の蚭
蚈者のほうが適任だろうずいう刀断だった。
営業は業務課営業係が蚭けられ、係長雚宮照倫以䞋、営業技術担圓の海保囜圊開発䞀
課から異動。1970 幎退職、ベンチャヌ䌁業メック゚ンゞニアリングの蚭立に参加、そしお
物の売買、商取匕の知識・経隓・センスのある人材ずしお資材課から異動した朚村䞈倫埌
゚プ゜ン販売専務取締圹、業務課から異動した山根正矩埌情報機噚営業本郚長、゚プ゜
ンシンガポヌル瀟長、そしお 4 月入瀟の新人䞹矜憲倫埌゚プ゜ンアメリカ瀟長、セむコ
ヌ゚プ゜ン副瀟長が配属された。セむコヌ゚プ゜ン営業の元祖・オリゞナルファむブで
17
ある。
海倖垂堎に関しおは海保囜圊の倧孊同期生1960 幎早皲田倧孊理工孊郚電気通信工孊科
卒が䌊藀忠にいるずいう瞁がきっかけずなっお、䌊藀忠商事の航空機電子機噚郚が積極
的に取組んでくれるこずになった。圓時日本の総合商瀟に関しおは、組織の䞉菱・人の䞉
井ずいわれおいたが、その向こうを匵っお䌊藀忠はみずから「戊略の䌊藀忠」ず称しおい
た。EP101 を取り扱った航空機電子機噚郚はその戊略郚門の 1 ぀であり、若く有胜な人
材が雲集しおいた。
囜内は自瀟盎接営業、海倖は䌊藀忠を代理店にするずいう営業䜓制で受泚掻動が積極的
に掚進された。
信州粟噚広䞘工堎誕生
その受け皿ずなる生産䜓制に関しおは、トップマネゞメントは 2 ぀の道のいずれを遞択
すべきか怜蚎しおいた。1 ぀は工堎芏暡、生産䜓制を受泚に応じお挞進的段階的に増匷しお
いく方法である。もうひず぀は䞀気に倧量生産工堎を建蚭しお、圧倒的なシェアの確保ず
創業者利益の享受を狙う方法である。熟慮の結果、トップマネゞメントは埌者の倧量生産
工堎建蚭の意思決定をした。囜内垂堎で早川電機珟シャヌプが電卓甚印字装眮に採甚
を決めたこず、そしお圓時有力だったモンロヌ・ビクタヌ等海倖の電卓メヌカヌずの商談
を進めおくれおいた䌊藀忠の䞖界垂堎確保ぞの匷い思いがトップマネゞメントの意思決定
を埌抌ししたこずは想像に難くない。かくしお信州粟噚広䞘工堎の建蚭が決たり、JR 広䞘
駅に近い囜道 19 号線沿いに階建おのオフィスの前面すべおがガラス匵りずいうアメリカ
ンスタむルの近代的な工堎が 1970 幎倏に完成し、10 月から操業を開始するこずになる。
広䞘工堎完成以前の 1969 幎 11 月、諏蚪粟工舎の粟機グルヌプは発展的に解消し、信州粟
噚に移籍する。広䞘工堎が完成するたで村井工堎に間借りする圢で信州粟噚広䞘工堎長䜓
制特噚事業郚が発足した。この段階で䞭村垞務は盞柀のプリンタ事業ぞの専念にゎヌ
サむンを出した。信州粟噚広䞘工堎特噚事業郚盞柀工堎長事業郚長・土橋次長䜓制
の船出である。2 人は自由闊達・創造ず挑戊の䌁業文化を醞成すべく新生広䞘工堎をリヌド
しおいった。
プリンタ事業は順調に䌞びおいった。1970 幎には新卒・䞭途の採甚で、営業郚隊も匷化
された。EP101 に続いお電卓専甚の Model102 も商品化された。たた、電卓以倖で倧
きな需芁が芋蟌たれる垂堎ずしお垂堎に泚目し、電子レゞスタ甚のシヌトプリン
タレシヌトずゞャヌナルの぀のシヌトに同時印刷や銀行テラヌ甚の䌝祚印刷プリン
タなど機皮の開発商品化も進められおいた。
営業キヌパヌ゜ンの入瀟
1971 幎 2 月、゚プ゜ンのその埌の営業の発展に倚倧な圱響を䞎えたキヌパヌ゜ンが入瀟
する。坪田安匘埌゚プ゜ンアメリカ瀟長・セむコヌ゚プ゜ン垞務取締圹
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1991 幎月退
任。その埌キダノン・アメリカに入瀟である。前述した海保囜圊の倧孊時代の同玚生ず
いうのは実はこの坪田のこずである。海保が坪田に接觊したずき、坪田は䌊藀忠から合匁
子䌚瀟 CDC ファヌむヌストに出向しおいた埌に移籍
。海保は坪田を諏蚪粟工舎の営業
に匕き抜きにかかった。海保の玹介で、プリンタの発明者であり、開発を䞀線でリヌドし
おいた開発䞀課係長の今橋䞀成埌特噚開発課長、1970 幎ベンチャヌ䌁業メック゚ンゞニ
ア蚭立を䞻導、瀟長ずなるやその仲間の開発メンバヌず䌚っおその技術的ポテンシャル
に将来性を感じ取り、自ら海倖営業に乗り出せる可胜性を芋出した坪田は諏蚪粟工舎ぞの
転職を決断した。しかし、皮肉なこずに今橋、海保はミニコン甚ラむンプリンタの開発・
事業化が盎属䞊叞の盞柀課長や諏蚪粟工舎のマネゞメントに受け入れられないこずを䞍満
ずしお、ベンチャヌ䌁業メック゚ンゞニアリングを蚭立しお退職しおしたっおいた。坪田
は圓然驚き、がっかりもしたが、すでに決めたこずだずしお諏蚪粟工舎に入瀟し、即日信
州粟噚広䞘工堎に䌑職出向した。
坪田は営業䌁画課長ずいうタむトルで、信州粟噚広䞘工堎で勀務を初め、翌幎 1972 幎 4
月に信州粟噚東京営業所を開蚭しお、䞻ずしお新芏事業の営業開拓に着手した。この時点
で、信州粟噚の営業郚隊は電卓甚の囜内営業を担圓する広䞘工堎の業務課ず東京営業所の 2
本立おずなった。業務課は課長雚宮照倫、䞻任山根正矩ずいう垃陣、東京営業所は電卓甚
途以倖のプリンタ蚈枬甚・POS 甚他の囜内販売、䌊藀忠商事他ずの茞出窓口、新芏事
業の調査・䌁画を担圓し、所長坪田安匘、䞻任朚村䞈倫、同浜田昭圊ずいう垃陣だった。
広䞘業務課ず東京営業所の 2 本立お䜓制ずなる頃には、プリンタの販売は軌道に乗り始
めおいた。ずくに 1972 幎は電卓甚プリンタが急成長した幎で、幎初の月産 2 䞇台䜓制から
幎末にはなんず月産 8 䞇台䜓制に拡倧するずいう倧増産に取り組んでいた。新補品
Model-104 の商品化も進められた。
参考たでに、信州粟噚株特噚事業郚が蚭立された 1969 幎 11 月から 1975 幎 4 月た
でのプリンタの売䞊成長蚘録を玹介するず䞋蚘のずおりである。
期
数量
売䞊金額
1970 幎 4 月期69 幎 11 月70 幎 4 月の 6 ヶ月
2 侇 7 千台
7 億 5 千䞇円
1971 幎 4 月期70 幎 5 月71 幎 4 月
9 侇 7 千台
23 億 6 千䞇円
1972 幎 4 月期71 幎 5 月72 幎 4 月
28 侇 6 千台
50 億 9 千䞇円
1973 幎 4 月期72 幎 5 月73 幎 4 月
82 侇 5 千台
110 億 1 千䞇円
1974 幎 4 月期73 幎 5 月74 幎 4 月
131 侇 8 千台
146 億 1 千䞇円
1975 幎 4 月期74 幎 5 月75 幎 4 月
148 侇 5 千台
152 億 4 千䞇円
坪田は信州粟噚東京営業所のオペレヌションを軌道に乗せるべく垂堎開拓・拡倧の指揮
を執ったが、実務は䞻任の朚村䞈倫以䞋スタッフに任せた。坪田の郚䞋指導スタむルは郚
䞋の自䞻性・独立性重芖で、自由な発想・自䞻的な責任ある行動を求めた。毎日倕方 5 時
19
を回る頃、仕事にひず区切り぀いた郚䞋達が䞉々五々坪田の所長宀に集たっおくる。坪田
を囲んだ攟談䌚の始たりだ。広䞘工堎蚭蚈課での新補品蚭蚈状況に぀いおの問題点や生産
管理課での生産手配状況・玍品ぞの圱響、客先からの受泚芋通し、新補品動向など話題は
䜕でもありだった。坪田はどんな問題に぀いおも明確か぀積極的に持論を展開した。その
話ずそれを呌び氎にした皆の意芋がぶ぀かり、たくたずしお実践教育の堎ずなった。ただ、
坪田のビゞョン・本圓のねらいは、もっずスケヌルの倧きい雄倧なものだった。海倖営業
を䌊藀忠に委ねるのではなく、信州粟噚が自らの手で䞖界䞭に自瀟補品を販売できるよう
にするこずだった。坪田が早く行動を起こさなければならないず匷く意識したのは䌊藀忠
が航空機電子機噚郚のディビゞョンカンパニヌ、CIE䌊藀忠゚レクトロニクスを米囜に
蚭立した 1973 幎だった。このたた静芳すれば䌊藀忠から営業暩を取り戻すこずは困難にな
る。日本の商慣習䞊、䞀床枡したプリンタの営業暩はそうは簡単に䌊藀忠から返しおもら
えないうえ、䌊藀忠に倧きな投資をさせおしたったら、なおさら営業暩を取り戻すこずは
困難になる。だから突砎口ずしおはコンピュヌタ呚蟺端末関連の新芏分野商品を開発しお
それをきっかけに自ら䞖界垂堎に乗り出そうずいうのだ。盞柀事業郚長はそのアむデアを
受け入れ、自ら諏蚪粟工舎の特噚開発郚長を兌務した。特噚開発郚は盞柀郚長の指揮の䞋、
工機蚭蚈課長から転じた藀原課長埌セむコヌ゚プ゜ン取締圹ず開発出身の䞭村課付埌
゚プ゜ン取締圹、1985 幎 2 月自ら蟞任し、退職。その埌京セラ垞務取締圹・タむトヌ瀟長
を䞭心に自由奔攟か぀積極的に新芏ゞャンル補品の開発に取組んだ。藀原課長はドットプ
リンタや玙テヌプパンチなどのメカトロ商品を軞にし、䞭村課付は電子機噚に照準を合わ
せおいた。たた諏蚪粟工舎の開発郚山村郚長でも「ミニドラム」ずいう超小型磁気蚘
憶装眮の開発に取り組むグルヌプがあった。プリンタ事業の成功は諏蚪粟工舎の新芏事業
熱に火を぀けおいた。「プリンタに続け俺達も新芏事業を起こそう」である。
1973 幎信州粟噚ロスアンれルス駐圚員事務所が蚭立され、駐圚員ずしお䞹矜憲倫が掟遣
された。そしお翌幎 1974 幎、坪田自らロスアンれルス駐圚員事務所長ずしお枡米した。圓
面のサポヌトが仕事の䞭心であるが、玙テヌプパンチ、同リヌダヌ、マヌクカヌド
リヌダヌ、ミニ磁気ドラムなどの新補品が商品化されおきたので、その販売掻動の準備を
するためだった。翌幎 1975 幎には EPSON America, Inc.が蚭立された。いよいよ信州粟噚
自らの手によるグロヌバル販売展開の開始である。EPSON America, Inc.はその埌数幎間、
飛躍のための準備期を過ごす。本栌的な飛躍は埌述するずおり、パ゜コン甚タヌミナルプ
リンタ MX80ドット・むンパクトプリンタのディストリビュヌション販売を開始す
る 1980 幎以降である。
たた、1979 幎末には欧州販売法人ずしお EPSON Deutschland GmbH ず EPSONUK
Ltd.が盞次いで蚭立された。
20
第章
゚プ゜ンブランド誕生
EPSON America, Inc.蚭立の話が先行しおしたったが、ここで゚プ゜ンブランド誕生の
いきさ぀を玹介しおおきたい。
プリンタ事業が軌道に乗るに぀れ、いかに䞭間補品ずはいえ補品に貌られるラベルの生
産者名にブランドがなく、ただ“SHINSYU
SEIKI”だけでは具合が悪い、「ブランドが
ほしいね」ずいう声が湧き䞊がっおきた。1974 幎になるず土橋次長が䞭心になり、トップ
マネゞメントは蚀うに及ばず、管理職・営業スタッフなど関係者からブランドのアむデア
を求めおは、商暙登録の有無を怜蚎した。しかし、よいず思われる案は既に登録枈みであ
ったりしお、なかなか決たらなかった。1975 幎、もうタむムリミットだずいうこずで、土
橋次長が公募で求めたブランド案や自ら案出したブランド案、合蚈぀の案に絞り蟌んで
諏蚪粟工舎の垞務䌚審議に付した。垞務䌚審議の結果、意味づけがもっずもはっきりしお
いる“EPSON”が遞ばれた。プリンタ第䞀号機“EP101”の“EPElectronics Printer”
がたくさんの息子“SON”を生み出すようにずいうこずである。この「EPSON」ブランド
の案画者は土橋光廣自身だった。垞務䌚でのブランド決定埌、土橋はこの「EPSON」の頭
文字をずっお“EPSON モットヌ”を䜜成した。新進情報機噚メヌカヌの心意気をしっかり
ず謳いあげたモットヌである。
E  EXCELLNT
゚プ゜ンの卓越した技術ず優れた商品で瀟䌚に貢献しょう。
P  PROUD
゚プ゜ンに誇りをもずう。
S  STRONG
匷靭な゚プ゜ンを育およう。
O  ORIGINAL
創意を生かしみんなで明日の゚プ゜ンを考えよう。
N  NEWER
珟状を打砎し、未来に向けお垞に゚プ゜ンの革新をはかろう。
「EPSON」ブランド登録たでにはいく぀かの障害もあった。最も厄介だったのはアメリ
カの゚ク゜ン瀟から類䌌商暙のクレヌムが぀き係争問題ずしお生みの苊しみを味わわされ
たこずだ。しかしこれも業界がたったく違うずいうこずでクリアされ晎れお「EPSON」ブ
ランドは確立された。
裏話をもうひず぀披露するず、EPSON ブランドの制定日が 1975 幎月 12 日なのに察
し、EPSON America, Inc.の蚭立日が 1975 幎月 1 日ず順序が逆になっおいるこずだ。こ
れはトップマネゞメントのニュヌス性を考えた戊略による。日本人は「新しいものをなか
なか玠盎に認めない。アメリカや欧州で認められたものが日本に入っおくるず盎ぐに認め
る」ずいう習性がある。ずすれば、アメリカの販売子䌚瀟に先にブランド名を冠した瀟名
を぀けお実瞟を䜜り、それをブランドずしお日本に逆茞入する圢をずろうずいうわけであ
る。
かくしお䞖界のブランド「EPSON」は栄光の道ぞ諷爜ず登堎した。
21
第章
゚プ゜ンブランドの完成品商品情報機噚完成品事業の起源
䌚蚈事務所専甚オフィスコンピュヌタ
諏蚪粟工舎特噚開発課・課付䞭村玘䞀が最初に手がけたのは OEM ベヌスでの POS 端末
ずそのシステムであったが、OEM は盞手の郜合に振り回され、か぀ビゞネスずしおも䞍安
定なので、゚プ゜ンブランドを冠したシステム商品をなんずしおも開発したいず考えおい
た。考え抜いた結論は財務䞉衚ずいう共通゜フトを開発すれば個別察応をする必芁がない
「タヌンキヌ」型の䌚蚈事務所専甚オフィスコンピュヌタの商品化だった。ディスプレむ・
プリンタ・倖郚蚘憶装眮すべおを組み蟌んだ䞀䜓型の䌚蚈事務所専甚オフィスコンピュヌ
タ“EPSON
EX”
泚 5は諏蚪粟工舎・信州粟噚初の゚プ゜ンブランド完成品ずし
お 1977 幎月に販売が開始された。
゚プ゜ンブランド完成品事業の鍵は営業だった。プリンタのように OEM でメヌカヌに盎
接販売するわけにはいかない。台台自分の手で゚ンドナヌザヌに盎接売るか、それで
は手数がかかりすぎるので代理店販売にするか、いずれかである。戊力のない諏蚪粟工舎・
信州粟噚ずすれば代理店販売以倖に遞択肢はない。この新しい営業のチャレンゞに起甚さ
れたのが斉藀博矎埌゚プ゜ン販売取締圹・メディアむンテリゞェント瀟長である。斉
藀は諏蚪粟工舎業務課ず県鏡事業の業務の仕事を経隓した埌、信州粟噚に䌑職出向しおき
た。個性の匷い「暎れん坊」であったが、たったく未知の代理店ルヌト開拓にはうっお぀
けの男であった。ずにかく物怖じしない。信じ蟌んだら呜がけである。郚䞋になる営業マ
ンの人集め、代理店の開拓、゚ンドナヌザヌずの商談支揎等で日本党囜飛び回った。
斉藀は瀟内あらゆる郚眲から、「これは」ず思う人材を EXの営業に匕き抜いた。技
術・補造・経理・業務等皮々雑倚な職皮経隓者が営業マンになり、それぞれ自分自身で工
倫しお財務・䌚蚈の知識を吞収しお EXの売蟌みに取り組んだ。営業を経隓しお、創意
工倫を重ねながら察人折衝により成果を生み出す営業の魅力にずり぀かれるものが倚かっ
た。斉藀は、たた、党囜各地に有力な代理店を開拓しおいったが、斉藀の功瞟のなかでも
最も倧きいものずしお特筆されるのは倧塚商䌚に EXの代理店になっおもらったこず
だろう。「東京地区に EXを売るためにはなんずしおも倧塚商䌚に代理店になっおもら
わなければならない」そう信じこんだ斉藀は䜕床はね぀けられおも、その郜床新しい䌝手
を求めおは倧塚商䌚に食い䞋がった。䞊叞の䞭村玘䞀は蚀うに及ばず、最高責任者の盞柀
にも盎蚎しお動かし、぀いに倧塚商䌚の倧塚実瀟長を口説き萜ずした。
営業網も 1977 幎に東京営業所を蚭眮した埌、翌 1978 幎 10 月には倧阪営業所を蚭立し
た。以降名叀屋、仙台、広島、札幌、犏岡、ず党囜に営業所網を拡倧しおいく。営業所長
など基幹営業担圓者は瀟内人材の掻甚だけではたったく足りないので、積極的に䞭途採甚
した。䞭心になったのは日本 NCR からの転職者達だった。東京の登坂埁治、名叀屋の森茂
光、札幌の珊瑚祐二、犏岡の䞊田芳郎など埌幎゚プ゜ン販売や゚ヌ・アむ・゜フトなどで
圹員に名を連ねる人材がこの頃入瀟しおいる。
22
泚 5EX-1
䌚蚈事務所向専甚オフィスコンピュヌタ EXぱプ゜ンずしお初めおの゚ンドナヌザヌ向け
EPSON ブランド完成品商品である。
アりトプット郚分に、鮮明な印字品質、高速にプリントアりトする圓瀟補のラむンプリンタ M
2610 を暙準装備。キャラクタヌディスプレむ、ゞャヌナルプリンタM102の 2 機構を装備
し、システム化するこずにより、機械操䜜が簡単、正確にこなせる䌚蚈事務所のニズに基づい
お専甚゜フトを開発。
この EX1 の技術を応甚し、その埌、医療事務凊理専甚コンピュヌタ、ガ゜リンスタンド専甚
オフコンも開発。
【゜フトりェア仕様】
OS から開発環境たでを自瀟開発。゜フトりェア開発蚀語では、アセンブラをベヌスにしたマク
ロ蚀語を自瀟開発し、開発効率の向䞊を図った。たた、業務アプリケヌション蚭蚈段階では、䌚
蚈事務所での実䜜業を経隓し的確なニヌズの把握をするこずで完成床を向䞊させおいる。
䌝祚入力、仕蚳日蚘垳、元垳、合蚈残高衚、月次財務報告曞、決算報告曞等䌚蚈事務所の日垞
業務すべおに村応し、枛䟡償华・固定資産台垳、絊䞎蚈算・幎末調敎たで察応するパッケヌゞプ
ログラム。
タヌミナルプリンタ
EXに続く商品開発にも䞭村玘䞀は積極的に取り組んだ。パ゜コンの台頭によりパ゜
コン甚プリンタの需芁が増えるず芋お取るや、信州粟噚で商品化されおいた 80 桁のドット
プリンタメカを䜿甚しおプリンタ完成品を開発、1979 幎タヌミナルプリンタ TP80 ず名
づけお発売した。このタヌミナルプリンタの販売はオフコンの代理店では無理なので新た
に蚪販系の菱掋電機珟菱掋゚レクトロニクスず店頭系の関東電子瀟を代理店に蚭定
した。
タヌミナルプリンタは日本囜内よりも米囜・欧州に倧きな垂堎があり、海倖向けは TX
23
80 ずしお販売された。しかし、これたで OEM 販売䞭心で進めおきた海倖販売䜓制では爆
発的に売れるずいうわけには行かなかった。この時点で倧量生産を可胜にした救いの神は
アメリカに本拠をおくパ゜コンメヌカヌ・コモドヌル瀟だった。TPTX80 の EPSON
ブランド販売が、日本で月に 200300 台、欧米が月に 10001200 台あわせお 13001400
台前埌ずいうずきに、コモドヌルは月に 3000 台4000 台ずいう発泚をしおくれた。その
おかげでタヌミナルプリンタの倧量生産䜓制を構築するこずができた。
タヌミナルプリンタのブランド販売が軌道に乗るのは名機 MPMX80泚 6が 1980
幎に登堎しおからである。MPMX80 はデザむンは「セクシヌ」
、仕様・性胜・印字
品質にすぐれるずずもにプリンタ党䜓の品質・信頌性も抜矀、垂堎䞍良率は他瀟に比べお
圧倒的に䜎かった。か぀補造にあたっおは「電卓䞊みのコスト」を目指したのでコスト競
争力は抜矀ずいう非の打ち所のないプリンタだった。坪田はアメリカでディストリビュヌ
ションネットワヌクの構築に本栌的に取り組んだ。最初は党米に独立系のディストリビュ
ヌタ 16 瀟を蚭定し、䞀気に MX80 の販売を軌道に乗せるが、将来ディヌラヌを盎接コン
トロヌルするには自前のディストリビュヌションネットワヌクが必芁ず刀断、極秘で党米
12 瀟の 100出資ディストリビュヌション子䌚瀟蚭立を䌁画し、12 人の CEO をこれも極
秘で採甚したうえで、電光石火、16 瀟の独立系ディストリビュヌタ宛に䞀斉に取匕停止の
事前通知を発送し、3 ヵ月埌に子䌚瀟経由の販売に切り替えた。その日のあるこずを想定し、
坪田は独立系ディストリビュヌタずは䞀切文曞による取匕契玄を取り亀わしおいなかった。
たた独立系ディストリビュヌタず個別に取匕䞭止の亀枉をするず蚎蚟されるが、16 瀟䞀斉
の取匕䞭止ならば蚎蚟リスクはたずないだろうずいうこずを事前に匁護士に確認したうえ
でのこずだった。もちろん蚎蚟に備えお䞇党の準備はしおいたが、これが契玄倧囜アメリ
カで䜕の蚎蚟も起こされずに子䌚瀟経由の販売に切り替えられた理由である。ディストリ
ビュヌション子䌚瀟の CEO ずは 3 幎間の雇甚契玄を結び、適切な報酬ず 3 幎埌の目暙達成
の暁には巚額のむンセンティブボヌナスが支絊されるこずになっおいた。この措眮により
アメリカでのタヌミナルプリンタの販売はさらに加速化しお䌞びた。この自前ディストリ
ビュヌタ網の構築ずそれによる販売の垂盎立ち䞊げずいう販売むノベヌションは前䟋のな
い画期的な手法である。なお、海倖垂堎で MX80 が業界のデファクトスタンダヌドずな
ったのは IBM が新補品 IBM
PC 甚の暙準プリンタに MX80 を OEM 調達しおくれたお
かげもある。
日本囜内垂堎も MP80 の垂堎導入によっお、TP8040 の時代に比べるずタヌミナ
ルプリンタの販売は飛躍的に䌞びた。ただし、圓初はピンのドット構成だったため、カ
ナ、アルファベット、数字、蚘号しか印字できなかったため、日本垂堎向けには物足りな
かったが、1985 幎に挢字の印刷が可胜ずなる 24 ピンのドットマトリックスプリンタが商
品化されるず、䞀気に垂堎が拡倧する。
24
泚 6MPMX80
囜内向けは MP80海倖向けは MX80 の商品名で販売された。囜内・海倖の商品名を分けた
のは、電源等の仕様に違いがあるこずを理由に囜内・海倖の販売䟡栌の違いを正圓化しお、ダンピ
ング提蚎などのリスクを避けるためであった。
MPMX80 はパヌ゜ナルナヌスを目的に開発・商品化された。営業・蚭蚈・技術郚門が䞀䜓
ずなっお新補品䌁画に参画するプロゞェクトを組織し開発を掚進した。その結果、
●倚皮倚様なパ゜コンの出珟に察応する接続可胜な仕様
●培底した操䜜性の远求
●芪しみのもおるデザむン
●補造郚門での぀くりやすさを考えた蚭蚈
●コストタヌゲットの蚭定
●取扱説明曞の充実、パ゜コン雑誌での玹介、掻甚ガむドの出版
等が実珟でき、その仕様・性胜・信頌性の抜矀の高さずあいたっお業界のデファクトスタンダヌド、
ベストセラヌプリンタずなった。
販売網を生かす
― ハンドヘルドコンピュヌタずパ゜コン
タヌミナルプリンタの次に䞭村玘䞀が取り組んだのがハンドヘルドコンピュヌタ HC
HX20泚 7ずパ゜コン QCQX10 だった。1981 幎末に発衚され、1982 幎
から本栌的に発売された。ハンドヘルドコンピュヌタはバヌチカル・マヌケット向け、パ
゜コンはスモヌルビゞネス向けを䞻に想定しおいた。欧米では構築した販売網を生かし、
補品ラむンアップを拡倧する戊略であった。パ゜コンは激しい競争の䞭、苊戊したがハン
ドヘルドコンピュヌタはバヌチカル・マヌケット向けに倧きな反響を呌んだ。アゞアにも
シンガポヌル、銙枯、台湟に盞次いで販売拠点が䜜られた。
1980 幎代初頭の急速な欧米販売網の充実に比范するず、日本のディストリビュヌション
25
ネットワヌクはオフコンの代理店網ずタヌミナルプリンタのディストリビュヌタ瀟が䞭
心で、欧米に比べおやや立ち遅れの感はあったが、菱掋電機・関東電子傘䞋のディヌラヌ
ずの結び぀きを匷化する方策を講じたり、たた新卒・䞭途の採甚を匷力に掚進し䜓制の匷
化をはかった。
広告宣䌝面で忘れおならないのは 1983 幎から“ハラダ・レヌシング・カンパニヌ
”ずスポンサヌ契玄し、81 幎・82 幎ず幎連続党日本グランプリで優勝したドラ
むバヌ䞭嶋悟をむメヌゞキャラクタヌに採甚したこずである。モヌタヌスポヌツず゚プ゜
ン、理屈はいろいろ぀けられるだろうが、䞡者の共通項は「昇り調子」。やがお䞭嶋悟は自
ら䞭嶋䌁画を興し、ドラむバヌずなっお䞖界に矜ばたいおいく。䞭嶋の独立埌も゚プ
゜ンは䞭嶋䌁画ぞの支揎を継続した。䞭嶋悟もそれに恩矩を感じ、1987 幎から 1994 幎た
で幎間、゚プ゜ンのパ゜コンず液晶テレビのコマヌシャルキャラクタヌを務めた。
泚 7HCHX20
囜内向けは HC20海倖向けは HX20 の商品名で販売された。理由は MP80・MX80 の
堎合ず同じ。
HC20 はキヌボヌド、ディスプレむ、マむクロカセット、プリンタを䞀䜓に組み蟌んだ䞖界初
のハンドヘルドコンピュヌタである。ボディはビゞネスサむズの刀、重量は 1.7kg ず軜量、バ
ッテリヌによる駆動のためい぀でも、どこでも簡単に操䜜できる。その他の特長は䞋蚘のずおり。
ナニヌクなハヌドりェア
CMOS 8bit
CPU を 2 個搭茉したデュアル CPU タむプ。これにより IO の分散凊理が
可胜。たたメモリをすべお CMOS 化するこずにより、培底した䜎消費電力化を図り、通垞バッ
テリヌで玄 50 時間駆動。メモリ容量も RAM16KB、ROM32KB ず倧容量を実珟。
匷力な゚プ゜ン BASIC を搭茉
゚プ゜ン BASIC は米マむクロ゜フト瀟の最新 BASIC をベヌスに、HC20 の機胜を生かす
コマンドを倧幅に匷化、充実した拡匵 BASIC を搭茉。この他、独立した 5 本の BASIC プログ
ラムが管理できるなど、入出力デバむスをすべおサポヌト。
優れた拡匵性
本䜓ぞ CMOS ROM を 8KB 増蚭できる他、拡匵ナニットを䜿甚するこずにより、さらに
CMOS RAM
16KB、CMOS ROM を 16KB たで拡匵できる。この他、呚蟺装眮ずしおデ
ィスプレむコントロヌラ、音響カブラ、プリンタ、フロッピヌディスクドラむブ等を甚意。
通信機胜をサポヌト
RS232C ポヌトを暙準装備しおおり、オプションの音響カブラCP20ずの組み合わせ
で、公衆電話回線を利甚したデヌタの送受信が可胜。たた別のパヌ゜ナルコンピュヌタも凄続
でき、デヌタ゚ントリヌマシン、ワヌクステヌションずしお掻甚できる。
26
第章
液晶衚瀺䜓事業の起源
諏蚪粟工舎の液晶衚瀺䜓の研究開発は圓然のこずながら、デゞタルクオヌツりォッチの
ディスプレむに甚いるこずを目的に開始された。デゞタルクオヌツりォッチは実はセむコ
ヌが䞖界初のアナログ匏クオヌツりォッチ 35SQ を 1969 幎に発売する以前に、アメリカで
商品化されおいる。
「時間の制埡から衚瀺たで、すべおを電気的に行なう」ずいうのが 1960
幎代から 70 幎代にかけおの時代の気分で、これに最初に応えたのが米囜のハミルトン瀟だ
った。ハミルトンは 68 幎 LED発光ダむオヌドを衚瀺に䜿った「パルサヌ」を発売し、
䞖界的なブヌムを巻き起こす。しかし、LED は暗闇では良く芋えるが、癜昌では芖認性が
悪い。それ以䞊の問題は消費電力が倧きすぎお垞時衚瀺ができない。時間を確認したいず
きに抌しボタンをおしお衚瀺させるずいう方匏だった。これでは残念ながら、りォッチず
しおは䞍適栌である。
「パルサヌ」のブヌムは長くは続かなかった。䞀方、68 幎月、米囜
の RCA 瀟が液晶ディスプレむを開発し、クロックに搭茉したずいうニュヌスが䌝わっおき
た。それを聞き぀けた第二粟工舎取締圹開発郚長遠山正俊は服郚正次瀟長の了解を取り付
け る ず 即 刻 ç±³ 囜 の RCA 瀟 に 飛 び 、 æ¶² 晶 の 開 発 責 ä»» 者 に 䌚 う 。 RCA 瀟 の æ¶² 晶 は
DSM(Dynamic Scattering Mode)ずいう方匏だった。さらに遠山はケント倧孊のファヌガ
゜ン教授にも月に䌚う。ファヌガ゜ン教授は RCA の DSM 方匏ずは異なる FEM 方匏
(Field Effect Mode)による液晶ディスプレむを開発しおいるずいう。この情報をもずに、第
二粟工舎・諏蚪粟工舎それぞれで液晶ディスプレむの開発が始たった。䞡瀟が最初に取り
組んだのは RCA 瀟が開発した DSM 方匏だった。DSM 方匏は電圧をかけるず電子が鉄砲
玉のように飛び出しお液晶にぶ぀かり、その組成を厩しお乱反射させるこずによっお像を
衚瀺させる方匏だった。DSM 方匏の研究開発を進め、詊䜜品もできたが、鮮明床が今䞀぀
なのず、駆動電圧がV ず高い点が気になった。そんな時ファヌガ゜ン教授から遠山に小さ
27
な液晶パネルのサンプルが届いた。
「手玙にコンマ䜕ボルトかの電圧をかけろず曞いおある。
そこで指瀺通り実際にやっおみるずたるで玙にむンクを垂らしたような鮮明さだった」ず
遠山は蚀う。今たでの DSM 方匏ずは鮮明床が違ううえに、分子配列を倉えるだけのため寿
呜も長い。駆動電圧も圧倒的に䜎い。FEM 方匏のほうが有望に思われた。それから幎、
商品化に向けお研究開発が進められ FEM 方匏の液晶ディスプレむを搭茉した最初のデゞ
タルクオヌツりォッチが商品化されたのは 1973 幎 10 月。䞖界初の桁液晶衚瀺匏クオヌ
ツりォッチ「SEIKO デゞタルクオヌツ 06LC」泚 8だった。
時蚈甚途以倖にはポケット電卓ぞの応甚が想定された。1971 幎には DSM 方匏の液晶衚
瀺䜓を搭茉したポケット電卓が開発郚で詊䜜され、商品化怜蚎のプロゞェクトチヌムが線
成されおいる。プロゞェクトチヌムでは開発郚が詊䜜したプロトタむプをベヌスに量産前
提でデザむン、蚭蚈、䞻芁郚品の調達、生産ラむンなど総合的に怜蚎し、量産詊䜜たで進
めた。液晶ディスプレむに぀いおも DSM 方匏では癜昌での芖認性を䞊げるために、光を遮
断する「フヌドが必芁ずなるため、ディスプレむは芖認性が高く光を遮断する必芁のない
FEM 方匏に切り替えるべきだずいう意芋もたずめた。結果ずしお電卓ずしおの商品化は芋
送られ液晶衚瀺䜓だけの販売を怜蚎するこずが確認された。商品化に圓たっおは諏
蚪粟工舎の補造郚門内に液晶衚瀺䜓の技術補造専任セクションが蚭けられ、時蚈甚の商品
開発ず共に電卓甚・蚈枬噚甚など倖販に向けた商品開発が進められた。前述のずおり、時
蚈甚には 73 幎 10 月発売の 06LC 搭茉甚の量産が始たった。時蚈甚は極薄の高䟡な特殊ガ
ラスを䜿った液晶ディスプレむだった。䞀方、電卓甚や蚈枬噚甚は䟡栌が安くなければな
らないから時蚈甚のように特殊ガラスは䜿えない。普通の゜ヌダガラスで必芁な仕様・性
胜を実珟しなければならない。そのハンディキャップを乗り越えお衚瀺品質や信頌性を向
䞊させおきた。倖販甚液晶ディスプレむの商品化に可胜性が高たっおきた 1974 幎月時蚈
甚途以倖の液晶衚瀺䜓の開発・技術・補造郚隊が諏蚪粟工舎から信州粟噚に出向し、広䞘
工堎内に電卓甚液晶パネル量産工堎が蚭眮された。それから幎埌の 1975 幎月から本栌
的な量産がスタヌトしおいる。最初の倧口客先はカシオ蚈算機だった。営業は電卓メヌカ
ヌに぀いおは広䞘工堎の業務課が担圓した。電卓以倖の蚈枬噚メヌカヌ甚などは東京営業
所が担圓した。電卓以倖のアプリケヌションはデゞタル蚈枬機噚衚瀺のほかいろいろな電
子機噚に搭茉するクロックやポケットゲヌム機噚の衚瀺など技術の進歩ずずもにアプリケ
ヌションが広がっおいった。
泚 8SEIKO デゞタルクオヌツ 06LC
SEIKO デゞタルクオヌツ 06LC は䞖界初の桁液晶衚瀺匏クオヌツりォッチである。方匏の
液晶衚瀺玠子を採甚したこずにより平均䜿甚電力量が玄 1.5ÎŒW、衚瀺電圧が 36V ず、発光ダむ
オヌドや他の液晶衚瀺方匏DSM 方匏に比べお、ケタ違いに䜎いずいう特城がある。
28
第章
特品・IC 事業の起源
信州粟噚営業郚隊の掻躍を芋お、諏蚪粟工舎および関連䌚瀟は倧いに刺激を受けた。諏
蚪粟工舎の堎合は時蚈事業の本家本元であるため、販売暩をも぀服郚時蚈店を差し眮いお、
たずえそれが郚品であっおも、時蚈以倖の補品であっおも工堎サむドが独自に販売するの
はタブヌ芖されおいた。ずころが、クオヌツりォッチが普及するに぀れおアメリカやペヌ
ロッパ諞囜の時蚈䌚瀟からクオヌツりォッチ生産のために氎晶振動子、分呚回路、磁石、
モヌタヌなどのキヌデバむスをぜひ売っお欲しいずいう芁望が数倚く寄せられるようにな
った。瀟内では「キヌデバむスを倖販すれば SEIKO の優䜍性が倱われおしたう」ずいう意
芋が圧倒的に倚かった。そのずきにキヌデバむスを倖販しおも SEIKO の優䜍は維持できる
ず䜓圓たりでトップ局を説埗したのが業務郚長岡本達だった。その甲斐あっお、1976 幎
月には時蚈甚氎晶振動子の倖販がスタヌトし、11 月には垌土類磁石の倖販がスタヌトしお
いる。営業スタッフは諏蚪粟工舎および関連䌚瀟から次々ず集められた。
29
諏蚪粟工舎が開発したクオヌツりォッチ甚の氎晶振動子は独自の音叉型である。スむス
やアメリカ勢が甚いおいたのは「バヌタむプ」である。音叉型にするこずによっお時蚈で
は絶察条件ずなる小型化が実珟でき、か぀性胜が安定しおいる。しかも、バヌタむプは䞡
端をフリヌにし、自由振動させるため支持が難しく品質もばら぀くが、音叉型は支持構造
が簡単で耐衝撃性に優れるこず、呚波数垯域が䜎く䜎電力で皌動するこずなどたさに腕時
蚈向けの特性を備えおいた。量産を担圓した束島工業は倚くの困難を乗り越えおこの音叉
型氎晶振動子の量産䜓制を確立する。セむコヌのクオヌツりォッチの囜内倖のポゞション
が固たったのを確認しお倖販に螏み切ったものである。電話機やオヌディオ関係でアナロ
グ・デゞタル倉換が必芁な甚途の需芁をねらった。
垌土類磁石はこれもクオヌツりォッチの䞻芁郚品ステッピングモヌタヌ甚に開発された
ものである。モヌタヌは氎晶振動子そしお電子回路から䌝達された信号を針の動きに倉換
する圹割を果たす。ステッピングずは秒間歇に針を運針させるこずを蚀う。モヌタヌは
通垞は䞀䜓型であるが、䞀䜓型モヌタヌは倧きいので腕時蚈の䞭に入れるには無理がある。
諏蚪粟工舎が独自に開発した「オヌプン型ステップモヌタヌ」は、モヌタヌをいく぀かの
郚品に分けお腕時蚈の䞭に分散配眮する方匏である。オヌプン型ステップモヌタヌはセむ
コヌが特蚱を公開したこずにより、アナログ匏クオヌツりォッチの䞖界暙準ずなった。垌
土類磁石は高朚工業がこれもれロからスタヌトしお量産䜓制を確立した。垌土類磁石も氎
晶振動子同様、セむコヌのクオヌツりォッチのポゞショニングが固たったので、時蚈甚は
もちろん音響機噚・OA 機噚・ハヌドディスクなどのステッピングモヌタヌ甚に需芁が圚る
ずみお倖販に螏み切った。
1977 幎には日時衚瀺できるカメラ甚の液晶ディスプレむモゞュヌルが商品化された。こ
れは写真を撮圱した日時を衚瀺・プリントできるようにするデバむスで、塩尻工業が商品
化したものであるが、商品化を逡巡する塩尻工業や営業本郚長に察し圓時の諏蚪粟工舎営
業課小林政廣埌
セむコヌ゚プ゜ン映像機噚事業郚営業郚長が絶察に売れるず確信し
䞍退転の決意で塩尻工業のトップず営業のトップを説埗しお商品化に螏み切らせたもので
ある。小型の幎・月・日衚瀺液晶ディスプレむモゞュヌルは予想通りカメラ甚に売れた。
それどころか「写るんです」ずいう䜿い捚おカメラぞの搭茉も含めおほずんどすべおのカ
メラに搭茉され、日付衚瀺はたちたち業界暙準になった。カメラ甚液晶ディスプレむモゞ
ュヌルは垂堎をほが独占し、塩尻工業に期埅を倧きく䞊回る売䞊ず利益をもたらすヒット
商品ずなった。塩尻工業はセカンドブランドの時蚈組立がメむンの仕事であったが、自䞻
自立の粟神が匷く、特品郚門にも力をいれ、デゞタル蚈枬噚や「チョロキュヌ」などの商
品も手がけおいた。特品郚門は「アむデアの玉手箱」だった。
半導䜓事業の起源は、クオヌツアストロンの発売を目前にした 1969 幎 11 月、時蚈甚
30
CMOS
IC の開発に着手した時に始たる。翌 1970 幎月、実隓宀段階から、小芏暡生産
が可胜な本栌的蚭備を導入し、翌々幎の 1971 幎月、面積平方㎜に満たないで、時蚈甚
䜿甚で動䜜するもの分呚機胜およびステップモヌタ駆動甚信号波圢出力の機胜をもった
ものの開発に成功する。内䜜の CMOS
IC は 1971 幎 12 月から 38 系アナログクオヌツ
に搭茉される。時蚈甚開発はその埌さらに加速化しお進められるが、兄匟䌚瀟粟工舎
を支揎する圢で進められたプロゞェクトが新しい成果を生む。1978 幎月に䞖界初のメロ
ディ IC が開発され粟工舎のクオヌツクロック「電子メロディア」に初めお䜿甚される。メ
ロディ IC はその埌広く倖販されるこずになる。たた 1978 幎 11 月には枬定噚・事務機・医
療機噚甚に「産業甚タむムスタンダヌド IC」が商品化・倖販されおいる。半導䜓事業ぞの
参入は諏蚪粟工舎の瀟運をかけた倧英断でもあった。最先端の研究開発技術者を絶えず充
実匷化しなければならないし、巚額の蚭備投資を絶え間なく実斜しおいかなければならな
い厳しい業界である。リスクは倧きいが半導䜓業界ぞの参入タむミングずしおは最埌のチ
ャンスであるずしお決断した半導䜓専門工堎・富士芋工堎は 1980 幎月に完成した。
これらの特品・IC は IC を別にするずすべお関連䌚瀟で生産されたものであるが、時蚈
の扱いに準じ、倖販掚進の立圹者岡本達が率いる諏蚪粟工舎業務郚営業課が販売を担圓し
た。1978 幎ころは業務郚長岡本達、営業課長鶎石悠玀の䜓制で特品ず IC を取り扱っおい
た。その埌 IC 営業は半導䜓事業郚が盎接所管する䜓制に切り替えられ、1982 幎ごろの諏
蚪粟工舎の営業䜓制は業務本郚長岡本達、営業郚長岩谷勝匥埌セむコヌ゚プ゜ン専務取
締圹そしお半導䜓事業郚営業郚長鶎石悠玀埌゚プ゜ン販売、1993 幎退職、リコヌ
に転職ずいう䜓制に倉曎された。岩谷郚長傘䞋の営業郚では氎晶チヌム束島工業関係、
磁石チヌム高朚工業関係、モゞュヌルチヌム塩尻工業関係が競い合っお新芏垂堎・
顧客を求めおいた。営業担圓者党おが「倢」ず「情熱」にあふれおいた時代である。
以䞊
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参考文献
 平野光雄『粟工舎史話』粟工舎、1968 幎。
 線集委員䌚『SEIKO 時蚈の戊埌史』
。
 『THE SEIKO BOOK 時の革新者 セむコヌ腕時蚈の軌跡』埳間曞店、1999 幎。
 南条倪郎『セむコヌ゚プ゜ン成長の謎にせたる䞊・䞭・䞋』、1998 幎。
 セむコヌ゚プ゜ン株
『幎衚で読むセむコヌ゚プ゜ン』。
 「゚プ゜ンの歩みマむルストヌンプロダクツ補品の歩み」セむコヌ゚プ゜ン株
ホヌムペヌゞ http://www.epson.jp/ms/
朚村登志男きむら・ずしお
法政倧孊ビゞネススクヌル
むノベヌション・マネゞメント研究科教授
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